2016/01/17

21年目

1月17日、一生忘れることのない日。


あの日の早朝、試験勉強のため徹夜していた私。
隣の家のおばさんは圧死したけれど、すぐ横で生きのびた私。
そしてなぜか今はカンボジアに住んでいる私。

21年経っても、あの日の記憶はすべてモノクロでしか思い出せません。
神戸から色が消えた日でした。


あのとき神戸に住んでいたというと、カンボジアでの使命が待っていたから
生かされたのかもしれないねという言葉をもらうことがあります。
そういうふうに言ってくださる方を否定するわけではないのですが、でも
違うんです。
みんな同じ状況だったのに、たまたま命拾いしたんです。

あのときにもらった命だから、カンボジアで子どもたちと一緒に暮らすことを
心に決めた、なんて安っぽいことは死んでも言えないと思っています。

そのことを今のカンボジアの活動の意味づけになんてとてもじゃないけど
できません。
6000人以上もの方が亡くなったあの震災にむけて、生き残ったから自分は
どうのこうのなんて言えないんです。


みんな生きたかった、それだけが真実だと思います。


生きている自分に今日できることといえば、静かに祈ることだけです。


また1年、丁寧に生きよう。




2016/01/07

母の命日

新年あけましておめでとうございます。

新年のごあいさつですら遅れがちのわたくし。
どうか懲りませず、今年もよろしくお願いいたします。




「お姉ちゃんはええなあ、長いことお母さんと一緒にいられて。って
あやちゃん(私の母)には何回もそんなこと言われたんよ」

お正月、田舎で親戚が近所にたくさんいる中で育ったもので、毎年元日には
叔母のうちにあいさつにいきます。
今年もいつもと変わらずに行ったのですが、少し遅れてしまったこともあり
いとこたちはそれぞれどこかに行ってしまっていました。

残されていた叔母(といってももう80前のおばあちゃん)が話し出したのは、
いつもならにぎやかな食卓に残された私と二人の時でした。

叔母と私の母は10歳も離れたきょうだいです。
それで叔母に母は、お姉ちゃんのほうがお母さん(私の祖母)とたくさん
時間を過ごせてうらやましいとよく言っていたそうなのです。

私は母からおじいちゃんの話はよく聞いていたので、おばあちゃんのことを
そんな風に言っていたことを知りとても意外に感じました。

叔母はつづけて言いました。
「あやちゃんが亡くなった時、私は涙も出んかった。あの子が先に逝くなんて
誰も思ってへんかったやろ。茫然と、なんで?なんで?と思うだけやった。」

このブログに何度か書いていますが、私の母は2006年に急性心不全で
亡くなっています。
その日の朝まで元気だったので、誰もが信じられない思いだったのです。

叔母からそんな自分の気持ちを聞かされたのは初めてのことでした。

45年前のあやちゃん
「だからな、あやちゃんは私らよりも早くおばあちゃんのところに行きたかった
んかなあって。私はそう思って納得するしかなかったんよ。」

叔母の最後の言葉を聞いて、母への関わり方が違うと死の受け止め方も
違うんだなと思っていました。
そこに違和感はなく、むしろ叔母の言葉のおかげで腑に落ちたような気が
したのです。

私は母がどうして60歳という年齢でこの世を去ってしまったのか、自分が生きている
間にその答えは見つからないと思っています。

叔母の話を聞くことができて、それが答えではないけれど、少し救われた
ような気持ちになったのでした。

今日、1月7日は母の命日です。
昨年9月に膵臓癌で亡くなった父と一緒に私や叔母のことを見ていてくれた
かもしれませんね。

それとも、叔母の体を使って母が私にくれたメッセージだったのかもしれません。


母の命日だからこそ、明日カンボジアに戻るというバタバタの中でもこの
ことをブログにつづりたいと思いました。

元日に母を感じることができた2016年。
今年は新しいことにも挑戦していきたいと思っています。

相変わらずの不定期すぎる更新ですが、皆様温かく見守っていただけましたら
幸いでございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。