2013/12/31

今年もありがとうございました

いつも自由気ままに更新しているこのブログ。
思い返せば2011年の洪水の頃に書き始め、あまりにも気まますぎて
どなたが読んで下さっているのかもよくわかりませんが(笑)なんとか
今年も細々と書きつづることができました。

今年は公私共に色々とあり、自分のカンボジア移住史上でもなかなか
きつかった1年でありました。
いつものほほんと書いているのでいまいち皆さんには伝わらないかも
しれませんが、かなり厳しい1年だったのです。
今はまだ書けませんが、そのうちいつか書けるときがきたら書きましょう(笑


そんな厳しい中でもやってこれたのはなんといっても周りの皆さんに
恵まれていることが一番だと思います。
身近にいる友人、遠く離れた日本でいつも温かく励ましてくれる方々、
何をするにも一人ではなにもできないことを年々強く感じるようになって
います。


反面、一人の人間が対応できる人数の限界というのも感じます。

色々な方に知って頂いているのに、顔と名前を覚えるのが人一倍苦手な
私は不義理ばかりしているような気がして心苦しい限りです。



毎年恒例ですが年末にまたまた占いに行ってきました(笑
来年は新しいことを始めるのに適した年、また自分の右腕になる人物を
育てるのによい年になる、と言われました。

そして44歳以降で婚期が来ると。

あれ?カンボジアの占いでは42歳と言われたのですが・・・(苦笑
ちょっとずれてしまいましたが、まあそのくらいのんびりしたペースで
よいのではないかと思っています。

一度離婚しているので、もし万が一次があるとしたら焦らずにいきたい
のです。

そう、だからその前に今の仕事をさらに充実させて、自分の代わりになる
人を育てていく時間に充てたいのです。

目の前で起きていることだけに翻弄される日々ではなく、この日々の積み
重ねが自分の人生を彩る出来事になっていくことを忘れずに過ごしていき
たいですね。だってもう40歳になるんだもの(笑


皆様、よいお年をお迎えください。
この1年、気にかけて頂いて本当にありがとうございました。

この挨拶ができることも幸せなんですよね・・・。当たり前のことなんて
なにもないんだなと思います。

2013/12/09

息子のことを卒業生と分析した

いい加減に更新しろと怒られそうなので・・・(笑
前回、つづく・・・みたいな終わり方をしたのにすっかり時間が
経ってしまっておりました。
数少ない私のブログファンの皆様、お待たせいたしました(笑



現在一時帰国中の私ですが、帰国前に必ず部屋を訪ねて
来てくれる施設の卒院生、ラーヴォ。
彼とはとりとめない話をよくするのですが、今回は息子の話を。



息子が小さい頃から物を欲しがったり、ダダをこねて私を困らせる
ことがなかった理由、私なりの見解があったのですが、ラーヴォに
「なんでやと思う?」と訊いてみた回答です。

たっくん(息子)は小さいときからここでみんなと一緒に暮らして
きたでしょう?
当時の子どもたちは問題だらけでおかあさんはいつも悩んで
いましたね。
たくさんの子どもたちの問題を見ていたから、せめて自分だけは
おかあさんを悩ませないようにと気をつけていたんじゃないかと
僕は思うんです。


そして私も続けて言いました。

うん、そうかもしれないね。
でもね、反対にあの子は小さいときからここにいる子どもたちに本当に
かわいがられて育ったもんね。
たっくんのコップがみんなの優しさでいっぱいにあふれてきてたから
みんなのことを思う余裕があったのかもしれないね。


普通の人たちがコップをいっぱいにしてもらうよりもずっと早いスピードで
うちの息子はたっぷりあふれ出す状態にしてもらってきたと思います。
だから我慢だけしてきたわけではないのです。
でもラーヴォの言葉から歳の割に妙に落ち着いたところがある息子の
不思議な雰囲気に、いまさら納得の鈍感な母です(笑

もしラーヴォの言う通りであれば息子はすごいなあと思うんですが、
それよりも自分自身が子どもとしていた頃のことをこんなふうに
客観的に思い返すことのできるラーヴォを立派になってくれたなあと
思いました。

自分が育てた子どもとこんな話ができる日が来るなんて、2000年
当時は思ってもいませんでした。
とにかく教えることが多く、あれもこれもと問題が山積みだったことだけは
記憶にあります。
そんな私を息子なりに見つめてくれていたのかもしれないことをラーヴォから
教えてもらいました。

そのときは必死で見えていなかったものを今語り合えるって、おもしろいですね。

自分の息子と施設の子どもたちが自然に一緒にここで育ってくれて
いることに感謝したひとときでした。

息子の話はまだいろいろとあるのですが、気が向いたらまた書きたい
と思います。
ラーヴォ、いつもありがとうね。

2013/11/15

おそろしや・・・

学校への送迎時、車中で息子と話すと色々発見があります。


前は突然ポケットから石ころを出してきて、知らんけど入ってた~♪

・・・・・・・・・・・。

って、そんな発見じゃなくて・・・(苦笑

そのときの石ころ、まだ持ってます(笑



私の息子は幼児の頃の気持ちをよく覚えていて、そのときどんな
ふうに感じていたのかを話してくれます。

人前で騒いだり、ごねたりがまったくなく、ものすごくやりやすい
子どもでした。
それでふと「なんでそうやったん?」と訊いてみると、

「騒いでもなにしても買ってくれへんもんは買ってくれへんやろ。



時間の無駄



と思ってたから。」


彼は続けます、

「あんなぁ、ママが買ってあげたいとか喜んでくれるかなって思って買ってくれた
ものじゃないと、

気持ちよく受け取れへんやろ?



うっ・・・、そんなことを思っていたのか・・・。

どっちにとっても楽しくないものをもらうことは目的じゃない、と。

だからモノが欲しくてダダをこねている子どもを見ながら、「そんなんしても
誰も楽しくないやろ・・・」と思っていたらしいです。


中学生になった今だからそんなことが言えるのではないかと思う方もいる
かもしれませんが、

本当にモノを欲しがってダダをこねたことがない子なんです。

摩訶不思議な息子は今年15歳。


でも私はなんで彼がそういう性格なのかわかっています。
その話はまた今度・・・。

2013/11/14

信じるかどうかは自分次第

カンボジアでは結婚や仕事、家を建てるときなど人生で大きな
一歩を踏み出す前に占い師のところに行くことがよくあります。

それはお寺のお坊さんの時もあるし、一見普通の民家に住む
普通のおばちゃんだったりもします。

私も年に1回くらい行きます(笑

なぜ行くの?と訊かれてもよくわからないし、物事を決めるときに
すべてその結果に従うというわけでもありません。
心に留め置いている、というのが正しいかもしれません。

ここでは大小様々な決断を一人でやっていかないといけない
ことが多いので、よりどころが欲しいのかもしれませんね。

ということで、卒業生のラーヴォがお勧めのすごい占い師さんの
ところに行ってきました。
カンボジア各地の聖地で修業を積んできたという占い師のおばさん。
見た目は人懐っこそうなちょっとぽっちゃり系(笑

なんだかよくわからない一連の儀式(線香で聖水をかき回したり・・・、
ろうそくのろうを聖水にぽたぽた落としたり・・・、いきなりウッ!と
うめいたり・・・etc)
それが終わるとめっちゃ普通の顔で「何を聞きたいの?」と言われました(笑

仕事に関してのアドバイスがあれば・・・、おずおずと言ってみると、

「今月は新しいことは始めちゃだめよ。来月ならいいけど。
どうしても今月ならいい日と時間を教えてあげるから。」
うんうん、メモメモ・・・書き書き・・・(笑


「ところであなたの仕事場どこにあるの?」と訊かれて、ワットボー(お寺)の
近くです、と答えるや否や・・・

「土地の神様、ちゃんと祀ってる??
あなたが自分のご先祖様を大切にしているのは見えた、でも土地の神様
を敬わないと・・・」


見えた??むむ・・・
たしかに私は自分の部屋で母にお線香をあげる一角を作っているのですが。

「外においている祠(土地の精霊を祀る小さい家のようなもの)の方角が
よくないみたいだから、今度見に行ってあげる、11月13日ね。」

そんなこんなでその日に土地の神様にお祈りする儀式が執り行われることに。
儀式についてはこちらから。

私の掌を見て、「この2年くらいで物事が進むようになったね」と。
はい、2年前に離婚しましたから(笑
通訳のラーヴォも微笑。

「あなたは見た目は女性、でも中身は男性よ」と。
わかってます、もう何度も言われてきましたゆえ・・・(泣
すかさずラーヴォが「決断の仕方が男性的という意味です」とフォロー(笑

最後に聞きたいことはないのかい?と言われて、

えーーーっと・・・私ってまた結婚するんでしょうか?

と訊いてみると、「2年後にチャンスがある」ときっぱり言われました。

そうか、2年後か・・・、男みたいな女にもチャンスが来るんでしょうか(苦笑
ま、それはそのときのタイミング、かな・・・。


土地の神様へのお祈りもすませました。
以前はそういう風習をあまり信じない私だったのですが、カンボジアに
暮らして13年、ここにはここの人々が大事にしていることがある、それに
従うことも必要かと思うようになりました。

お祈りすればなにもかもうまく行くということではないけれど、前向きになる
きっかけをもらえるように思います。

信じるも信じないも自分の気持ち次第、ですね。

2013/11/11

呪われてなかった

ここ数カ月、車では災難に見舞われています、私。

忘れもしない今年の8月息子の誕生日、ちょっとスーパーに
お買い物。

レジでお金を支払った直後に外でドカーーン。

???
また事故かな・・・
(カンボジアでは接触事故は日常茶飯事)

と、駐車場に目をやると・・・

あ、あわわわわわ

私の車の側面、直角にバイクが激突していました。
がーーーーん。

私の車はピックアップトラックなので乗り込むためのステップが
ついているのですが、ステップ見事に破壊(苦笑
(修理代は全額弁償してもらいました)


そして数日前。
アンコール小児病院前の道を走っていたところ。
前のルモー(荷台を取り付けたバイク)が停車。
かなり大きな(幅のある)荷物を載せているルモーだったのと
対向車もありですぐに追い越せずそこでそろーーーっと停車。
(決して急停車じゃないですよ、ゆっくり走行してましたゆえ)

と共に、ドスン!

ドスン・・・??
・・・・・・・・・・・・え??

振り向くとバイクが私の車に突っ込んでました。

あ、あわわわわわわ(再び)

慌てて外に出てみると、いわゆるオカマというやつをされており、
バンパーがボコっと・・・・。
がーーーーん。

しかしながらそのバイクの運転手、勝手に突っ込んできたにも
かかわらず、おなかをぶつけて痛いというしぐさをやめません。

「なにをしていらっしゃるのですか、あなた」
(を、激しい関西弁バージョンで)
と言うと、

一目散で逃げてゆきました。

逃げた・・・。
がーーーーーん!

当て逃げは普通のカンボジア、わかってますよ、わかってます。
でも・・・「ごめんなさい」って言えばいいのにといつも不思議でなりません。
格差の大きな社会なのでどう見ても弁償できなさそうな人からむしり
取るつもりもないし・・・。



あかん、この車呪われてる・・・。
一回目の事故(とはいえ、私は駐車中なので100%過失ナシオ)の
あとですぐにお祓いもしたのに・・・。


一連の話をとあるママさん仲間にしました。

「もうね、この車呪われてるねん。ほんま・・・。」
というと、

「何言ってるんですか博子さん!この頑丈な車だったから博子さんが
守られたんじゃないですか!」



ポロリ・・・(うろこが落ちた音)


そか・・・、ナルホド。


車が呪われていると思い続けていた私、このお母さんからの一言で
一気に救われました。(単純か・笑


うん、ありがとう、そうね、これがバイクだったり小さい車だったら・・・
自分が怪我してたね。

気持ちに余裕なかったんだなあ、私。


2013/11/07

第3回KOBE豚まんサミット

11月11日、豚まんの日って知ってました?

11が豚の鼻みたいだからだそうです(笑

今年で3回目になるKOBE豚まんサミット。毎年行きたいけど絶対に
日本にいない時期に開催・・・(泣

でも日本にいる皆さん、ぜひ行って下さい!
大学時代の友人・安藤孝志くん(三宮一貫樓常務)が発起人の
一人なのです。

第3回KOBE豚まんサミット

JR神戸線・元町駅下車すぐ南京町(中華街)周辺が会場です。

発起人豚まん詰め合わせセット、食べたいです・・・(笑

母校甲南大学の学生さんたちが考えた豚まんや、日本3大中華街豚まんセット、
その他いろんな豚まんが大集結です。

このイベントの収益の一部は東日本大震災支援事業に利用されるそうです。

神戸から東北へ、ここに意味のあるイベントだと思うので私はいつも行けない
けれど、毎年応援しています。
今は気持ちだけしか参加できないけど、いつか自分も本当にその場にいたい
と思っています。



2013/11/03

好きですと言いたいけれど

近年の自分の中にあるテーマ、伝えること。

やりたいなと思うことをおぼろげに思い描いていると、それに近い
ものになっていくことが多いなと思います。

たまたまカンボジアの人と結婚したことで今の仕事をすることになり、
今ではそれがかけがえのないものとなりました。

施設の子どもたちも含めて、自分が何かを伝えたいとき、批評や
一般論は話したくないと思っています。
何を伝えるにしても経験という裏打ちが欲しいと。


伝えるときに難しいなと思うのは、聞いてくださる方にとってもし
カンボジアの話を聞くのが初めてだった場合、私の話がカンボジアの
すべてだと思われてしまうのではないかということ。

私の話は、私がシェムリアップのスナーダイクマエと言う施設での
経験を通じて得た自分なりの解釈なのだということも含めて
お伝えしていくことを心がけたいと思っています。


お話することが好きです、と胸を張って言いたいのですが、まだまだ
そんなふうになれないのが現実。

でも私がやりたいのは「伝えること」。

カンボジアで関わっている子どもたちに伝えたいこと、日本人として
日本の方に伝えたいことの両方があります。

いつか「お伝えすることが好きです、それが自分の喜びです」とはっきり
言えるようになろう。
思っているとそうなるはずです。




明日、カンボジアにいったん戻ります。
移動の前日は基本的に予定を入れないようにしているので、いつも
一人でいろいろと考える時間になります。

今回はそんなことをぼんやりと思いながら昼寝。至福の時です。


いつもへらーっとしてますが、意外と真面目です(笑

妄想ばかりしているのでへらーっとしているように見えるんでしょうね。

2013/10/21

和歌山から奈良へ【絵画展示と学習会のおしらせ】

子どもたちの日本渡航、早いものでもう前半が終わろうとしています。

今日は後半部で予定されているカンボジア学習会や絵画展のお知らせを・・・。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


スナーダイクマエの子どもたちの絵画展示

10月23日(水)・24日(木)
@みそら屋(奈良県磯城郡三宅町保健福祉施設「あざさ苑」内)
午前10時から午後3時まで

10月24日(木)
@社会福祉法人ひまわりの家
午後5時から



カンボジア学習会

10月24日(木)
@社会福祉法人ひまわりの家
午後6時から
「カンボジアの子どもたちと共に生きて」 メアス博子
参加費 500円
問い合わせ: 0744-33-8585 反差別・人権交流センター絆

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

今回の奈良滞在、上記の絵画展示や学習会では下記団体・学校の皆様に
大変お世話になっています。

社会福祉法人ひまわりの家
反差別・人権交流センター絆
磯城郡川西町川西小学校



6月以来のお話会ですね・・・。
準備はしているものの、やはり・・・緊張するのでうまく話せるかどうか。

このブログにちょこちょこと書き綴ってきたことに加えて、直接語りかける
機会だからこそできるお話をと考えています。

2013/10/15

13年ぶりの秋

私の地元は和歌山県海南市。
実家から車で30分ほど行ったところに「りら創造芸術高等専修学校」が
あります。
今年の夏、全国でいのちについての講演をされている同じく海南市在住
の岩崎順子さんとトークイベントでご一緒させて頂いた際に、この学校の
学生さんたちとつながりができました。
学校にもお邪魔して生徒さんたちに少しだけカンボジアや施設のことを
お話したのですが、そのときの訪問の目的は「打ち合わせ」。

なんの打ち合わせかと言うと、毎年この学校が会場となり開催されている
「世界民族祭IN真国」の特別企画に私と施設の子ども2名が参加させて
頂くためです。
民族祭についてはこちらから

学生さんたちが「りらプリン」と名付けた手作りプリンを販売し、子ども2名の
渡航費の一部を負担して下さると言うお話。

そして民族祭のプレイベントとして和歌山電鉄貴志川線車内で、子どもたちの
絵画展示をして下さると言うことなのです。
こんな感じで展示されています


カンボジアに来てから地元和歌山の方々ともご縁はありましたが、海南市
の皆さんに施設のことを知って頂く機会は少なかったように思います。
2年前から和歌山市で絵画展を開催させて頂けるようになって、少しずつ
周知して頂けるようになりました。

民族祭当日(10月19日(土)・20日(日))にはスナーダイ・クマエとして
ブースを出す機会も頂きます。
子どもたちの絵画展示、オリジナルグッズやカンボジア雑貨の販売も
行います。
施設の説明や子どもの日本語スピーチ発表もあります。
すでに県内外から「行きます」との声が多数、ありがたいですね。

明日の今頃にはすでにカンボジアを飛び立っている予定です。

もちろん日本どころか外国に行くのが初めての子どもたち2名は数日前から
そわそわしていますが、私もそわそわ(笑

なぜなら、カンボジアに移住してからこの13年、一度も秋に帰ったことが
ないからです。

今晩寝れるかどうか・・・(笑

食欲の秋を堪能・・・ではなくて(笑)、子どもたちにとって実りのある滞在に
なるようにしっかりサポートしてきたいと思います。



2013/10/07

卒業生のはなし② ラーヴォの巻

「この中で一人だけでもあなたの気持ちを理解してくれる子どもが
いたら、それでよかったんやと思いなさいよ。多くを求めたらあかん。」

施設を訪れたときの母の言葉です。もう10年以上前でしょうか。



私にとってまさにその一人だと実感している卒業生、それがラーヴォです。


幼き日のラーヴォ
私が施設に来てすぐの頃、子どもたちは上記写真のような高床の小屋で
生活していました。
ラーヴォはまだ小学生、ものすごく華奢で、太ももに隙間が合って向こうが
見えてしまうくらいにガリガリでした。

日本語を学ぶ機会のあった当時、25名ほどいた子どもたちの中でもダントツ
に日本語習得能力の早かったラーヴォ。
私との日常会話はほぼ日本語でした。

ミーティングの時、私が語りかける内容にまっすぐな視線を向け、一生懸命
聞く子どもの一人でもありました。

高校を卒業し、就職してからも気軽に私の部屋に遊びに来て何時間も
おしゃべりをすることを私も彼も本当に楽しみにしています。

今はガイドや通訳、テレビのコーディネーターなどをしながらも、夜間の大学に
通っています。(日本の有名な方には私以上に会っています・笑)
就職し、何年かしてから資金をしっかり貯めて念願の大学生になったのです。
そんな彼から見ていると、卒業してすぐに仕事と大学を両立させようとする
最近の卒業生には「ちょっと早すぎるんじゃないの?」と言いたい気持ちも
あるようです。
それでも彼の存在があとを追う卒業生たちの目標となっていることは
間違いありません。


私がスタッフや子どもたちのことで悩んでいるとき、ラーヴォが心のよりどころに
なったことが何度あったでしょうか。
私の伝えたいこと、本当の気持ちを心底理解してくれるという実感。

落ち着いていて、特に感動的なことをいうわけではないけれど、タイミングを
逃さずに様子を見に来てくれたり、話を聞いてくれたり・・・
私もどちらかというと「わかりづらい」と言われるタイプなので、ラーヴォの
実はその人のことをちゃんと思っている気持ちがすごくよくわかります。

ラーヴォ(右)すっかり貫禄満点
10月半ば、子どもたち2名が日本渡航を控えています。
カンボジア人は日本に行く際には保証人をつけてビザ申請しないと
いけません。カンボジアでその書類を受け付けてくれるのは首都
プノンペンにある日本大使館のみ。
私が忙しいことを知って、ラーヴォが書類提出に行ってくれました。

「僕プノンペンに行きますよ」

さらっというので、私は彼が他にも用があると思ってお願いしました。

到着して「もう提出しました」と報告をくれたので、「ほかになんの用があって
プノンペンに行ったの?」と聞いたら、「なーんにもありませんよ 笑」と。

子どもたちの書類提出のためだけにバスで6時間ほどかかるプノンペン
まで、私の代わりに行ってくれたのです。
すぐにとんぼ返りしてきたラーヴォ。

日本の感覚で言うと、関西から「東京行ってきますよ」くらいの感じです。

私はこんなふうにしてラーヴォに助けられ、甘えてきたことが何度あるか・・・。


彼は今、村の家族の中でも大黒柱となっています。
幼い時に亡くなった実のお母さんのための法事を取り仕切り、自宅の
改造費も彼が出していました。

さらに親戚の中で教育の機会のない子を学校に通わせていました。
その子が無事に卒業となったときにはじめて私にそのことを告げました。
「自分がしてもらったことを今は自分が他の人にできるようなった、そのことが
自分でも感慨深い。ここまできたんだなと言う気持ち。」と。


私の母が言った「ひとりでも・・・・」、これが私の胸によみがえったときでした。

私は「自分のしてもらったこと、教えてもらったことを別の人につないで
いくこと」を子どもたちにわかってほしい。

私が母からもらったものが子どもたちに、そして子どもたちがまた別の人たちに。

ラーヴォが帰ったあと、本当に胸が熱くなりました。

「おじゃましまーす」と言いながら笑顔で部屋に入ってくる彼の顔がなによりの
励ましになっているのです。

2013/10/05

卒業生のはなし① サヴィーの巻

2000年、プノンペンから半日以上かけて車でシェムリアップに
到着した私。
車から降りたとたんに20名以上の子どもたちに囲まれて、

「おかーさん!」

と、言われました(笑

末っ子、いとこの中でも最年少、そんな環境で育った私はいつも
みんなのあとを追いかけてばかりで、小さい子と遊んであげると言う
経験があまりなく、正直なところ子どもは苦手なほうでした。

どうしよう・・・という思いの方が強かったかもしれません。

そんな私が13年も子どもたちと共に暮らし、やめることなくここまで
これたのは本当に不思議です(笑

ちょっとお休みしていましたが、また書いてみようと思います。
今度のシリーズは卒業生のことにします。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

今は旅行会社で事務の仕事や、農村にお客様を案内するという
仕事をしてるサヴィー。

社会人になって3年目です。

施設にいた時はおとなしい印象。
入って来た時は弟も一緒でしたが、弟は結婚したお姉さん宅に
引き取られて行きました。

卒業になってもなかなかやりたいことが見つからず、他の子たちが
就職を決める中でずっとうちに残っていました。

公私共にお世話になっている写真家・足立君江さんのご紹介で
カンボジアティータイムというお菓子の製造販売会社に就職させて
もらいましたが、翌年退職しました。

その際には社長さんからお電話を頂きました。
「私たちの会社でのことは今後の経験にしてもらえればいいのです。
彼は自分が旅行会社で働きたいときちんと話してくれました。
これからの活躍をお祈りしています。」

器の大きな方だと思いました。
私も小規模ながら人を雇用させてもらう立場にいますが、辞めていく
スタッフにこんな言葉をかけられるかどうか・・・。

そして今、サヴィーはピースインツアーアンコールと言う旅行会社で
社員として働かせてもらっています。

仕事も順調、会うときの表情は明るく、爛漫で裏のない性格には
いつもほっとさせられています。
9月の終わりか10月の始まりか忘れましたが、サヴィーがフェイス
ブックにこんな投稿をしていました。

(うろ覚えですが・・・)
バイバイ9月
いつも応援してくれているみなさん、ありがとう。
おはよう10月
これからもがんばります。
サヴィーの許可を得て掲載 笑
上記の写真つきで。



私が「また遊びに来てね、日本のお茶を一緒に飲みましょう。」とコメント
したら・・・




おかあさん、いつもサポートしてくださってありがとう。

いつまでもおかあさんの優しさ忘れません。

おかあさんのおかげでこの日がある。

おかあさんがいなかったら私は将来の夢を見つけない。

ありがとう、ありがとう。

私はおかあさんのためにできること1つもない。

ありがとうという言葉しか言えない。

ありがとう。これからもよろしくお願いします。





こんなコメントを返してくれました。(日本語で、ですよ)

できることは1つもない・・・なんて・・・全然そんなことない!
こんなその場で倒れてしまいそうなほどうれしい言葉をくれているん
ですもの。

私がここで前に進める原動力の1つ。
それは卒業生たちの存在です。

いつも自信がなさそうで、困ったような顔をしていたサヴィー。
人の前に出て目立とうとすることはなく、陰でコツコツと努力するタイプ。
そんなサヴィーが今では自分の気持ちを自分の言葉ではっきりと
表現できるようなったことがわかって、ほんまにほんまにうれしかったです。

一緒に暮らしていた時は厳しいことをいうときのほうが多かったと思います。
でも今になってそれが優しさだと気づいてくれたことがなによりの
喜びです。

小さい時に知らない人だらけの施設に連れてこられてどれだけ心細かった
でしょうか。
私が彼にとって支えになれていたのだとしたら、そんなに幸せなことは
ありません。






2013/09/25

関わり続けてもらうこと

少し前に「じぶんのやくわり」と題して、カンボジアに移り住んだ頃からの
話を書かせてもらいました。

施設にも来たことがあり、夏の絵画展を何年も手伝ってくれているAちゃん
からこんなメッセージをもらいました。

施設のブログにあった子どもたちが自主的に日本語教室を開いて教え
合いをしている場面、博子さんの最近のブログで昔の様子を知ったけれど
当時からは想像もつかないことですね。

施設のブログはここから


素直にうれしかったんです、この言葉。

孤児院という活動は期間を限定したプロジェクトとしてはやりづらく、
子どもたち一人一人の成長度合いも違えば、みんなのバックグラウンドも
様々、そして年齢や性別によって対応の仕方も変わってきます。
そんな中で徐々に「スナーダイクマエのかたち」ができてきたのだなと
思います。

スタッフや子どもたちだけではなく、施設創立の最初から今に至るまで、
私がここに来てからこの今日の日まで、中断することなく支援を継続して
下さっている方もいらっしゃいます。

絵画展のお手伝いを毎年欠かさずしてくれる若い子たちもいます。

在住の、そして日本にいる友人たちには何度も支えてきてもらいました。

シェムリアップに来てから13年(プノンペン時代を入れると15年)、
ずっとずっと関わり続けてくれる人たちがいたから、子どもたちもこんな
ふうに変わることができたのだと思います。

先頭に立つ私が精神的に参ったり、核となる部分がぶれたりすることで
活動が立ち止まってしまう状態になりかねません。
心に余裕がないとスタッフにもうまく指導ができないし、子どもたちに
笑顔で接することもできなければ、細かい心の動きに気がつくこともでき
ないのです。

いつも表舞台に出してもらうのは自分ですが、そんな私を陰で支えてくれる
たくさんの方がいるから今があると思います。

そういう方々にいつまでも関わり続けてもらえる自分でいたいです。
子どもたちを育てているのは私一人ではなく、皆さんと共になんですよね。

しっかり者に思われがちですが、実際はそうでもない頼りない私なので
皆さんがいないとなにもできないのです。






2013/09/18

写真とかも載せてみますか

20130915 雨季の食堂
最近のお気に入りの1枚です。

カンちゃんとピサール。

ほんまきまぐれですが、たまーーに自分で撮った中で好きな写真も
載せてみることにします。

でもほんまきまぐれですからね 笑

2013/09/12

えんえん

このブログのプロフィール写真、実はもうかなり前に撮影したものです。
撮影してくれたのは元AERA所属の遠藤俊介君。

遠藤君は学生時代から数え切れないほどカンボジアを訪れて、長い
ときは半年ほど滞在。
ぼろぼろのスーパーカブにまたがり、カメラを携えて田舎の遺跡を
めぐっていました。
そんな中で出会う村人たちとの触れ合いをとても大事にしていました。

そんな彼から国際電話があり「ねーさん、白血病だった・・・」と告げられた
ときは絶句しました。
私の息子は電話を切った後「どんぐりぼうずは絶対に大丈夫やからね」と
泣きながら言いました。
息子は彼をどんぐりぼうずと呼んでいて、カンボジアに来た時はよく
相手をしてもらっていたのです。

2007年7月、入院中の彼を見舞うために新幹線で移動中に
訃報が・・・。
絶対に治る、絶対にもう一回カンボジアに行く、ねーさんに会いに行く、
と約束していた彼にもう会えないことがしばらくは信じらませんでした。

彼が亡くなる少し前、私は最愛の母を急性心不全でなくしていました。
続いて友人までも。

もっと生きてすることがたくさんあるはずの人たちがこの世を去って
いく、どうしてこんなことに、どうしてこの人たちじゃないといけないのか。

考えても考えてもいまだに答えは見つからないままです。


カンボジアが大好きだった彼をカンボジアのお寺に祀ってもらうことを
お母様から提案され、微力ながらお手伝いをさせてもらったのですが、
今日、彼の母校である東京工芸大学の現役学生の方が施設を訪れて
くれました。
遠藤君の後輩にあたるTくんの手には、遠藤君が亡くなるほんの少し
前にできあがった彼の写真集が。

この子の瞳の中に遠藤君が写っています
「カンボジアの子どもたち」
遠藤俊介
連合出版
施設の子どもたちに見せたいということで持ってきてくれたのです。

Tくんは施設の場所がわからず、市場の近くにある雑貨屋さんで日本語の
できるカンボジア人に声をかけて場所を訊いたそうです。
それがなんとうちの卒業生のサイハー。
知ってるもなにも自分が住んでいた場所(笑
バイクに乗せて連れて来てもらっていました。

少しお話をして遠藤君のいるワットアトビアという寺院に移動しようと
思ったその時、別の卒業生サヴィが施設を訪ねてきました。
一緒に行こうということになり3人でお寺に。

サヴィの案内で無事にお坊さんと話もでき、お参りを済ませることが
できました。

ワットアトビアは遺跡があり、そのすぐ横に寺院があります。
遺跡が大好きだった遠藤君、ここなら満足してくれるかなと、そんな思いで
このお寺を選びました。
この遺跡のすぐ外が寺院


卒業生がTくんを孤児院に連れて来てくれて、また別の卒業生がお寺まで
案内してくれる・・・。

これはきっと遠藤君のいたずらやね、とT君と笑いました。

ふと車の外を見たときの景色
えんえんと一緒に見ている気持ちで・・・


えんえん(と私たちは呼んでいました)、ご無沙汰してしまってごめんね。
また会いに来るよ。


生きたくても生きることができなかった人たちが身近にいる。
そう思うと命がある限り精一杯生きようと思うのです。
後悔のない人生を。

立ち止まりそうになるときに背中をそっと押してくれる、そんな人たちなのです。

2013/09/04

じぶんのやくわり⑦

2009年のある日、久々に施設を訪れた夫が私に告げたのは
離婚の意思でした。
口に出さなくてもそうなるだろうと思い続けた何年間があったので
私としても当然の流れ、落ち着いてその話を聞いていました。

君と僕は合わない


彼のその言葉から1年、離婚にかかる手続きはようやく終わりました。

戸惑いや葛藤、忙しさにまぎれて一番大切なことをないことにして
過ごしてきた自分にとって離婚という着地点が見えたことで正直な
ところ、やっとここに到着した、ようやく彼から卒業できるという
ほっとした気持ちでいっぱいでした。
向き合うべきものを避けてきた日々のほうがよっぽどつらかったと
思います。
避けてきた結果、私は夫がどういう人なのか最後の最後までわから
なかったし、それはきっとお互いにそうだったのでしょう。



さて、これで私のスナーダイ・クマエでの立ち位置をようやく明確に
することができました。

最初は何ができるのかもわからなかったこの場所で、ゆっくりと時間を
かけて自分がさせてもらえることを見つけてきました。

子どもたちと掃除に明け暮れた日々、
一緒に泣き、笑い、共有してきた時間、
叱っては嫌われ、叱り続けてようやく私の気持ちも伝わり、
喜びを分け合う幸せがあります。

私にとっての「役割」は、ひらがなで書く「やくわり」のほうがしっくりきます。
マイペースで、楽観的、そして長期的な視野で子どもたちの成長に合わせて
やくわりを変えていけばよいのだと思っています。

離婚をきっかけに心の余裕ができました。
もう前の夫の施設ということを前提に「役割」を演じる必要がなくなりました。
私にとってあの日を境に新たな心構えでスナーダイ・クマエに向き合う
ことができるようになりました。

子どもたちと私のいる場所として、子どもと同じように成長し続ける
スナーダイ・クマエと共にのんびり歩んでいくこと。
その中で、親から伝えてもらった大切なことを子どもたちにつないでゆき、
活動を支えてくれている方々への感謝の気持ちを子どもたちと一緒に
感じ、そこから他者への思いやりを生み出していくこと。

私がここで生きていくことができるのは、自分にとって大切な人たちがいるから。
一人ではないと思わせてくれる支援者の皆さん、友人たち、関わって
くれているすべての皆さんがいたからです。
子どもたちにも「一人ではない」ということを感じ、強くて優しい人になって
欲しいと思っています。


漠然としていて、はっきりこれといえるものではないけれど、私にとって
スナーダイ・クマエにおける「じぶんのやくわり」は必要に応じて変化して
ゆくのだと思います。
核になる部分だけがぶれなければそれでよいのです。

これからどんなふうに変わっていくのか、自分でも楽しみです。
誤った執着心でみんなを縛り付けることのないように、柔軟な心で細かい
動きを見つめていこうと思っています。

それそのものが「わたしのやくわり」なのかもしれません。


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

⑦まで書いた「じぶんのやくわり」、いったんここで終わりたいと思います。
かなりかなりはしょって書いていますので、また気が向いたらテーマを
絞って書きたいなと思っています。

前から書こう書こうと思いつつ、なかなか進まなかった作業でした。

ここまでお付き合い下さった皆さん、ありがとうございます。
また突然何かが始まるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします。





2013/09/03

じぶんのやくわり⑥

ふう・・・とうとう⑥まできてしまい収拾がつかない感満載となって
参りましたワタクシのブログ・・・(笑
そろそろまとめに向かって書いてゆきたいと思いますので、もう
少しだけお付き合いお願いします。



こうして徐々に子どもたちとの距離をつめてゆき、共有する時間、
体験が増えていったこの頃の私。
それでも一番の悩みは、気持ちを伝えきれない、ということでした。

クラスメイトにすぐに先生になついて仲良くするような子がいましたが
私は全然そういう風にできない子だったので、子どもたちが容易に
心を開かなくても「ゆっくりいこう」と思えたのかもしれません。


管理運営責任者という肩書きからは程遠く、毎日毎日子どもたちの
時間割を作り、それにそって一緒に行動するということを続ける
しかありませんでした。
他にしていたことはスタッフミーティングと会計、お礼状や報告書の
送付、メール返信などでした。
いつからか時間割の作成や週間、月間の予定をスタッフが自分で
できるようになり、報告を受けてチェックするようになりました。

子どもたちを叱っても、翌日には普通に「おはよう」から始まるように
なったのもいつからかはっきりと覚えていません。
それまでは叱った後3日くらいは私を避けたり、ひどいときはみんなと
同じスケジュールを無視し、食事も拒否されることも。
そのたびにむなしい気持ちともっと近づきたいという思いの間で
いったりきたり。

一度自分が真剣に関わった人たちとの関係を簡単に放棄することが
嫌いな自分に気がついたのもそういった経験からかもしれません。


現場にいる私が夫の教育方針(厳しく叱りつけるやりかた)に合わせず
自分なりに「時間がかかっても理解させていく」というやり方を続けて
いくことで、夫に選ばれて働いていたスタッフが混乱することもあり
ました。
「自分にとってのボスはどちらなのか」と。
それでも私が現場でやって行く姿を見てスタッフが理解を示してくれて
いたと思います。
それに反比例するように夫との溝は深まって行きました。
次第に孤児院運営に興味を持たなくなった夫。
こんな状況でこの先どうしていけばよいのか・・・と。

一時帰国したときに友人が言いました。
「こうでないといけないということなんてなにもないんじゃないのか。
気持ちをニュートラルにして、自分のやりたいと思うように持っていけば
いい。」
たしかにその頃の私は「これしか選択肢がない」という考えにはまって
しまっていたように思います。

最近のことですが違う友人に、「私は長年ここでやってきたけど専門と
呼べるものはなにも持っていない。」と話すと、
「あなたの立場は専門ではなく、総合的に物事を把握できればよい。」
と言われました。

この二つの言葉、そのときの状況は今でもよく思い出します。

2000年からここで暮らし始め、どたばたと過ぎていく日々。
そこから少し余裕を持って全体を見ていこうと思えるときがきました。
いつかこの日が来るだろうと心していたときがやってきたのです。

それは11年間離れて暮らしていた夫の口から出た言葉で始まりました。

2013/09/01

じぶんのやくわり⑤

もう⑤になってしまいました(笑
なんとなく書き始めてしまったのでなかなかまとまらない
模様です・・・。




私が施設に行ったばかりの頃に決まっていたのは、食事の時間と
牛に草を食べさせる当番、そして夜間の自習時間でした。
それ以外は適当に好きなように過ごしている様子。

そして物がなくなったりしてもみんなどこ吹く風。
知っているかどうか訊いても関係ないという感じで「しりません」で
終わり。
どこかが壊れて「誰がどんなふうにやってしまったのか」と訊いても
「しりません」。

うーーーん・・・。
怒られると思って言わないようでした。
たしかに夫やスタッフの対応を見ていると、そうなってしまった理由
を訊くわけでもなく、どうしてそれがだめなのかを説明するでもなく、
ただ「怒って」いました。
私も子どもだったらひた隠すわ・・・と思うくらい。


まずは理由を訊くこと、怒りたいのではなく理解してほしいと思って
いるということをわかってもらわないと伝わらないなと思いました。


当時は今のようにみんなが仲良くしていたわけではなく、そのときどき
で対立していた男の子たちの顔いろを見てグループに分かれてしまう
ことがよくありました。
あるとき原因は何か忘れましたが、一番体格のいい男の子と少し
小さめの子が口論になり、わめき声を聞いた私がかけつけたときには
小さい子がレンガを振り回して殴りかかろうとしていました。

まずいなあ・・・と思い、気が付いたらその二人の間に割って入って
いました。
殴られるかもしれないと考える暇もなく・・・。

150cmで小柄な私が自分よりも大きな男の子がつかみ合いの殴り
合い、しかも手にはレンガと言う状態の間に入って行ったのでみんな
驚いていましたが、さすがに私を殴りつけるわけにもいかずなんとか
その場は収まりました。


けんかのあとにみんなを集めてちょっとしたミーティングをしました。
二人だけが悪かったのか、その前から周りの人が何かできることが
あったのではないか、私の問いかけにそのときの子どもたちは何も
答えることはできず、最後に二人が謝って終わりました。


なるほど、ちょっとずつわかってきました。

自分で物事を考える機会を与えられていないんだな、と。
自分に注目し、気になることを助言してくれるその裏側にある思いやり
に気づく機会もなかったのかもしれません。

でもそのときの私にはまだ敷地内を清潔にすることしかできなかったのです。

なぜなら、叱って聞いてもらえるほどの関係を子どもたちと作れている
とは思えなかったから。

朝6時に起きて掃除をしたり、ちびっこの洗濯をしたり(たらいに5杯分くらい
です・笑)、食事の後片付けをしたり・・・1日24時間では足りないくらい
とにかく掃除、洗濯、洗い物の日々でした。

あるとき女の子数名が言いました。
「おかあさん、洗濯はもうしなくてもいいです。私たちが手分けしてやるから
休んで下さい。」

子どもたちとの関係が少しずつできてきたかな、と思える瞬間でした。




2013/08/31

じぶんのやくわり④

思ったよりも長編になってしまいました。
お付き合い頂いている皆さん、ありがとうございます。


こうして始まった私のシェムリアップ生活(じぶんのやくわり①②③参照)、
することが欲しかった私は「できること」がなんなのかわからないままに
まずは施設のあるシェムリアップに行ってしまうという、思い返せば
考えなしの行動に出ました・・・。

私の住む場所は敷地内に建設中だった新しい宿舎の1階の一角。
オフィスになる予定である作りかけの部屋でした。
窓は鉄格子が入っていたもののガラスサッシはまだついておらず、
四角く穴があいている状態。
床はタイルでしたが未完。
机も椅子もありません。
そこに布団と蚊帳を持ち込み、タイルに直接敷いて蚊帳をかけて
息子と並んで寝ていました。
プノンペンから持ってきた冷蔵庫とテレビも床に置くしかありません。
テレビと言ってもカンボジア語のローカル番組しか映らないので
実質土曜日夜に設定した子どもたちのTVの時間に使用されるだけの
ものでした。

パソコンは支援者の方からのメールに対応するものでしたが、今のように
WIFIなんてあるわけもなく、携帯電話とPCを赤外線でつなぎダイヤルアップ
接続(若い人にはわからないかも・笑)していました。
置き場所がないので支援物資が送られてきた段ボール箱をさかさまにして
机に見立て、PC用に使ったり、当時手書きでお送りしていたお礼状や
報告のお手紙を書くために使っていました。
停電はほぼ毎日で夜になるとろうそく生活。
昭和?いや、もっと前なんじゃないかという毎日でした。

まずは子どもたちの顔と名前を覚えなくてはと思い、日本語授業用の
ホワイトボードに名前を書いて横に立ってもらい写真を撮りアルバムを
作りました。
他人の顔と名前を覚えるのが苦手な私にとっては毎日できるだけ子どもたち
と接することと部屋でこのアルバムを見ることが最初の仕事だったかも
しれません。

寄付を頂くと夫から連絡があるので私が箱の机でお礼状を書く。
しかし私にはそれ以外の何ができるんだろうか・・・と思い悩んだ・・・・
わけではなく、飛び込んだ後はじっくり考えることが好きな私は毎日
カンボジア人スタッフが何をしているのかを観察していました。
現状を客観的にとらえないと問題点や改善点を見つけることができないと
いうことが本能的にあったのかもしれません。

目の前に子どもたちがいるとついついすぐに手を出したくなるのもわかり
ますが、子ども大好き!ではなかった私は、自分よりも先に子どもたちの
指導をしているカンボジア人スタッフたちのやり方を観察しようと思った
のです。
まずは先に始めた人のやっていることをよく観察していいものは
自分のモノにしていきなさい、茶道講師をしていた母親からよく
言われていたことも影響したのかもしれません。


そこでいろいろなことに気が付きました。

朝食はみんななんとなく集まってお粥を作り、干し魚を焼いて食べます。
学校には行きます。
夕方は施設で飼っていた牛に草を食べさせる当番がありましたが、それ
以外の子は空き地でサッカーをしていました。
夜は自習時間があります。
カンボジアの学校は2部制で半日は学校がないため子どもたちは十分
時間があるはずなのに敷地内はゴミだらけ。蠅もたくさん飛んでいました。
井戸の周りはヘドロ状態で、水の流れる道すじもありません。
その1つの井戸で水浴びをし、調理をして、洗濯もしていましたが、それぞれに
出る排水は行き場がなくたまって蒸発するのを待つだけだったのです。
よく見ているとさっきまで魚を洗っていたタライで洗濯をしていました。
調理のおばさんを手伝うのは女の子だけ、男の子はみんな遊んでいるか
昼寝をしていました。

一番驚いたのは食事風景。
大きな子が先におなかいっぱい食べたら、ようやく小さい子が食べられる
ようになります。それまでは肘でガードされて手を出すことができないのです。
その食事も魚の切れ端が少し入った塩辛いスープで、白いごはんをたくさん
食べることをなんとかおなかを満たすようなものでした。

うーーーーん・・・・。
私が来る前に子どもたちの面倒を見てくれているスタッフの顔をつぶさずに
気になることを変えていくにはどうすればいいんだろうか・・・。

いや、それ以前にどうして大人が当たり前のことを指導できないのだろうか・・・。

当たり前のこと・・・
私にとって当たり前のことがカンボジア人スタッフには当たり前でないことにも
気が付きました。
当然まずはスタッフに理解してもらうことから始めようと思いましたが、大人に
なって頭が固くプライドもある相手。
そしてなんといってもシェムリアップという超ド田舎ではスタッフの力を借りずに
生活することもままならない私がえらそうにあれこれと教えるなんて勇気は
でませんでした。
当時25歳の私、厚かましく成長した今なら積極的に動いたのかもしれません。

そして私の出した結論は・・・

まずは自分がやろう

ということでした。

井戸の周りを掃除する、落ちているごみを炎天下の中黙々と拾う。
スタッフも子どもたちも見て見ぬふりでしたが、とにかく来る日も来る日も
汗だく、真っ黒になって掃除とゴミを燃やす作業だけを続けました。

そうするうちに数名の子どもたちが手伝いにくるようになりました。
そこで子どもたちと話をしたり、掃除の仕方を教えたりするようになり、だんだん
と手伝う子どもの人数も増えていきました。

これが現在の施設で夕方設定されている「お手伝いの時間」の原型です。






2013/08/29

じぶんのやくわり③

その日の起床時間はたぶん午前3時ごろだったと思います。

真っ暗なプノンペンの街。
いつもは屋台や露店でにぎわう街並みに人影がまったく
ない中、少しの家財道具を積み込み、運転手さんとお手伝い
さんが1人ずつと夫、そして息子をだっこした私が乗り込んだ車は
緑のRAV4。

シェムリアップに通じる国道6号線は当時未舗装で、到着するのに
何時間かかるんだろうと言うほどのノロノロ運転でした。
あちらこちらに穴があり、車が壊れても修理できるような場所も
ないのですから無理もありませんでした。

きっとこの先に、なにかすることがある生活が待っていると自分に
言い聞かせて黙って座る私と、何もわからずにニコニコとご機嫌の
息子。
車での移動だったのは、私がシェムリアップで行動しやすいようにと
夫が買ってくれたRAV4を自分たちで運ばなければならなかった
からです。

青い空と緑の田んぼの中に時々突き出すやしの木。
延々とその風景が続きます。

ようやくシェムリアップに到着したときは日が暮れ始めた午後5時
くらいでした。
飛行機で飛べば1時間もかからない距離なのに、12時間以上も
かけたことになります。

今のスナーダイ・クマエは大きな建物が2棟、教室兼食堂、伝統舞踊
練習場、調理場と食料の備蓄倉庫である高床の小屋に加え、みんなで
造った庭やグラウンドがありますが、私が到着したそのときは
敷地の門をくぐってすぐに小屋が1つポツンと建っているだけでした。
植え木も花もない殺風景で子どもの育つ環境じゃないなという違和感。


車から降りると25人くらいの子どもたちが駆け寄ってきて言いました。

「こんにちは!おかあさん!」

日本語??

院内教育として日本語の授業を設けていたことは聞いていましたが、
そのときは先生も帰国してしまっていたので、まさか日本語で話しかけ
られるとは思っていなかった私は驚いてなにも反応できませんでした。
いまさら言うのもなんなのですが、私は子どもがあまり得意ではなく
普段からも積極的に子どもと遊ぶタイプではなかったのです。

TVが1台と日本から持ってきたノートパソコン、ネット通信に利用できる
携帯電話、そして息子の食料を保存するための冷蔵庫だけが私の
家財道具。
建設中だった新宿舎の1階にあった未完の部屋に運び込んで、ともかく
私の新シェムリアップ生活が始まりました。

ここで自分の役割を見つけたい。

行動してぶち当たってから考えるという性格は今も変わっていないよう
に思いますが、先にあるものがなんなのかまったく想像もできなかった
このときの状況はまさにそんな中で始まったのだと今になって思います。

カンボジアにはたくさんのNGOや諸外国からの支援が入っていると
言われています。
当時の私にはそんな知識はなく、自分がそういった活動に参加すると
いう意識もありませんでした。
施設は夫の志で建てたもの、私は人生を共に歩むパートナーのお手伝い
ができれば、そこに自分の役割があるのではないかという漠然とした
思いしかなかったのですから。

そういう意味では「カンボジアの人たちになにかしたい」「カンボジアの
社会的な問題を改善したい」という気持ちでカンボジアにやってきた
日本人を含む外国の人たちとは気持ちの温度差があったと思います。


家族がやっていることを家族が手伝う、それは当り前のこと。
そこに自分の役割を見出して生きていきたい。

要するに夫の役に立ちたかったのだと思います。

2013/08/27

じぶんのやくわり②

夫がシェムリアップに「スナーダイ・クマエ孤児院」を作ったのは
1998年。
その前から「ダイ・トイ」(小さな手)という任意団体を作り、地域の
子どもたちに勉強を教える塾のようなことや、休日に遺跡周辺の
清掃活動をしているということは聞いていました。

私がカンボジアに初めて行ったのは知人の誘いで、その方が
支援して寄付したある中学校の校舎の落成式に参加するため
でした。
カンボジアがどこにあるかもよく知らなかったけれど、アンコール
ワットという遺跡があることだけは知っていて、そこに行ってみたい
という単純な動機。
大学を卒業する1997年2月のことです。

その校舎建設の現地カウンターパートを務めていたのが夫。
1980年にカンボジア難民として来日し、中学校から大学院までを
日本で過ごした彼は日本語には不自由ありませんでした。


孤児院を作ろうと準備していた頃は日本政府のアンコール遺跡
救済チーム(当時のJSA、現在のJASA)で通訳をしていた夫。
シェムリアップに住み続け、仕事と孤児院運営をしようと思って
いたそうですが、家庭の事情で出身地のプノンペンに戻る理由が
でき私と知り合ったときにはプノンペンにある日系ゼネコンに
勤務していました。
シェムリアップで活動を始めかけていた孤児院は現地スタッフに
任せて週末だけ様子を見に行くという生活。
日本に住んでいたこともあり、孤児院運営にかかる費用を日本の
方に支援して頂いていると聞いていました。


最初はプノンペンで暮らしていた私がシェムリアップ行きを決めたのは

「ここなら自分にできることがあるかもしれない」

と思ったから。

大学では会計学のゼミに所属していたもののできの悪い学生だった
私には特に自慢できるような専門はなかったけれど、日本の支援者の
方へのお礼や報告などはできるのではないか、そのためには現場に
いたほうが状況の把握がしやすいという考えでした。

なにもすることがないプノンペンでの生活に飽き飽きしていた私には
それしか選択肢がなかったといえるかもしれません。

私が作った孤児院ではありません。
夫が自分なりの思いがあり設立した施設です。
あとで知ったのですが1998年政府へのローカルNGO登録の際には
私もスタッフとして名前が記載されていたそうです。

とにかくこのプノンペン生活から逃れたいという一心でしたが、そこまでは
夫には言わず「シェムリアップに息子と移住したい」と伝えました。
今のシェムリアップからは想像もできない超ド田舎だった当時のシェムリ
アップ、治安などの面を考えてもプノンペンよりは安心というのが
夫の答えでした。

そしていよいよシェムリアップに移動するその日を迎えました。






じぶんのやくわり①

日本でのお仕事を終え、カンボジアに戻って10日ほどが
経ちました。

夏は毎年絵画展に始まり、絵画展で終わる日本滞在。
今年は会場が1つ増えたこともあり、いつも以上に時間が経つのが
早かったような気がします。


そんな中で滞在終盤のお盆の時期、特に予定もなく実家で過ごし
ながら、施設における自分の役割が変化してきていることについて
思いを巡らせていました。



2000年4月、なにもわからないままにプノンペンからシェムリアップへ。
当時1歳の息子を連れて・・・。

最初は夫とともにプノンペンの自宅で暮らしていました。
お手伝いさんが3人、運転手さんが1人、いつも誰かが身の回りのことを
気遣ってくれる環境。
治安が悪い、交通事故でも補償がないなどの理由で夫からは極力
外出するなと言われていた私はカンボジア独特の薄暗い作りの家の
中で1日の大半を過ごしていました。

掃除も洗濯も料理もすべてお手伝いさん。
息子のミルクなどの買い出しに行くときは運転手さんに助けてもらっての外出。

ついに息子の面倒までお手伝いさんたちがみるようになってしまい、私は
なにもすることがない・・・。

あるとき掃除や洗濯などを自分でしたら夫がびっくりするほど怒りました。

「カンボジア人の仕事をとるな」

そもそも家事も料理も好きな方で、私がやとってほしいと言ったわけでも
ないのに勝手に準備されて「君には不自由させない」と。
彼にとっての優しさはいつもお金ではかるものでした。

私はなんのために生きているのか・・・、何をしにプノンペンまで来たのか、
そんなことをよく考えていました。

「することがない」
こんなに苦痛な毎日ってあるんだろうか、と。

そんな日々が私にシェムリアップ行きを決断させたのかもしれません。



2013/08/20

私たち

日本での仕事を終え、お盆に母のお墓参りなどもして帰ってきました
カンボジアに。


帰ってきて今日で5日目。
朝からガッツリ家事も仕事もしていたのですが、夜になって卒業生の
サヴィーからメッセージが。

元気ですか?と聞かれたので、

ちょっと疲れてるよ

と答えたら・・・

おかあさんは私たちのために日本でがんばりました。
ゆっくり休んで下さい。
またパナーくんやサイハーくんをさそって遊びに行きます。

という返信。


絵画展での収益はすべて施設の運営費になることを彼は知っています。
でもサヴィーはすでに卒業した身。

なのに我がことのように「私たちのために」と。

卒業したら関係ない場所、ではないのですね。うれしいです。

パナーもサイハーも卒業生、そういえば昨日はスレイニーも来てたなぁ・・・(笑
ラーヴォもまた来ますって言ってたし。


また明日もがんばろ。




2013/08/10

思うこと多く・・・

うっかり夜更かし。

6月末から始まった、毎夏恒例イベント「スナーダイ・クマエ絵画展」が
8月4日で終わり、なんとなく抜け殻です。

イベントが終わってもすることは山積みなので、抜け殻になっている
場合ではないのですが(笑


絵画展も東京、神戸は5回を数え、地元和歌山は3回、そして新たに
名古屋も加わった今年。


思うことが多すぎてなかなかまとまらず。



NGOの活動が活発な国の1つだと言われるカンボジアで、いわゆる
ボランティアと呼ばれることに関わり始めて13年・・・。

自分自身が立ち上げた施設ではないのでいい意味で、「執着がない」
というところが楽なのだなと最近はつくづく思います。


食欲以外の欲はほぼ自覚したことがない私(笑


自分の大事な人たちとは真剣に向き合いたい、関心を持って生きたいと
いう欲はあるかもしれませんが、それと相手を縛り付けることは別の話。
自分からの投げかけに反応がない場合は、表面的にはあっさり対応する
ことができます。

反応があるかなと思って何度かは挑戦します。
割と全力で。

結局は自分が納得するところまで尽くしたかどうかなのかもしれません。

そしてたとえそのときに思うような反応がなくても、いつか気持ちが通じる
日が来るかもしれないという淡い希望は心のどこかに残しています。



カンボジアの子どもたちという漠然とした存在ではなく、名前や個性、人格を
認識した一人一人の人間としてそれぞれの子どもたちと出会い、時間を
共にしている私にとって、普通の日々の積み重ねだけが大事にしたいと
思うことなのでしょう。


執着せず、決めつけず、自分の希望はふんわりと思い描きながら、ぼちぼち
前に進むのが自分の生き方なのかなと、30代最後の歳を迎えてなんとなく
そんなことを思ってみたり。


私がそんなふうに思えるのはここまで一緒に歩んで来てくれた支援者の
皆さんやその他関係者の皆さんがいるから。
一人でやってきたという思い込みは執着につながるのかもしれません。

そして執着されて手を離してもらえない子どもたちはどうなるのか?
ずっと私の指示がないと動けないスタッフは?
カンボジアの人の手によるものという名前の施設運営は?

スナーダイクマエという団体、またはそこにいるスタッフや子どもたちに
誤った執着心を持たないことを将来よい方向に進む基礎にしていこう。



深夜に書く文章は酔っ払いの手紙みたいなもんだと以前友人に言われた
ことがあるけれど、今日もそんな感じかな(笑


この夏のいろいろを消化するまで、少し時間がかかりそうです。

というわけで、まずは寝ます(笑

2013/07/31

NHK和歌山放送局「あすのWA!~きらり☆紀州人」出演

いつも悪い癖です、気付けばブログの更新を1カ月以上も
怠っていました・・・。

今回も告知記事になります。

6月末に開催された子どもたちの絵画展@和歌山にNHK和歌山
放送局のキャスター山崎ひな子さんが個人的にお越しくださいました。
そこからタイトルにある番組への出演がトントンと決まり・・・。

自分から興味を持って下さるというのがうれしいですよね。
思い返せばいつもそうですね。
この夏はテレビやラジオ、新聞などでいろいろと取り上げて頂き
ましたが、周りの方々のお力添えばかり。
おかげさまであとは神戸の絵画展だけになりましたが、今のところ
過去最高の来場者数となっています。
(神戸も新聞で告知掲載していただけるそうで、明日取材を控えています)


今回の番組は絵画展の告知もして頂きましたが、施設でどんなことをして
いるのか、子どもたちの様子や私の施設への取り組みと思いなどを山崎
さんが事前の取材と打ち合わせなどからとても丁寧に考えて下さっていました。

いつも通り緊張緊張の私でしたが、現場のスタッフの女性には「緊張してる
ようには思えない」とおっしゃっていただきほっと一安心(笑
山崎さんからも「こんなにうまく話がまとまるときはあまりないんですよ」と。
スタジオにて


自己評価が低い人間なので、どうしても「ほんまにあれでよかったんか?」と
思うことが多いのですが、ひとまず収録は終了しました。
キャスターの山崎ひな子さんと
山田優さんに似てると思ったけどご本人には言えずじまい



和歌山の方にしかご覧いただけないのですが番組の詳細です。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

NHK和歌山
あすのWA! 8月2日(金)18:10-19:00
番組内の「きらり☆紀州人」というコーナーで10分ほど紹介して頂きます!

番組詳細はコチラ

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


収録が終わりほっとして、マネージャー役の息子と地元和歌山ラーメンを。
やはりこの味が落ち着きます

明日から神戸移動です。
今年の夏の絵画展最終会場となりました。

8月2・3・4日(金土日) 甲南大学内甲友会館にて 10:00-17:00
終日会場におります!

2013/06/16

トークイベント「こども いのち そして きずな」

先日の記事に少し書きましたが、来月和歌山でトークイベントに
参加させて頂くことになりました。

私の故郷、海南市に在住されている岩崎順子さんとご一緒させて頂く予定です。

岩崎さんの息子さんが地球の歩き方ボランティアツアーでスナーダイ・クマエ
孤児院を訪問して下さったことで同郷であることを知りました。
そしてお母様の順子さんに私の母親と共通の知人がいたということも
あとでわかりました。

岩崎さんについての詳細は下記サイトをご覧ください。
大きないのちのめぐりの中で・・・



いくつかの不思議なご縁がつながった岩崎順子さんとトークイベントに出演させて
頂くことになるなんて1年前はまったく思いもよりませんでした。
全国各地で講演をされている岩崎さんに比べ、私はまだまだ経験も浅いので
足をひっぱることのないようにしなければと思っています。

カンボジアで子どもの教育に関わりながら、どこかでいつも日本のことが気になって
います。
そんな経験から伝えたいことをお話しできたらと思います。

会場では絵画展に出品予定の作品やグッズなども展示させて頂けることになって
います。

開催にあたり、わたぼうしくらぶの森下和紀様に大変お世話になっております。
ありがとうございます。



2013/06/09

つないでいくということ

昨日卒業生のラーヴォが遊びに来てくれました。

彼は真面目に仕事を続けて、自費で夜間大学にも通っています。

そして私が帰国する前なども含めて、要所要所で会いにきてくれます。

3時間ほど話し込んだのですが(これはいつものこと・笑)、その中から
2つ、今日は書いておきたいと思います。

たぶん長い文章になりますが、お付き合いよろしくお願いします。


ラーヴォがまだ施設にいる頃、クラスメイトに裕福な男の子がいたそうです。
いまでもカンボジアでは「孤児院」のイメージは、とても貧しく、子どもたちが
食べ物を奪い合うような環境を思い浮かべる人が多いそうです。

その男の子からラーヴォがこんなことを訊かれました。

「孤児院に住んでいるのにどうして君はいつも楽しそうなの?」

そのときのラーヴォは自分が努めてそうしてるわけではなかったので、
なんと答えていいのかわからなかったそうです。

そして時を経て、大学で・・・
偶然にも再会したらしいのです、その男の子と。

そして彼は今のラーヴォの仕事、収入、色んなことを質問したあとで訊いて
きました。

「僕よりも収入が少ないのに、どうして君はそんな満足そうに生活してるの?」

ラーヴォによると彼は、車を何台も所有しレンタルしたり、その他のビジネスで
かなりの収入があるのに、いつも何かに悩んでいて楽しそうに見えないとの
ことでした。

そしてラーヴォはふと思ったそうです。
この質問、前に言われたのと同じだな・・・、と。

昔はっきりと答えられなかったけれど、今回は自分でもなぜだろうと考えて
みて見つけた答えは、

今の自分の環境を満足に思うかどうかは自分次第だ、ということだったそうです。
人から見てどうか、ということではなく、自分が努力し、決定し、そして健康で
それなりに楽しく過ごしてる今を不満に思うことは全然ない、と。

自分をどうとらえるかは自分の心次第なんだと思う、と言っていました。


その話を聞いて、私は
「やっぱりこの子は私に似てるな」
と思ったんです。

カンボジアに嫁ぎ、なりゆきで施設を手伝い、シングルマザーになった今も
施設運営に関わっている私を、ある人は「気の毒に」と思うかもしれません。

「でもお母さんは幸せなんだよね、自分がそう思ってるからそうなんだよ」と
笑って言うと、ラーヴォも深くうなづいていました。



その後話は変わり、あることを知りました。

2年ほど前からラーヴォはいとこの子どもが教員養成校に通えるように支援を
していたそうです。
月々のサポートを賭け事に使われてしまったこともあると笑って話していました。
その子が無事に卒業できるようになったんだ、と。

「自分が少し手助けするだけで彼の人生は違うものになった、僕はそれができて
本当によかったと思っている」と話していました。


その話を聞いて、私はこんな話をしました。


昔おばあちゃん(私の母)がカンボジアに来てくれたとき、まだ当時の施設は
今のように子どもたちがまとまっていたわけではなく、お母さんの悩みは尽きない
毎日だったのよ。

そのときにおばあちゃんが私にくれた言葉。
「この中で一人でも博子の気持ちが伝わる子がいればそれでいいのよ、全員に
わかってもらおうとしなくてもいい。できることを尽くした結果なんだから。」


ラーヴォの話を聞きながらおばあちゃんのこの言葉を思い出したよ。



この話は以前ラーヴォにしたことがあるのですが、もう一度話しながら

おばあちゃんからおかあさん、そしてラーヴォにつないでいくことができてるん
だね、今度はラーヴォのつないだ人がまた誰かにつないでくれたらいいね。

と言いながら、自然に涙が出てきました。

いつもは私の涙を見ていないふりをすることが多いラーヴォが今回まっすぐ
私の顔を見てくれていたのが印象的でした。


ようやく母がくれた言葉に実感が持てるときがきたのかもしれないですね。

私の仕事は伝え、つないでいくこと。
好きなことができて、周りの人に恵まれている今の環境に感謝し、これからも
前に進んでいきたいですね。

ゆっくりでも。


2013/06/05

なにも言わずに

ここ数日、謎の膝痛に悩まされ思うように動けない日々を過ごして
いました。
椅子に座っても、床にそのまま座っても、膝を伸ばしても曲げても痛い。
立っていることもできず、ましてや歩くなんて拷問でした・・・。

今日は朝から調子がいいので洗濯や掃除もできるようになったのですが、
掃除中にPCデスクにふと目をやるとあるものを見つけました。

忘れっぽい私のPC周辺にはポストイットに書かれたメモ書きがたくさん
ぺたぺた貼られているのですが、その一枚。

和歌山、東京、名古屋、神戸と今度予定されている子どもたちの絵画展
でお手伝いして下さるボランティアの皆さんの氏名を場所ごとにわけて
書いておいたもの。
あとで手帳に転記しようと思っていました。


ふと違和感をおぼえて、よーーーく見直すと私と違う筆跡が・・・。


和歌山のボランティアさんの名前のところに、

萌崇拓見

と。


萌崇は私の戸籍上の漢字で「メアス」と読むのですが、それはさておき・・・
そうです、息子の名前です。
そういえば私がPCデスクに座ることもできず転がっていたとき、彼は
そこに座ってなにかを描いていました。

画像が横向きにできない
これがデスクにありました
私はまた飛行機好きの息子が落書きでもしてたのだと思っていたのですが・・・

まるでついでかのように、自分の名前をボランティアの中に書いてました(笑


というわけで、和歌山絵画展は息子も手伝ってくれるそうです(笑


ちょっとだけ足の痛みが消えたような気がします。







2013/06/01

(T_T)

施設の子どもたちの絵を展示する絵画展、今年で5年目になります。
これだけ続けさせてもらうとだいたい1年を通じての準備期間のコツも
つかめてきますが、今年は思った以上に早くすみました。

いつもは帰国日ぎりぎりまで追われてる作業が、5月30日あたりで
ほぼ完了。

うん??

早くない??(笑

いつもは6月に入ってから持って行く作品を選び、作品の撮影とリスト
作り、作品の題名と子どもの名前のラベル作成、その他の展示物と
販売物品の追加注文(施設内で売っているのである程度の在庫も
必要なんです)などなどを2週間ほどでざっと。

考えてみたらそのほうがずっと大変、よくそんなこと4年もやってたな(笑


今年はなかなかやるな、私。
なんて思っていたら・・・

31日の朝起きたとたんに足が動かない・・・

え??
足が曲がらない、曲げようとすると悲鳴が出るほどの激痛・・・

うなりながらなんとかベッドから降りましたが、着地したときの膝の痛みが

(T_T)(T_T)(T_T)


あ、あかん・・・
今日は無理・・・(T_T)

様子見ないとみんなにも心配かけるし、黙って部屋で痛み止めを飲んで
転がっていました。

今日になっても全然治らない。

不安・・・
これ、飛行機に乗れないレベル・・・
タラップを自力で上がるなんて無理、荷物持って・・・無理です(T_T)


痛みと格闘しつつ、午前中のスタッフミーティングに。
そこでスタッフにばれる(苦笑

今日は部屋にいるわ、というとみんな納得。すみません・・・(T_T)

すると卒業生のパナーが来てくれました。
所属する会社の責任者である大塚めぐみさんの心遣いです。
別件で電話した際に足のことを話したら、すぐにパナーを補助として
送りこんで来て下さいました。

普段なかなか自分から甘えることができない私ですが、今日はすっかり
甘えさせてもらいました。
病院に行き、通訳をしてもらい・・・ありがとう、パナー(T_T)

結局病院でも原因はわからず・・・

でも帰宅したら子どもたちが「大丈夫ですか??」ってみんなで言って
くれました。
大丈夫じゃない。でも、ありがとう(T_T)

部屋で転がり続けていました(苦笑

そのあとは息子が看病。
タオルをチンして膝に乗せてくれたり、おかゆ持ってきてくれたり・・・。
ありがとう(T_T)

看病で疲れましたか・・・息子さん爆睡です
先日施設のちびっこが頭をけがしたとき、ある人が「怪我の手当をしてくれた
人のことを子どもは覚えている」と言ってくれたのが印象的だったのですが、

今日は子どもに代わって言います。

それ、ほんとです・・・。

私がゆっくり階段を上っていたら、肩をかしてくれた施設の高校生リャンサイ。
心配して何度か連絡を下さった大塚さん。
病院帰りの私を迎えてくれたスタッフと子どもたち。
パナー、息子の拓見・・・

ありがとうございます(T_T)

今回のお返しはまたいつかのときに。


その前に飛行機に乗れる膝になるようあと10日ほどですがなんとかします・・・。


2013/05/27

補足

この前、自分で決めるから責任も自分にあるということを書いたのですが、

自分で決めたことに最善を尽くしたのなら後悔もない

ということでもありますよね。




両親はカンボジアで結婚、孤児院運営することに反対せず送りだして
くれましたが、実はもう一つ・・・


多くを語らずに背中を押してくれた父親の裏で、母は私にこんなことを
言いました。


「自分で決めて行くねんから簡単に帰ってこられても困まるで」



∑(゚∇゚|||) 笑


はい、そうですよね・・・(T_T)


昔から母の言うことは絶対だった私にとってこの言葉は大きかった。


今となっては両親それぞれの気持ちと、そのときにくれた言葉の本意が
じわじわとわかってきましたが・・・。


もうひとつ補足すると、「できるだけ他人様に迷惑かけんように心がけ
なさい。心がけてても迷惑かけるもんやねんからそのときは自分で
ちゃんと始末つけなさい。」とも言われたような・・・。


男の人はあまりたくさんを語らない場合が多いので、母は私が最初から
甘えた気分で行かないように、結婚や人さまの子どもを預かることが、
社会的にそして自分の人生としてどれだけ責任のあることなのかを
父に代わってわからせたかったのでしょうね。



おかげさまで施設運営はやめずに続けています。
心ある方々の支えもあり、続けてくることができました。

2010年に離婚はしましたが、後悔はありません。
離婚したときには母はもう他界していましたが、私の涙と忍耐、怒り、
そして離婚が決まったときの安堵、そのすべてを見てくれていたと思います。

父には離婚が決まって手続きに入る段階で言いましたが発した言葉は
「お前が決めたんやからそれでええ。」



そんなことを思い出すにつけ、施設の子どもたちに発する自分の言葉の
重みを自覚せねばと思います。

自分の親がそうしてくれたように。


「あんたらしいな。ほんまびっくりするわ。」という母親の声が時々聞こえる
ような気がするのです。




2013/05/25

忙しいくせに(笑

ここ数日、夏の絵画展に向けての準備でバタバタというか
部屋にこもる作業が多く、あっという間に1日が終わるという
ありがたい毎日を過ごしています。

基本的に自分の部屋を事務所仕様にしているので、朝から
晩まで同じところに詰めている感じ。

休憩がてらにNHKを見ていると、タイトルはわからないけど
ドラマが放送されていました。

60代とおぼしき女性が30代の女性に、
「今の人(女性を主に指す感じで)はなんでも自分で決め
られる代わりに、全部自分で責任を負わなきゃいけないの
ね。大変ね。」
そんなせりふだったように思うのですが、励ますような感じで
言っていました。

実家で茶道と華道の講師をしていた母も当時の若い女性の
生徒さんに、
「今の子たちはしっかりしてる。自分で考えて決めて・・・」
と話していたことがあるのを思い出しました。

私が中学生か高校生の頃なので、かなり遠い昔(笑


母親たちの世代、自分で決められないこともたくさんあった
だろうし、意思を尊重してもらえる私たちの世代は幸せやなと
思っていました。

でもたしかに、自分で決めると言うことは誰のせいにもできないと
いうことでもあるんですよね。

そんなふうにして戦っている女性が世の中にはたくさんいるんだ
と思います。
私は女なので女性に絞って言わせて下さい(笑
(もちろん男性も同じってことはわかってますよ)

結婚してカンボジアに行くこと告げたときに一切の反対をせずに、
「自分で決めたんやからしっかりやってこい」
と、送りだしてくれた両親は全部わかった上でこの言葉をくれたの
でしょう。

だからこそ、私も簡単に尻尾巻いて楽な方に逃げるという選択肢は
今まで一度もなかったんだなと、いまさらながらに思ってみたり・・・。

自分で決めたことがあり、守りたいものがある、それがある強みと
多くを語らずとも思ってくれる大切な人たちがいること。
だから戦っていける(おおげさかもしれんけど)のでしょうね。



なぜかNHKドラマのワンシーンで思い返す私でした(苦笑

って、うだうだ言わずに仕事します・・・(笑


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スナーダイクマエ孤児院絵画展2013

和歌山
6月28・29・30日(金土日) フォルテワジマ3Fギャラリー
午前10時から午後5時まで

東京
7月3日(水)から7日(日) 日本アセアンセンター
午前10時から午後5時まで
6日・7日(土日)はカンボジアフェスタと同時開催

名古屋(初開催!)
7月12・13・14日(金土日) 妙香園ギャラリー
午前10時から午後5時まで(12日のみ午後1時から)

神戸
8月2・3・4日(金土日) 甲南大学内甲友会館
午前10時から午後5時まで


絵画作品の販売、昨年の作品をもとにしたTシャツやポストカード、
2014年カレンダーなどのグッズ販売も行います。
売り上げは施設の運営費に充てられます。

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2013/05/08

今日はちょっと真面目に・・・

そういえば今年で39歳になるんですよね。
大学を出て、就職、結婚、出産、カンボジア移住、そして離婚。

1997年初めてのカンボジアのときはまだ20代前半。
2000年に孤児院の責任者になったときでも20代半ばでした。

あれからもう15年以上。



私と直接会って下さった方には話していることですが、私は・・・

どうしてもカンボジアの子どもたちのために孤児院を作りたい

という気持ちがあってカンボジアに来たわけではありません。


私の前の夫が結婚する前から始めていた活動だからです。


彼とは夫婦としての縁がなかったようで2010年に離婚しましたが、
誤解を恐れずに言えばなりゆきで関わることになった孤児院という
施設が、長い時間を経て自分にとってかけがえのない場所になって
いきました。

人生において、「出会い」とそれをつないでいこうとする両者の気持ちが
必要となる「縁」というものの大切さを感じ続けています。
ありがたいことに、もっとメアス博子やスナーダイ・クマエに関わって
いこうと思って下さる方々が存在し、私もここまでやってくることができた
のだと思います。

施設にいる子どもたちは自らの意思でここに来るわけではなく、すべてが
周りの大人にゆだねられていると言えます。
まさか外国人と一緒に暮らすことになるなんて思ってもなかったでしょう。
そんな子どもたちと出会い、縁をつないでいるのです。

自分の感性の根底に両親を感じます。
親がどのように自分に接してくれたのかが今の自分の物事の受け止め
方に大きく影響しているということです。

大人になってから数々の経験をしてきました。
いいこともありましたが、嫌なことも、傷ついたこともありました。
うれしいことを共有し、苦しいことに共感し励ましてくれたいろいろな「縁」の
おかげで今があります。

そんな私の経験をつないでいく対象が息子と施設の子どもたちです。
両親や周りの人々から私が受け取ってきたものを手渡していきたいと
思うのです。

青と白と緑
この色と日差しの下でもう13年・・・


そんなお話ができる機会を頂くことになりました。
自分の出身である和歌山県海南市にて。


こども いのち そしてきずな
6月16日(日) 海南市民交流センター


詳細は後日改めて告知させて頂きます。

この日は海南市出身の岩崎順子さんとご一緒させて頂くことになっています。
岩崎さんとも不思議なつながりがいくつかありました。
それもまた後日・・・。
大きないのちのめぐりの中で・・・ 岩崎順子さんのブログです。



この空の下で自分が感じてきたこと、皆さんに伝えたいことを岩崎さんに
助けて頂きながらお話しできたらと思います。


楽しみです☆

このイベント開催において、海南市の森下和紀さんに大変お世話になって
います。ありがとうございます。

2013/05/04

ご迷惑おかけして・・・(笑

先日日本から心づくしの品物を送って下さった方がいます。
息子へのお気遣いで飛行機の本や飛行機柄のハンカチも。
その中にとんがりコーンがありました。


「ママ、とんがりコーン大好きやわー」
と、テンション高めに話し・・・


これ昨日の話です。



そして先ほど旬のマンゴーを一緒に食べていた息子がおもむろに言いました。

「ねえ、ママってとんがりコーンの悪口言うてたよね、数年前」



え?


息子が言うには、以前とんがりコーンを買って懸賞に応募という
キャンペーンがあったそうです。
そのときスーパーで
「懸賞のためにたくさん買う人おるねんなあ、信じられへんわ~。
そんなに食べられへんやろ~(笑」
と、結構な声量で話していたらしいです、ワタシ・・・。

え?

もちろんまったく記憶にございません・・・(笑


そして、とんがりコーン好きです、ワタシ(笑
カンボジアにはとんがりコーンもどきみたいなお菓子がありますが、
たまに買って食べてます・・・。

そういえば、孤児院の子どもたちが初期のころに覚えた言葉に

「わすれっぽい」

が、あったことを思い出しました。
もちろん私のことです。

おかげで「~っぽい」という言葉を次々に覚えてくれたような・・・・(苦笑


孤児院を13年管理運営していると聞くと、さぞかし立派できっちりとなんでも
こなすのだろうというありがたいような困った先入観で私を見て下さる方が
けっこういらっしゃるのですが、



実態はこんなもんです(笑



忘れっぽい性格のおかげで人を恨まず、妬まず、うらやましがらずに
生きてこれたような気もするので、それはそれで悪いことばかりでも
ないのかと思ってみたり・・・(笑
(この3つは母親の教えでもあります)


そして驚くことにとんがりコーンのキャンペーンは・・・・

嵐とディズニーランドライブご招待!


だったらしいです。



今ならきっとスーパーの棚からすべてが消えるくらい大人買いしていることでしょう。
いつか二宮さんに会える日を夢見て・・・(笑



2013/04/18

思い返せば12年

親友?戦友?
姉妹のように近く、仲良く、なんでも話せる友人。
カンボジア正月に仕事も兼ねてはいるものの、久々にプライベートで
遊びに来てくれました。

彼女は佐々木愛さん。
2001年から足掛け7年、私が代表を務めるスナーダイ・クマエ孤児院で
子どもたちの日本語教師として共に暮らした仲間なのです。

帰国後いくつかの仕事を経て、現在は東京にある旅行会社に勤務。
カンボジア旅行ならおまかせのピースインツアー東京の社員となり、
地球の歩き方ボランティアツアー「スナーダイ・クマエ孤児院を訪ねて」の
添乗員としてたびたびカンボジアを訪れています。

添乗業務で来るのとは違い、プライベート時間が多い今回の滞在。
今まで話せなかったことを夜中まで語り合いました。

私もまだ20代でカンボジアに来たばかり、なりゆきとはいえ孤児院の責任者
となり自分なりにできることに取り組む中で壁にぶつかっては悩み、落ち込み、
涙を流してしまうこともありました。

そんなときにいつもそばにいてくれたのが元夫・・・・ではなく佐々木さん(笑

同じ建物の隣の部屋に住んでいた彼女とはまさに寝食を共にした仲。
今となってはどうでもいいと思えるようなことも当時渦中にいた自分では
処理しきれず彼女にはずいぶん支えてもらいました。
息子が赤ちゃんの時から成長を一緒に見守ってくれた貴重な存在でもあります。

長い共同生活の中、けんかになったこともあります。
私が離婚に至るまでのつらい時期を支えてくれたのも彼女でした。

たとえ感情的にぶつかっても全力でお互いの気持ちを伝えあい、問題を乗り
越えてきたからこそ今の深い関係が築けたのだと思います。

彼女が日本に帰ってしまうことが決まってもこれで終わる関係ではないという
安心がありました。
そして今でも・・・。

今回のカンボジアはいつもの添乗とは違って、新しいツアー企画のための
視察も兼ねつつプライベートな時間もあるので・・・

自転車で田舎道を走ってちょっと休憩

子どもたちと西バライ
ここにいる子たちは全員佐々木さんの元生徒
(おじさん以外・笑)

グランドホテルのハイティー
ここには書ききれないほど一気に楽しんでいます(笑

今年は年女の彼女、絶賛婚活中でもありますので(笑)どなたか我こそは
という人がいましたら私にご一報ください。

って、ええ話やったのにこのオチでいいのかしら・・・(苦笑

そんなこんなで干支を一回りした関係、これからもずっと続けていきたいと
思っています。

彼女のブログも見て下さいね。私も時々登場します。
http://skapit.exblog.jp/ 




2013/04/11

飛行機好きの息子と・・・

息子が初めて乗った飛行機はタイ航空。
まだ赤ちゃんのころ。行先はバンコク経由のプノンペン。
当時はシェムリアップに到着する飛行機がなかったのでまずは
プノンペン、そして国内線でシェムリアップに移動が定番でした。


小学校6年生のときには一人で飛行機に乗り、カンボジアと日本を
往復しました。

機体にも詳しいのであれこれと説明してくれるのですが、機体よりも
機内食専門の私にはチンプンカンプン(苦笑


以前、TV取材の際に行ったことのある飛行機の離発着がよく見える
とあるポイントに久しぶりに行こうということになりました。


実際はもっと大きく見えます・笑
ネットで何時に飛行機が到着するか調べて教えてくれる息子。
20分ほど待つとやってきました、シンガポールからのシルクエア。

しばらくするとベトナム航空が離陸。


いつもあれに乗ってるんだなあ・・・と思いつつ、夕暮れの飛行機観察を
しばし堪能しました。

トミカ→プラレール→飛行機と好きな乗り物が移り変わって行った息子
ですが、飛行機への夢は継続中。
子どものときからぶれない夢があることをちょっとうらやましく思ったり。

その後は日本から到着予定の友人を迎えに空港に向かいました。


ちなみにこの柵の外側は・・・
たんぼ!
乾季なので稲はなく、牛が駆け回っていました(笑
あぜ道を走行しつつ、私も息子もたくましくなったもんだと思いました・・・。

2013/04/01

地方に行って

カンボジアには全部で24の州があります。
今月でカンボジアに移住して14年になる私はそのうちのまだ
半分も行ったことがありません。

先月コンポンチャム州という隣の隣にある州に行く機会がありました。
うちの子どもたちが通うアンコール高校の女子バレー部がシェムリアップ
州代表チームとなり、孤児院の女子3名もそのメンバーとして選抜された
ので試合の応援に駆けつけました。

カンボジアでの運転歴14年の私もコンポンチャム州までというのは
初めてのこと。

知らない景色の中のドライブ。
最近全然田舎に行っていなかったなあと思いながら景色を楽しむことも
できました。

途中、広大なゴム農園を見たり、小学校に並ぶ巨大な滑り台に驚いたり。


そんなことをしているうちに到着が大幅に遅れましたが、子どもたちの
試合は翌日。
のんびりと運転できてよかったです。

ホテルの予約もせずに行ったのでいくつかをその場であたってみて、3軒目で
部屋を確保。
そこから見えた翌朝の朝日はとてもきれいでした。
てまえはメコン川
右手には日本の支援でできた「キズナ橋」が
試合の様子は下記ブログにて。
「バレー全国大会出場」

応援も終わり帰途につく前に同行していた方より、面白い橋があるよ、と
教えてもらい行ってきました。

すべて竹でできている橋
びっくりですが材料は竹のみ。
そこをバイクや車が平気で走り抜けます。
東南アジアのこの奔放さがたまりませんね(笑

一方左手には日本の支援で造られた「キズナ橋」が。
日本の技術で造られた橋
ガードレールも日本風でした
昔からのものと近代的なものが同居していて面白い風景。
私が過ごした14年でカンボジアもずいぶん変わったなあと、久々の
サトウキビジュースを飲みながら思っていました。

これ昔はナイロン袋に直接入って500リエル
今はカップに入れてくれて1000リエルでした

普段は完全インドア派の私ですが、ドライブって言うのはいいですね。

インドアなんだけど、ちょっとだけアウトドア(笑

今年はいつもよりも少し多めに地方に足を延ばしてみたいなと思います。

2013/02/27

もう7年・・・

思い立って実家でいつも使っている部屋を模様替えしました。

毎年帰国するたびに「やろうかな・・・」と思いつつ、できなかったこと。

今年は思いがけずこの時期に帰国する機会をもらったので、


これはいい加減手をつけなさいと言われているんだろうな


と、思い・・・。


私と息子が帰国時に使っているのは亡くなった母の部屋。
華道と茶道の講師、和歌山にある世界遺産の熊野古道の県認定
ガイドも務めていた母の部屋は資料や文献だらけ。
茶道具も山ほど・・・。
母が使い勝手の良いように置かれた家具やベッドなど、私と息子が
二人で過ごすにはなんとなく違うような・・・。

それでも母のことを思うとなかなか手がつけられないままになって
しまっていました。

寒いと覚悟してきた日本ですが、この日はさほど寒くない。
もうやるしかないなと、1日中一人であーでもないこーでもないと
部屋で格闘していました。

母が生きていた証となるものたちを保管しつつ、その後新たに増えた
私と息子の荷物を片付ける作業。
もくもくと続けていると、夕方には全部終わりました。

脱力・・・。

やればできるのね・・・。
ベッドや家具を動かして、床はちょっと傷ついたけど満足(笑

ふとある棚の引き出しを開けてみました。
なんだか立派な箱にあったモノ
茶道と華道のお免状でした。
カンボジアに行ってしまってもう13年になりますが、母は私のお免状を
こんなに丁寧に置いてくれていたのですね。
中にあったものはすべて私の名前のお免状でした。

今回は部屋の家具の配置を決めて、大まかに荷物整理をしただけ
でしたが、夏の帰国のときには棚や引き出しの中も少しずつ見て
行こうと思っています。

一度に全部終わらせず、少しずつ母を感じる時間にしたいな、と。

超がつくマザコンの私らしくていいですよね(笑


それにしても今日は体中が痛いです。筋肉痛??
そんな私を見て母も笑ってるかな。

母を突然亡くしてから、ようやく私もそこから前に進んだような1日でした。


2013/01/09

TV出演~♪

といっても、私じゃないのです(笑

カンボジアで仲良くさせてもらっているお友達夫婦がTV出演することに
なりました!

読売テレビの「グッと地球便!」に出演したこともあるご夫婦です。
私も同じ番組に出させて頂いたことがあります・笑

だんなさんの佐藤智之さんは淡水魚の研究のためにカンボジアへ。
奥さんの典子さんは美容師さん、現在彼女にお世話になっている在住日本人
女性多数です!(私もその一人)

今回二人が出演する番組は・・・

テレビ東京系列
「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波乱万丈伝~」 
↑詳細はココから

2013年1月18日(金) 7:54pm~

研究者の夫と共にカンボジアに来て、美容師をしながら支える典子さん。
その典子さんの気持ちを深く理解して大切にする智之さん。

私はいつもこのご夫婦を見ていると幸せな気持ちになります。
同時に・・・

ちょっとうらやましい(笑

普段は他人のことをうらやましいと思うことはほとんどないんですが、
本当に支え合いながら夢に向かっている素敵なご夫婦なのです。

ちなみに奥さんの典子さんは、

スナーダイ・クマエ孤児院女子バレー部顧問

でもあります!

高校時代にバレー部の主将をしていたらしい典子さんの指導のおかげで
女子バレー部は負け知らずです。
他の施設との対抗試合でもその強さを見せつけています。(おおげさ・苦笑)

ということで、皆様、どうかこの番組ご覧くださいね!

私はちょうどカンボジアに戻る日になるので見れませんが・・・(泣
どなたか録画よろしくお願いします!!(笑



2013/01/07

新しい年を迎えて・・・2013

私が始めてカンボジアに行ったのが1997年。
びっくりですがもう16年も前の話なんですね・・・。

そして施設の活動に関わるようになってからもうすぐ13年。

最初の5・6年を振り返ると言葉や習慣の壁と格闘しつつ、子どもたちに
掃除や洗濯の仕方を教えたり、手洗い、歯磨きなど衛生習慣の定着、
共同作業から心のつながりを強めていくというような日々を送っていた
ように思います。

その後はスタッフの育成にも目を向けるようになりました。

そして数年前からは施設の団体としての自立運営に必要なことについて
考えていく時期に入ってきました。


私はどうしてもカンボジアの子どもになにかをしたいという熱い気持ちを
抱いてカンボジアに来たわけではありません。
たまたまの連続で今があるように思います。

先日ある方の講演会にお邪魔した際にこんなことをお話しされていました。

「やりたいこととできることは違います。できる人ができることをすればよいのです。
できない人が無理をしてする必要はありません。」

そういうようなお話だったように記憶しています。

私はここでの仕事を自分ができることだと思ったことはないのですが、これだけ
続けさせて頂けるということはきっと自分にとってできることがある場を与えて
もらえたのだと感じます。

人それぞれ、耐えることのできる限界点は違うと思います。

他人が見れば苦労に感じることも当の本人はさほど感じていないこともある
でしょう。
それもある種の能力なのかもしれませんね(笑

私は周りの方々の引き立てでここまでやってくることができました。
専門もなければ、特別に自慢できる能力を持っているわけでもありません。


「お前の立場の場合、ある意味1つに限定した能力よりもマルチにいけた
ほうが全部を見渡せる、それがむしろ必要なことやからそれでええんと
ちゃうか。」

年末に友人からこんなことも言われました。



目標を立ててそれに向かってがんばることがとても苦手なのですが、こんな
ふうになれたらいいなと空想することは好きです。
明確ではない漠然とした希望を思い描きつつ、特にがむしゃらでもなく、普通に
目の前のできることをやっていく、そんないつも通りの1年をすごせたらと思います。

私は本当に周りの人に恵まれているので、そのことだけは忘れないように。
亡くなった母にもよく言われていました。

父の口癖「何が一番大事かだけ考えて行動すればいい」も忘れないように。


忘れっぽいので心配ですが(笑

そんな私ですが、どうか懲りませず今年もよろしくお願いします。