2013/08/31

じぶんのやくわり④

思ったよりも長編になってしまいました。
お付き合い頂いている皆さん、ありがとうございます。


こうして始まった私のシェムリアップ生活(じぶんのやくわり①②③参照)、
することが欲しかった私は「できること」がなんなのかわからないままに
まずは施設のあるシェムリアップに行ってしまうという、思い返せば
考えなしの行動に出ました・・・。

私の住む場所は敷地内に建設中だった新しい宿舎の1階の一角。
オフィスになる予定である作りかけの部屋でした。
窓は鉄格子が入っていたもののガラスサッシはまだついておらず、
四角く穴があいている状態。
床はタイルでしたが未完。
机も椅子もありません。
そこに布団と蚊帳を持ち込み、タイルに直接敷いて蚊帳をかけて
息子と並んで寝ていました。
プノンペンから持ってきた冷蔵庫とテレビも床に置くしかありません。
テレビと言ってもカンボジア語のローカル番組しか映らないので
実質土曜日夜に設定した子どもたちのTVの時間に使用されるだけの
ものでした。

パソコンは支援者の方からのメールに対応するものでしたが、今のように
WIFIなんてあるわけもなく、携帯電話とPCを赤外線でつなぎダイヤルアップ
接続(若い人にはわからないかも・笑)していました。
置き場所がないので支援物資が送られてきた段ボール箱をさかさまにして
机に見立て、PC用に使ったり、当時手書きでお送りしていたお礼状や
報告のお手紙を書くために使っていました。
停電はほぼ毎日で夜になるとろうそく生活。
昭和?いや、もっと前なんじゃないかという毎日でした。

まずは子どもたちの顔と名前を覚えなくてはと思い、日本語授業用の
ホワイトボードに名前を書いて横に立ってもらい写真を撮りアルバムを
作りました。
他人の顔と名前を覚えるのが苦手な私にとっては毎日できるだけ子どもたち
と接することと部屋でこのアルバムを見ることが最初の仕事だったかも
しれません。

寄付を頂くと夫から連絡があるので私が箱の机でお礼状を書く。
しかし私にはそれ以外の何ができるんだろうか・・・と思い悩んだ・・・・
わけではなく、飛び込んだ後はじっくり考えることが好きな私は毎日
カンボジア人スタッフが何をしているのかを観察していました。
現状を客観的にとらえないと問題点や改善点を見つけることができないと
いうことが本能的にあったのかもしれません。

目の前に子どもたちがいるとついついすぐに手を出したくなるのもわかり
ますが、子ども大好き!ではなかった私は、自分よりも先に子どもたちの
指導をしているカンボジア人スタッフたちのやり方を観察しようと思った
のです。
まずは先に始めた人のやっていることをよく観察していいものは
自分のモノにしていきなさい、茶道講師をしていた母親からよく
言われていたことも影響したのかもしれません。


そこでいろいろなことに気が付きました。

朝食はみんななんとなく集まってお粥を作り、干し魚を焼いて食べます。
学校には行きます。
夕方は施設で飼っていた牛に草を食べさせる当番がありましたが、それ
以外の子は空き地でサッカーをしていました。
夜は自習時間があります。
カンボジアの学校は2部制で半日は学校がないため子どもたちは十分
時間があるはずなのに敷地内はゴミだらけ。蠅もたくさん飛んでいました。
井戸の周りはヘドロ状態で、水の流れる道すじもありません。
その1つの井戸で水浴びをし、調理をして、洗濯もしていましたが、それぞれに
出る排水は行き場がなくたまって蒸発するのを待つだけだったのです。
よく見ているとさっきまで魚を洗っていたタライで洗濯をしていました。
調理のおばさんを手伝うのは女の子だけ、男の子はみんな遊んでいるか
昼寝をしていました。

一番驚いたのは食事風景。
大きな子が先におなかいっぱい食べたら、ようやく小さい子が食べられる
ようになります。それまでは肘でガードされて手を出すことができないのです。
その食事も魚の切れ端が少し入った塩辛いスープで、白いごはんをたくさん
食べることをなんとかおなかを満たすようなものでした。

うーーーーん・・・・。
私が来る前に子どもたちの面倒を見てくれているスタッフの顔をつぶさずに
気になることを変えていくにはどうすればいいんだろうか・・・。

いや、それ以前にどうして大人が当たり前のことを指導できないのだろうか・・・。

当たり前のこと・・・
私にとって当たり前のことがカンボジア人スタッフには当たり前でないことにも
気が付きました。
当然まずはスタッフに理解してもらうことから始めようと思いましたが、大人に
なって頭が固くプライドもある相手。
そしてなんといってもシェムリアップという超ド田舎ではスタッフの力を借りずに
生活することもままならない私がえらそうにあれこれと教えるなんて勇気は
でませんでした。
当時25歳の私、厚かましく成長した今なら積極的に動いたのかもしれません。

そして私の出した結論は・・・

まずは自分がやろう

ということでした。

井戸の周りを掃除する、落ちているごみを炎天下の中黙々と拾う。
スタッフも子どもたちも見て見ぬふりでしたが、とにかく来る日も来る日も
汗だく、真っ黒になって掃除とゴミを燃やす作業だけを続けました。

そうするうちに数名の子どもたちが手伝いにくるようになりました。
そこで子どもたちと話をしたり、掃除の仕方を教えたりするようになり、だんだん
と手伝う子どもの人数も増えていきました。

これが現在の施設で夕方設定されている「お手伝いの時間」の原型です。






2013/08/29

じぶんのやくわり③

その日の起床時間はたぶん午前3時ごろだったと思います。

真っ暗なプノンペンの街。
いつもは屋台や露店でにぎわう街並みに人影がまったく
ない中、少しの家財道具を積み込み、運転手さんとお手伝い
さんが1人ずつと夫、そして息子をだっこした私が乗り込んだ車は
緑のRAV4。

シェムリアップに通じる国道6号線は当時未舗装で、到着するのに
何時間かかるんだろうと言うほどのノロノロ運転でした。
あちらこちらに穴があり、車が壊れても修理できるような場所も
ないのですから無理もありませんでした。

きっとこの先に、なにかすることがある生活が待っていると自分に
言い聞かせて黙って座る私と、何もわからずにニコニコとご機嫌の
息子。
車での移動だったのは、私がシェムリアップで行動しやすいようにと
夫が買ってくれたRAV4を自分たちで運ばなければならなかった
からです。

青い空と緑の田んぼの中に時々突き出すやしの木。
延々とその風景が続きます。

ようやくシェムリアップに到着したときは日が暮れ始めた午後5時
くらいでした。
飛行機で飛べば1時間もかからない距離なのに、12時間以上も
かけたことになります。

今のスナーダイ・クマエは大きな建物が2棟、教室兼食堂、伝統舞踊
練習場、調理場と食料の備蓄倉庫である高床の小屋に加え、みんなで
造った庭やグラウンドがありますが、私が到着したそのときは
敷地の門をくぐってすぐに小屋が1つポツンと建っているだけでした。
植え木も花もない殺風景で子どもの育つ環境じゃないなという違和感。


車から降りると25人くらいの子どもたちが駆け寄ってきて言いました。

「こんにちは!おかあさん!」

日本語??

院内教育として日本語の授業を設けていたことは聞いていましたが、
そのときは先生も帰国してしまっていたので、まさか日本語で話しかけ
られるとは思っていなかった私は驚いてなにも反応できませんでした。
いまさら言うのもなんなのですが、私は子どもがあまり得意ではなく
普段からも積極的に子どもと遊ぶタイプではなかったのです。

TVが1台と日本から持ってきたノートパソコン、ネット通信に利用できる
携帯電話、そして息子の食料を保存するための冷蔵庫だけが私の
家財道具。
建設中だった新宿舎の1階にあった未完の部屋に運び込んで、ともかく
私の新シェムリアップ生活が始まりました。

ここで自分の役割を見つけたい。

行動してぶち当たってから考えるという性格は今も変わっていないよう
に思いますが、先にあるものがなんなのかまったく想像もできなかった
このときの状況はまさにそんな中で始まったのだと今になって思います。

カンボジアにはたくさんのNGOや諸外国からの支援が入っていると
言われています。
当時の私にはそんな知識はなく、自分がそういった活動に参加すると
いう意識もありませんでした。
施設は夫の志で建てたもの、私は人生を共に歩むパートナーのお手伝い
ができれば、そこに自分の役割があるのではないかという漠然とした
思いしかなかったのですから。

そういう意味では「カンボジアの人たちになにかしたい」「カンボジアの
社会的な問題を改善したい」という気持ちでカンボジアにやってきた
日本人を含む外国の人たちとは気持ちの温度差があったと思います。


家族がやっていることを家族が手伝う、それは当り前のこと。
そこに自分の役割を見出して生きていきたい。

要するに夫の役に立ちたかったのだと思います。

2013/08/27

じぶんのやくわり②

夫がシェムリアップに「スナーダイ・クマエ孤児院」を作ったのは
1998年。
その前から「ダイ・トイ」(小さな手)という任意団体を作り、地域の
子どもたちに勉強を教える塾のようなことや、休日に遺跡周辺の
清掃活動をしているということは聞いていました。

私がカンボジアに初めて行ったのは知人の誘いで、その方が
支援して寄付したある中学校の校舎の落成式に参加するため
でした。
カンボジアがどこにあるかもよく知らなかったけれど、アンコール
ワットという遺跡があることだけは知っていて、そこに行ってみたい
という単純な動機。
大学を卒業する1997年2月のことです。

その校舎建設の現地カウンターパートを務めていたのが夫。
1980年にカンボジア難民として来日し、中学校から大学院までを
日本で過ごした彼は日本語には不自由ありませんでした。


孤児院を作ろうと準備していた頃は日本政府のアンコール遺跡
救済チーム(当時のJSA、現在のJASA)で通訳をしていた夫。
シェムリアップに住み続け、仕事と孤児院運営をしようと思って
いたそうですが、家庭の事情で出身地のプノンペンに戻る理由が
でき私と知り合ったときにはプノンペンにある日系ゼネコンに
勤務していました。
シェムリアップで活動を始めかけていた孤児院は現地スタッフに
任せて週末だけ様子を見に行くという生活。
日本に住んでいたこともあり、孤児院運営にかかる費用を日本の
方に支援して頂いていると聞いていました。


最初はプノンペンで暮らしていた私がシェムリアップ行きを決めたのは

「ここなら自分にできることがあるかもしれない」

と思ったから。

大学では会計学のゼミに所属していたもののできの悪い学生だった
私には特に自慢できるような専門はなかったけれど、日本の支援者の
方へのお礼や報告などはできるのではないか、そのためには現場に
いたほうが状況の把握がしやすいという考えでした。

なにもすることがないプノンペンでの生活に飽き飽きしていた私には
それしか選択肢がなかったといえるかもしれません。

私が作った孤児院ではありません。
夫が自分なりの思いがあり設立した施設です。
あとで知ったのですが1998年政府へのローカルNGO登録の際には
私もスタッフとして名前が記載されていたそうです。

とにかくこのプノンペン生活から逃れたいという一心でしたが、そこまでは
夫には言わず「シェムリアップに息子と移住したい」と伝えました。
今のシェムリアップからは想像もできない超ド田舎だった当時のシェムリ
アップ、治安などの面を考えてもプノンペンよりは安心というのが
夫の答えでした。

そしていよいよシェムリアップに移動するその日を迎えました。






じぶんのやくわり①

日本でのお仕事を終え、カンボジアに戻って10日ほどが
経ちました。

夏は毎年絵画展に始まり、絵画展で終わる日本滞在。
今年は会場が1つ増えたこともあり、いつも以上に時間が経つのが
早かったような気がします。


そんな中で滞在終盤のお盆の時期、特に予定もなく実家で過ごし
ながら、施設における自分の役割が変化してきていることについて
思いを巡らせていました。



2000年4月、なにもわからないままにプノンペンからシェムリアップへ。
当時1歳の息子を連れて・・・。

最初は夫とともにプノンペンの自宅で暮らしていました。
お手伝いさんが3人、運転手さんが1人、いつも誰かが身の回りのことを
気遣ってくれる環境。
治安が悪い、交通事故でも補償がないなどの理由で夫からは極力
外出するなと言われていた私はカンボジア独特の薄暗い作りの家の
中で1日の大半を過ごしていました。

掃除も洗濯も料理もすべてお手伝いさん。
息子のミルクなどの買い出しに行くときは運転手さんに助けてもらっての外出。

ついに息子の面倒までお手伝いさんたちがみるようになってしまい、私は
なにもすることがない・・・。

あるとき掃除や洗濯などを自分でしたら夫がびっくりするほど怒りました。

「カンボジア人の仕事をとるな」

そもそも家事も料理も好きな方で、私がやとってほしいと言ったわけでも
ないのに勝手に準備されて「君には不自由させない」と。
彼にとっての優しさはいつもお金ではかるものでした。

私はなんのために生きているのか・・・、何をしにプノンペンまで来たのか、
そんなことをよく考えていました。

「することがない」
こんなに苦痛な毎日ってあるんだろうか、と。

そんな日々が私にシェムリアップ行きを決断させたのかもしれません。



2013/08/20

私たち

日本での仕事を終え、お盆に母のお墓参りなどもして帰ってきました
カンボジアに。


帰ってきて今日で5日目。
朝からガッツリ家事も仕事もしていたのですが、夜になって卒業生の
サヴィーからメッセージが。

元気ですか?と聞かれたので、

ちょっと疲れてるよ

と答えたら・・・

おかあさんは私たちのために日本でがんばりました。
ゆっくり休んで下さい。
またパナーくんやサイハーくんをさそって遊びに行きます。

という返信。


絵画展での収益はすべて施設の運営費になることを彼は知っています。
でもサヴィーはすでに卒業した身。

なのに我がことのように「私たちのために」と。

卒業したら関係ない場所、ではないのですね。うれしいです。

パナーもサイハーも卒業生、そういえば昨日はスレイニーも来てたなぁ・・・(笑
ラーヴォもまた来ますって言ってたし。


また明日もがんばろ。




2013/08/10

思うこと多く・・・

うっかり夜更かし。

6月末から始まった、毎夏恒例イベント「スナーダイ・クマエ絵画展」が
8月4日で終わり、なんとなく抜け殻です。

イベントが終わってもすることは山積みなので、抜け殻になっている
場合ではないのですが(笑


絵画展も東京、神戸は5回を数え、地元和歌山は3回、そして新たに
名古屋も加わった今年。


思うことが多すぎてなかなかまとまらず。



NGOの活動が活発な国の1つだと言われるカンボジアで、いわゆる
ボランティアと呼ばれることに関わり始めて13年・・・。

自分自身が立ち上げた施設ではないのでいい意味で、「執着がない」
というところが楽なのだなと最近はつくづく思います。


食欲以外の欲はほぼ自覚したことがない私(笑


自分の大事な人たちとは真剣に向き合いたい、関心を持って生きたいと
いう欲はあるかもしれませんが、それと相手を縛り付けることは別の話。
自分からの投げかけに反応がない場合は、表面的にはあっさり対応する
ことができます。

反応があるかなと思って何度かは挑戦します。
割と全力で。

結局は自分が納得するところまで尽くしたかどうかなのかもしれません。

そしてたとえそのときに思うような反応がなくても、いつか気持ちが通じる
日が来るかもしれないという淡い希望は心のどこかに残しています。



カンボジアの子どもたちという漠然とした存在ではなく、名前や個性、人格を
認識した一人一人の人間としてそれぞれの子どもたちと出会い、時間を
共にしている私にとって、普通の日々の積み重ねだけが大事にしたいと
思うことなのでしょう。


執着せず、決めつけず、自分の希望はふんわりと思い描きながら、ぼちぼち
前に進むのが自分の生き方なのかなと、30代最後の歳を迎えてなんとなく
そんなことを思ってみたり。


私がそんなふうに思えるのはここまで一緒に歩んで来てくれた支援者の
皆さんやその他関係者の皆さんがいるから。
一人でやってきたという思い込みは執着につながるのかもしれません。

そして執着されて手を離してもらえない子どもたちはどうなるのか?
ずっと私の指示がないと動けないスタッフは?
カンボジアの人の手によるものという名前の施設運営は?

スナーダイクマエという団体、またはそこにいるスタッフや子どもたちに
誤った執着心を持たないことを将来よい方向に進む基礎にしていこう。



深夜に書く文章は酔っ払いの手紙みたいなもんだと以前友人に言われた
ことがあるけれど、今日もそんな感じかな(笑


この夏のいろいろを消化するまで、少し時間がかかりそうです。

というわけで、まずは寝ます(笑