2015/12/25

聖なる日、思うこと・・・ と番組の告知

大変ご無沙汰するのが恒例となっております、メアス博子です。
また3ヶ月も放置してしまったブログ。やる気はあります、一応あります。


今日はクリスマスですねえ。
最近はカンボジアでもクリスマスが定着?認識?されてきています。
一時帰国中の私にもカンボジアから卒業生のケインちゃんがクリスマス
メッセージを送ってきてくれました。
カンボジアに行って間もないころに、夜中こっそりと子どもたちの蚊帳の中に
プレゼントを置いて回ったんですけど、朝になってみんなから「サンタさん、
ありがとう」とまっすぐな瞳を向けられたことを思い出しました。切なかった、
完全にばれてました、わたくし。

それはさておき・・・

12月13日に卒業生のラーヴォの奥さんが第一子となる男の子を無事に
出産しました。
小さい命を腕の中に・・・
3700gとかなりのビッグ赤ちゃんだったようです。奥さんのナリーちゃん、おつかれ
さまでした。

私は名古屋での絵画展のために一時帰国中。
仕事が始まる前にこの一報が入りました。うれしかったなあ。




そしてこの短い滞在ですが、友人宅や親せき宅で感じたことを・・・。
私がお邪魔したお宅には、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、いとこやその
子どもたちがみんな集まっていました。

おじいちゃんやおばあちゃんに甘えるお孫さん、おかあさんやその他たくさんの
親せきたちに抱っこされる赤ちゃん、久々に会って他愛もない話で盛り上がるいとこ
たち・・・。

うーーん、やっぱり家族の健康とこの平和な雰囲気に勝る幸せはない、な。

なんでもない当たり前のことに見えるかもしれないけど、これを普通と思えるように
守っているみんながすごいし、そういうものがそばにあることが幸せなんだなあと
かみしめて感じていました。

きょうだいでちょっとした小競り合いをしながらお父さんやお母さんに叱られたり、
それでも結局はみんなでおいしくご飯を食べたり、笑ったり。
幸せなことなんやなあ、これが一番の幸せやなあ、と。


ラーヴォにとって子ども時代はうちの施設がすべてになっていて、いわゆる
普通の家庭の中では育っていないけど、今彼の腕に抱かれている赤ちゃんは
これからラーヴォとナリーちゃんから愛情をいっぱいに受けて育っていく。
ラーヴォがそんなお父さんになるために必要だった子ども時代の経験の中に
私がいるのだとしたら、それもまたすごく幸せなこと。
「本当にかわいくて、ずっと見ていたい気持ちです」ラーヴォがくれたメッセージ。
子どもを見てそんなふうに思える人に育ってくれてありがとう。


私が息子を出産した瞬間に母が言ったのは、
「やっとこれで命のバトンタッチができた」
だったんだけど、すこしだけその気持ちがわかるような気がしました。


命をつないでいくことは決して子どもを産むということだけではないんですね。
親から教えられたことを子どもに伝えることが命をつなぐこと。
子どもは自分が産んだ子であるとは限らない。
自分に関わる子どもたち、みんなが大切な命で。

親から受け取ったものを自分なりにどうやって子どもに伝えるのかということを
意識できるかどうかで、自分の生き方も変わってくるように思います。

日本の家族の様子やラーヴォの第一子誕生から、そんなことを思っていた聖なる日
なのであります。
みなさんはどんな年末をお過ごしでしょうか??
大切な人たちとのかけがえない時間(一見当たり前に思えるもの)をすごしてくださいね。

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【テレビで紹介していただきます】
12月28日(月)午後9時から
テレビ東京系列
「世界ナゼそこに?日本人 2時間半スペシャル」

テレビ東京系列なのでお住まいの地域で放送があるかどうかご確認ください。

ちなみにわたくしの地元である和歌山では放送されない模様です(笑




2015/09/06

読売テレビ系列「グッと!地球便」1時間スペシャル

すっかりブログの更新が滞りまくり、気がつけば3か月近く放置と
なっておりました。
懲りずに今まさにこの画面を見てくださっているあなた!素敵です(笑
ありがとうございます。


今日は6月に取材を受けたTV番組の告知を・・・

2009年にも出演させて頂いた、「グッと!地球便」という番組です。
この番組は海外で暮らす家族の様子を録画したものをお笑い芸人の
ぐっさんこと山口智充さんが日本の家族に見せに来てくれるという
内容です。
以前の出演の際には、私の様子をぐっさんが実家に持って行ってくれて
父と姉と共に見てくれました。
あとで地元の同級生に聞きましたが、ぐっさんが私の実家に入っていく
のを見ていた人がたくさんいたそうで、何事かと思っていたらしいです(笑

父はぐっさんと一緒に取ってもらった写真のデータを誤って消去して
しまっていました・・・なんてこと・・・。

今回はスペシャル番組ということで、普段は海外に行かないぐっさんが
現地に赴き過去の出演者を訪ねるという内容、私も息子もわくわくでした。

正直にいうと、ぐっさんは(ぐっさんって気安く呼んでしまっていますが・・・)

本当にすごくいい雰囲気をまとった方でした。
大物オーラで他人を寄せ付けないみたいな怖い感じもないし、インタビュー
されても威圧感がないのですらすらとお答えすることもできました。

写真撮影にも気軽に応じてくださったし、息子はセルフィーで撮ってもらって
いました。(セルフィーにした息子にも驚きましたが・・・笑)

無類の飛行機好き、機内アナウンスマニアの息子に付き合って下さって、
休憩時間なのに飛行機の声帯模写(ぐっさん)から機内アナウンス(息子)
という流れでモノマネまで披露してくれました。
めっちゃええ人やなあと思いながら、プロの芸に口を開けて見るだけの母。

子どもたちと交流する際も不公平が出ないように気遣ってくれていたのが
印象的でした。

ここまで書いた話、インタビューのこと以外はカメラの回ってないところでの
出来事です。
ほんまにすごいええ人やなあっていう印象しかありませんでした。

何回もいいます、ぐっさんはとてもいい人でした!(笑


ほんで放送はいつやねん!という突っ込みがそろそろきそうなので・・・

 ↓  ↓  ↓ 

読売テレビ系列
『グッと!地球便 1時間スペシャル*カンボジア』
9月6日(日) 午前9時55分~

いつもより30分早く始まるそうです。忘れそうな方は今から予約しておきましょう!

番組の予告サイトはこちらです 
『グッと!地球便 1時間スペシャル』


私の他にも過去にこの番組に出演された皆さんが取り上げられています。

・CANDY ANGKOR 飴細工職人 YAYOIさん

・淡水魚研究家 佐藤智之さんと美容師 典子さん夫妻

・遺跡修復に従事されている??さん(番組のHPでも名前がないのでここでも)

この3組の皆さん、普段からよく知っている顔なじみの方ばかりです。
知っている人たちと一緒に出演ってどんな感じになっているのか、自分でも
楽しみです。


残念ながらぐっさんと一緒に撮って頂いた写真は掲載できないのですが、
とても自然にさっと肩に手を回してくれたのが本当によい思い出の一枚に
なりました。

私はカンボジアにいますので6日の放送は見れないのですが、ご覧になった
方はぜひご感想などもお知らせ下さいね。

よろしくお願いします。



2015/06/18

子どもに好かれなくてもいい

日本の一部店舗で販売されているという、ハーゲンダッツの抹茶きなこ黒蜜が
気になってしょうがない今日この頃。
気づけばまたまた更新が2か月も遅れておりました。本人もびっくりです。
そしてどこにいらっしゃるかわかりませんが、このブログを読んで下さっている
皆様、本当にありがとうございます。

今日は「子どもに好かれなくてもいい」ということについて・・・

好かれなくてもいいけど、私はみんなが大好きだ

子どもに好かれなくてもいい、なんていうと「孤児院やってるのに子どもが嫌い
なの?」って思われるかもしれませんね。

でも私は子どもに好かれなくてもいいと思っています。

毎日毎日子どもたちを見続けて、何かあれば小言のように「手は洗ったのか?」
「部屋を片付けているのか?」「ハサミ持ったまま走っちゃダメ!」とか言ってる
私やスタッフのことを子どもたちがどう見るか。
言われた瞬間に「教えてくれてありがとう」なんて思う子はきっといないでしょう。

うるさいなー。
めんどくさいなー。

このあたりが妥当なところでしょう。


子どもに好かれなくてもいいんです、でも嫌われたらダメなんだなあ。
嫌悪という感情があるだけで、伝えたいことが伝わらなくなることって多いと
思うんです。
言い換えれば『受け入れてない』ってことですよね。

そうなってしまうと、その人の言うことは内容がどうであれ頭に入ってこない。

そして子どもに受け入れてもらうために媚びる大人。
実はこれが一番嫌われるんじゃないかと。
自分に対してどれだけ真剣になっているか、子どもって本能的にそういうことを
見てるんではないかと思います。

要するに適当に扱ってはいけないということなんではないかと思うんです。
意外と繊細な部分でもありますね、これは。

誰だって他者から嫌われたくないものです。
でも一見嫌われるかのように思われる行動に、深い気持ちが隠されている
ところが大切なんではないかと。

じゃあどうすればそれができるのか。

けっこうしんどいんですけど、「好かれなくていいから毅然と伝え続けること」
なんだろうなと思います。
いつかわかるときがくるかもしれないと信じることなんですよね。
でもいつまで経ってもわからないかもしれないんです。
だけど、伝え続けるんです。これがポイントです。
ぶれずにいきましょう。




なんで私がこれを書こうと思ったかというと、私が子どもに好かれなくてもいい
んですよって話した時、相手の顔が曇ったことがあって。

受け取り方にもよるんでしょうけど、好かれなくてもいい=相手のことが好き
ではない、もしくは好かれたいと思っていない、と思われたのかもしれません。

好きだから、いやもっと言うと愛しているからこそ好かれなくていいから伝え
続けていきたいと思うんだけど、それがうまくわかってもらえないこともあるん
ですね。

もちろん好かれた方がうれしいし、いいに決まってます。
でもそれが一時的なものであれば虚しいだけです。

子どもに(今)好かれなくても、(いつかわかってくれたら)いい。

って、言いたかったんですけど、端折りすぎたのかな(笑

いつも言うように私たちの物語はどこかの一部分を切り取った時間だけでは
なくて、ここで出会ったときからずっとこれからも続いていくものなんです。
だから、今だけを見た好き嫌いの問題ではない、ということなんです。

うーん、話で伝えるのも難しいけど、文字で表すのも難しい・・・(笑
まあその人に伝わらなくても、子どもたちに伝わっていればいいんです
けどね。
やっぱり人間なので、本意でない伝わり方をすると気持ち悪いわけです(笑

異文化、育つ環境もまったく違う子どもたちと一緒に暮らして15年が過ぎました。
この時間の中で私が育んできた子どもたちとの関係や距離感、そういうものを
信じていきたいです。
とはいえ、アタマが硬くなるのは嫌だなあと思うので、自分の置かれている
立場や空気はそのときどきで読んでいきたいですね。


カンボジアの人たちに、お前もういらんわ、って言われたら終了。
そう思っていますが、媚びません(笑


2015/04/11

だからね、一番大変なことなんてないのです

カンボジアのお正月を間近に控えてのある日。
普段は日中ほとんど外出することのない私ですが、その日はたまたま
ちょっとした用があり出ていました。

帰ってくるとスタッフから紙袋を手渡され、「サヴィが博子さんにって持って
来ましたよ」と言われました。
部屋に戻って中を見てみると、とっても立派なマンゴー5個とお手紙。

まだちょっと青いかな
サヴィはこのブログでも何度か書いていますが、うちの施設の卒業生。
日本語スピーチコンテストでも入賞経験があり、今は日本語ガイドをしています。

うれしいなあ、ありがとう、サヴィ
日本語で書いてくれたお手紙。
サヴィの心がぎゅっと詰まったお手紙です。



私は日本でもカンボジアでも、スナーダイ・クマエについてお話しする機会が色々と
あります。
そしてその際によく聞かれる質問の一つが
「これまでやってきて一番大変だったことはなんですか?」
というものです。

本当によく聞かれます。

でも私、この質問がとても苦手なのです。

一番大変だったことが思い出せないから。
 
 
 
 
15年子どもたちと関わってきて、卒業生や今いる子どもたちと日々の関わりを
紡いでいく中で、今回のようなお手紙を1つ受け取ることでさらなる幸福感に
包まれます。
 
みんなとの関わりがこれからどのように成熟していくのか今ははっきりと見えない。
サヴィが幼かった頃、こんなお手紙をくれるいつかが来るなんて思ってもなかった。
 
 
同じような経験を細かく繰り返してきたことで、いわゆる『大変』と言われるような
出来事の渦中にいるときですら、この今の時がいつか違った見方ができる日に
変わるかもしれないと思えるんです。
 
だからね、大変なことって思わないのかもしれない。
 
サヴィのお手紙を受け取ったことで、今目の前にいる子どもたちにどうやって
接していけばいいのか、自分の中の核となるものをさらに強くしてもらえた
ように思います。
 
 
サヴィは『新しい人生を作ってくれてありがとう』って書いてくれていますが、
私もサヴィから『新しい物事のとらえ方』を教えてもらっています。
 
のんびりしている私には、10年後とか15年後に思いを馳せて今を生きることが
あっているんだろうな。
 
これからの5年、10年が楽しみです
 
私たちの物語はこれからもずっと続いていくのです。

2015/03/24

継続は力なり、なのであります

またまた更新怠ってました。というか、何年同じこと言い続けんねんという突っ込みは
拒否します、メアス博子です。
久々更新で文章ながっ!というコメントも拒否です、よろしくです。(笑




昨夜、うちの敷地内でカンボジアの伝統芸能である『スバエク・トム』の上演がありました。
その前日に施設訪問をして下さった長野県のNPO「ふるさと南信州緑の基金」の皆さん
から子どもたちと一緒にスバエク・トムを鑑賞する機会をというお計らいでした。

スバエク・トムは影絵芝居です。
民話など親しみのある物語を描く『スバエク・トーイ』と、古典を伝える『スバエク・トム』が
あります。
スバエクは皮、トーイは小さい、トムは大きいという意味で、水牛の皮から影絵を制作する
ことからこのように呼ばれ、その名の通りスバエク・トーイではこぶりの影絵、スバエク・
トムでは大人でも持つのが大変なくらい大きなものを使用して演じます。

カンボジア旅行された方は伝統舞踊を見ながらの夕食というもはや定番のコースを
体験することが多いと思いますが、伝統舞踊と同じようにこの影絵もポルポト時代を
生き抜いた人々から受け継がれています。

この影絵芝居復興に尽力してきたのが、日本人の福富友子さんです。
私は1997年からお付き合いさせて頂いています。
「カンボジア指さし会話帳」著者と言った方がわかりやすいかもしれません。

福富さんは影絵芝居を復興させるために影絵一座の長老宅に住み込み、せりふを
おこして日本語に訳するという膨大で地道な作業をやってのけた方なのです。
もちろんクメール語はペラペラで、現在は日本の大学でも指導されています。
福富さんがその作業を行う前、物語の内容やせりふは演じ手の記憶にあるのみで
文献として残されていなかったと聞いています。

福富さんはその性格からか目立つこともなく、ただひたすら地味にこの活動をやって
こられた、知る人ぞ知るの存在なのです。

芝居を始める前のお祈りの儀式
この写真の儀式が行われるとき、福富さんも自然にお供えに手を合わせていました。
その姿からこの影絵一座と福富さんの強い関係性を垣間見たような気がします。

私が福富さんに初めて会ったのは1997年のプノンペンでした。
たしかあの頃はそろそろ本腰を入れて影絵復興に関わろうとしていたように記憶
しています。

それから誰に主張するわけでもなく、自分が興味のある影絵芝居の復興に静かに
関わってこられたのです。
日本での公演を何度も成功させていますが、やはりなんといっても若い世代に
この伝統を引き継いでいく手助けをし続けていること、関わり続けていることが
一番の功績だと思います。
今回の一座の中にも他の大人よりもかなり体格の小さい子が演じているを見つけ
ました。
左手の方の2人は子どもでした
彼らに伝統が受け継がれていくんですね。


福富さんに言うと、そんな壮大な話じゃない、自分のやりたいことを続けてきただけと
笑って答えそうです。

誰にでも挑戦できるかもしれない、でも誰でも続けられることではないと思います。
それはそのとき自分を取り巻く環境であったり、人との出会いにもよりますが、やはり
一番重要なのは、その人の志です。

私はカンボジアで施設に関わることになった最初のきっかけは福富さんとは違う形
だったかもしれません。
ただ共通していたことは、「やめなかったこと」。

やめるという選択肢もあったと思います。
でも福富さんも私もやめなかった。

そして福富さんの関わる影絵一座が、うちの施設で上演するというめぐりあわせに
なりました。

続けていると初めは見えなかった風景を見させてもらえるものですね。


ときどき思うこと、カンボジアで専門的な知識や技術を使い活躍している人たち
に比べて、自分は何にもないなあと。

幸い私は、関わることで少しずつ自分にとってかけがえのない場所となったここ
から去ることなく今も関わり続けています。
福富さんのように語学で貢献もできないし、他になんの専門も技術もないというのに。

やってきたことといえば「やめなかったこと」だけかもしれない。
やめずにいられたのは周囲の人たちに恵まれていたからでもあります。
どんなに続けたいと思っても、環境がそれを許してくれなくなることだってありますから。

そして専門性のある人もきっとそういうと思います。
「やめなかっただけですよ」

カンボジアで地道に活動を続けられている方の顔が何人も浮かびますが、皆さん
そう言いそうな気がします。
それはビジネスでも、その他の活動でも同じこと。


やっぱり「継続は力なり」なのであります。
もっと言うと、継続させてもらえることに感謝、でもあります。
だってカンボジアの人たちに望まれないのであれば、続けることもできないです
もんね。邪魔にならないように・・・。


影絵のために焚かれた松明のもとで、そんなことを思っていたのでした。
そしてまだ見ていない風景がまた見られるいつかを楽しみに、地味に続けていきたいと
思うわけです。



2015/03/04

見えてきた答え

大学生の長期休暇である春と夏は私の運営する施設への訪問希望が増える
季節でもあります。

色々な方と会うので、それぞれの今置かれている立場や価値観などによる
質問を受けます。
昨日はある質問を頂いたことから探していた答えが見えてきたような気が
したのでそのことを書こうと思います。


私の母は60歳で急逝しました。急性心不全、周りの人は誰一人母がこんなに急に
逝ってしまうなどと思ってもいませんでした。
10年前のことでした。

そして父は昨年すい臓がんと診断され、自宅療養ののちに母のもとへ逝きました。

母が亡くなってからずっと、なぜこんなにも早く逝かなければならなかったのか、と
思い続けています。
そして父が亡くなってからはまた別の思いが生まれました。
それを言葉にするのにぴったりな表現がよくわからないのですが、「父と母がこの世
にいたその意味について」なのかもしれません。
なんかうまく言えないのですが。



昨日訪問して下さったのは名古屋大学の先生と学生さんの一行。
学生さんの中には私が日本でお話をさせて頂いていたときに来場してくれていた方も
含まれていました。
施設の歴史、概要を一通りお話しした後で皆さんから質問を受けました。
最後に先生から、
「これまでの話を聞く限り、本来このような(精神的にも)ハードな活動をし続けるには
例えば宗教などのような心の拠り所がないとなかなかやってこれないのだと思います
が、博子さんの場合は個人の持つパーソナリティで進んできたように感じます。
あなたのそういう強さというか、進んでいくための支えとなったものはなんでしょうか?」
というようなご質問を受けました。

これまでにも同様の質問を頂く機会は多く、私は一人でやってきたわけではなくて
スタッフも子どもたちも、家族も、友人も、そして多くの支援者の方の存在そのものが
支えだとごく自然に考えていました。
それは今後も変わることない一つの答えです。

昨日はもう一つ別の答えが自分の中に湧いてきました。

「父と母が生きてきた意味をつないでいく作業だから辛いと思うことは少なかった
のかもしれない」

ということです。

小さい頃から母が身につけさせてくれた家事や人とのお付き合いの仕方、父が
教えてくれた生きていくために必要な物事の考え方、それを息子や子どもたちに
伝えていくことで二人が生きていた意味をさらに磨くことができるのだと思います。

それはなにもカンボジアでなくとも、どこにいても大切な人の命を輝かせる
作業として誰にでもできることなんですよね。

息子を出産したときの母の言葉、「命のバトンタッチができたわ、ほっとした」
バトンを渡された私はこれから息子やここにいる子どもたちにまたそれを渡して
いく、ありふれた当たり前のことかもしれないけど、力強く手渡していきたいです。
それは両親がみんなの中に生き続けることにつながりますから。

大切な人の命、それは私という人間の基礎となる部分を築いてくれた両親と、
今そばにいてくれる息子や子どもたちです。
大切な人と共に生きるという営みだからこそ、なにがあってもたとえ少しずつでも
前に進んでこれたのだと思います。
それが私を支えるものだったのだと、かすんでいた向こう側が少し見えてきました。

『要するに私は両親のことが大好きなんでしょうね』
気がついたら、質問してくれた先生に笑いながらそう答えていました。


 
「やっと気づいたかー」という二人の声が聞こえてきそうです。笑

こののんびりした気質も、しんどいことをしんどいと思いすぎずに
やってこれた要因なのかもしれません。

まだこれからもいろんな答え合わせが待っているんでしょうね。
ぼちぼちいきます。






2015/01/31

15年前のおはなし

「博子さんはね、ただ毎日子どもたちに笑顔を振りまいていればそれでいいのよ」

今でもたまに思い出すんです、この言葉。

15年前、シェムリアップに来てまだ間もない頃の話です。

この言葉を発した人と初めて会ったのは日本でした。
まだカンボジアに移住する前のことです。
自分で言うのもなんですが、色白でふわふわした右も左もあんまりわかっていない
お嬢さんでした、私。

その後カンボジアでその人に再会したときにそんなことを言われたんですよね。


今となっては、

笑顔振りまいてるだけやったら今の運営はないやろ・・・

と、ただひたすら心の中で突っ込むばかりなのですが(笑


彼女が私にそれを言った真意はいまだによくわからないけれど、当時の関係性を
からめて考えると、私がその人の言いなりになっていればそれでよかったのだと
思います。

お嬢さんのご意見は必要ありません、と。


今なら笑って「そんなことしてたら何にも動きませんって」ってあっけらかんと言える
んでしょうけど、当時の私は落ち込みましたよ・・・。
私は飾り物なのか・・・と。


また別の方にも言われました。
「施設運営は博子さんには荷が重すぎる」

正確にいうと、私に言ったのではなくご丁寧にも私の両親にそんな内容のお手紙を
送ってくれたんですねえ・・・。
私は両親に申し訳なくて、泣きました。
自分の娘のことを他人からそんな風に言われて、両親の心中はいかばかりだった
でしょうか。


と言っても、私はただその人たちを批判するためにブログを書いているわけでは
ないのです。


私は去年40歳になりました。
過去の私にそういった言葉を投げた人たちの、当時の年齢に徐々に近づいて
いるわけです。

昔はここを一人で・・・
その頃の私と言えば、言葉もおぼつかなく、環境の違う場所での暮らしに慣れる
のにも精一杯でしたが、なにかしていたんです。
その「なにか」というのが、毎日来る日も来る日もとにかくやっていた『掃除』です。
朝6時に起きて、写真の部屋(写真に写っている面積の3倍くらい)を掃き掃除、
モップ掛け、必ず毎朝一人でやっていました。1時間くらいかかるんですけど、それを
してから朝ごはんが日課だったんです。

家の周りをほうきで掃いたり、ゴミを燃やしたりもしていました。
とにかく飽きることなくずっと毎日です。

子どもたちの洗濯(もちろん手洗い)の手伝いや、食事の後の皿洗いも。

そのときの私を知るスタッフは今でもそのことを覚えてくれています。
そして「今は私たちができるから博子さんはしなくてもよい」と言ってくれます。

「見せる」ことから「覚えてもらう」という作業だったのだと思います。
大人であってもスタッフは何から子どもたちに指導すればいいのかをわかって
いなかったんですよね。


当時何のスキルもない、経験もない私ができたのはそれだったんです。


『意味もなくただいるのだけは嫌だ』と思っていました。
だってそれってすごく邪魔な人ではないですか?
人様の国にのこのこと来て、邪魔するってなんやねん、と(笑

この気持ちは今でも変わらずに私の中にあります。


続けていると、「できること」が増えていくんです。
目についてくるんですよね、あれもできるかも、これも変えられるかも、と。
もともとのんびりした性格なので、次々に新しいことをするのは苦手なんですが
1つを終えるとまたもう1つという感じでした。

15年、ただそれを繰り返してきただけです。みんなの邪魔にならないように。


もし私がこの15年ただひたすら子どもたちに笑顔だけ振りまいていたら・・・とか、
荷が重いと言って投げ出していたら、たぶん全然違うスナーダイ・クマエになって
いたんでしょうね。

今となっては、そんな言葉をくれた人たちからすると15年前の私はそんな頼り
ない子に見えていたんだろうなと思います。

ではもし今、自分の近くに過去の自分と同じくらいの年齢の人がいて、今の自分
の目で見たときに未熟やなとか幼い考えやなと思ったとしたら・・・


自分がされたのとは違うアプローチで、その人に自分の意見を伝えるのだと
思います。

なぜなら自分には『悪意』がないから。
いじめてやろうとかいびってやろうとか思ってないから。

ただ先を生きている者として、こういうふうにしてみるのはどうかな?ということを
伝えておきたい、まあ要するにおせっかいなんですけど。
だから相手がそれを聞いてくれるか無視するかはその人次第だとも思います。

でも頭ごなしに「これだけしてればいい」とか「荷が重い」とか、言わない。
だってそんなこと言われて「そうですね」って素直に聞くとは思えないもの。

でも一つだけはっきりと言いたいのは「とにかくカンボジアのみんなの邪魔だけ
せんように気配りしようよ」ということです。


なんかうまく言えないけど、昔私にそういうことを言ったおばさまたちに思うこと。
(私もおばちゃんの年齢になってるけど 笑)

私なりにやってきたから、今の施設運営があるし、今の子どもたちがあるんだって
やっと言える自分になってきています。

そして何よりも、そんなおばさま方よりも、はるかに多くの人たちが、どう見ても
未熟な私を辛抱強く見守り、応援してくれたからこその今なんです。
あるときは励まし、あるときは褒め、そしてたまに苦言も呈してくれました。
そのどれもが私の頭にすっと入ってきて、進む道を示してくれるものだったように
思います。(褒められると困惑するけど、実は喜んでます 笑)

どっち側の人になりたいのか、最近はよくそんなことを思います。
答えは言うまでもないですよね。

たまに思い出す15年前のおはなしです。

悔しくても泣くしかなかった15年前より、ずいぶんとたくましくなったものです。




2015/01/17

わたしの1・17

始発電車の時間にはまだ早く人の動きも感じられない早朝、机に向かう私。
電気が突然消え、その数秒後には激しい揺れ。
揺れが収まってから外に出てみると、自分の知っている風景はそこには
ありませんでした。
そしてその瞬間から住んでいた町の景色すべてが色のないモノクロに
変わってしまいました。
20年経っても消えることのない記憶です。

当時甲南大学の2回生だった私は翌日から始まる後期試験のために
徹夜で勉強していました。
一人暮らしをしていたのは学校のすぐ近く、東灘区でした。

今年で阪神淡路大震災から20年。

あの日試験がなければ地元和歌山の成人式に参加し、被災していなかった
はずです。

20歳だった私も今は40歳。
当時子どもだった人やその年に生まれた人たちも大人になりました。

それだけの年を経ても、神戸で被災した人の心の中からあの日の記憶が
なくなることはないでしょう。

私の友人たちは一人暮らししていた私とは違い、神戸が地元という人が
多く、震災後の苦労というのは言葉では表せないものがあると思います。
地元に帰った私には家族、暖かい家がありました。
たった20秒あまりの時間でそれらを失った人、命を落としてしまった6000人
以上もの人たちと私の間に何の違いがあるのか。
和歌山に帰ってからはそのことが頭から離れませんでした。


それから20年、税理士事務所勤務を経て、結婚を機にカンボジアへ。
今の生活を始めて15年が過ぎ、お手伝い程度に思っていた施設運営は
私の手に委ねられ、今日に至ります。
そして今でもずっとどこかで神戸を意識している自分と共に日々の営みが
あるように感じます。




右手の薬指にいつもあります
この指輪は当時の彼がクリスマスプレゼントに私にくれたものです。
サイズが大きかったのでお直しのために年末からお店に預けていました。
預けていたのは大丸神戸店。
元町にあるこのビルの様子も当時テレビや新聞でよく見ていたので、きっと
指輪はなくなってしまっているだろうと思っていました。
いつだったかは忘れましたが、営業を再開したあとでサイズがぴったりに
なったこの指輪が手元に戻ってきました。


一度盗難にもあったのに、不思議と私のところに却ってきたこともあり
今では肌身離さずつけています。



私は震災後の神戸に対して直接的な行動はなにもできていません。
大人になり自身の力を蓄えてから、地元神戸と3・11の被災地をつなぎ
復興事業に関わっている友人もいます。
他の友人たちも多くは語らないけれど、家族で大変な思いをして今の
生活を築いているのだと思います。
やりたいこともあきらめて違う道を選ばざるを得ない状況の人もいたと
思います。
神戸のあの日を境にすべてが変わってしまった人たちの体験には
一つ一つの物語があり、それはのちに伝えてゆくべき尊いものです。


震災後大学を卒業した私は、自分で決めたことをやりたいように生きてきました。
他人が何を言っても、私を信じてくれた両親がいました。
母は10年前、父は昨年亡くなりましたが、神戸の記憶と同様に私の心の中で
『丁寧に生きる』ことを示してくれています。


巡り巡ってカンボジアの子どもたちの成長に関わることになり、自分自身の
子どもにも恵まれました。
私にとって『丁寧に生きる』こと、日々を積み重ねることのできる幸せを伝えて
いくことが生きる意味なのかもしれません。

私の右手にある指輪はその気持ちを忘れそうになったときに、「ちゃうで、あかんで」
と教えてくれます。


私にとっての1・17は、自分の生き方についてもう一度向き合う日、自分の命がある
限りそれは続いていくのだと思います。


カンボジアと日本の時差は2時間。
こちらの時間で午前3時46分、黙とうを捧げました。

神戸に対して具体的にはなにもできていないけれど、あの日多くの人が犠牲と
なり、残された人の傷もいまだに癒えていないことを忘れずに、今自分と関わりの
ある人たちに当たり前のあるものの大切さ伝えていきたいと思っています。

それが私の1・17の物語なのだと思います。

2015/01/10

ココナツもう見たくない問題

まさかこんなに日を置かずして次の投稿をすることになるとは・・・。
ゆるいブログを目指しておりますメアス博子です。


最近シェムリアップ在住女子の間で密かに流行っているココナツオイル。
気になりつつも手を出せずにおりました。

なぜならわたくし、ココナツが苦手、なのであります。

カンボジアに来るまではココナツを日ごろから意識したこともなく、ミスドの
ドーナツのココナツだって普通に頂いておりました。(と思います、たぶん)

私がシェムリアップに移住したのは、しつこいようですが2000年です。
引っ越してきて間もなく、原因不明の高熱を出しました。
昼過ぎにちょっと悪寒がするなと思い始めてから、夜には40度。
全身の関節の中に誰かがいて暴れてるんじゃないかと思われるような
気持ち悪い痛みと格闘することになりました。

翌日になっても熱は下がらず、病院へ行こうということになりましたが、当時の
この街には州立病院以外に大きな病院はなく、その州立病院もまるで野戦
病院のようなありさまで・・・・。

「あそこだけには行きたくない・・・」

うなされながらも完全拒否させて頂きました。

そこで当時の夫が私を連れて行ったのは・・・

とある小児病院。

まともなドクターがいて、検査もしてくれそうな病院はそこだけ。

担ぎ込まれた際にうっすら聞こえる病院職員と夫の声。

「この子は何歳だ?」
「25歳です」

「え?子どもじゃないやん!!」

見た目でわかるやろ!と、必死に心で突っ込んでました。


費用を支払うということで診察や検査はしてもらえました。

でも結局何も検出されず、謎の高熱ということでうちに帰されたんですね・・・。

その日から始まったんです。ココナツ地獄。
あまりの高熱に食欲もなくなり、水分以外を欲さなくなったわたくし。
夫の「気遣い」により、冷蔵庫の中はココナツの実だらけ。
来る日も来る日もただひたすらココナツジュースの生活。

1週間ほどココナツ地獄を味わって、ようやく微熱になったとき私の体重は
37kgにまでなっておりました・・・。
今と比べないでね♡


そのときの自分の顔が自分でも誰かわからんくらいに激変しておりまして・・・、

ココナツきらい

ココナツ飲んだらやばい

ココナツ一生飲まへん!!!!!!

となったわけです。

思い返せばたぶんデング熱だったのでしょう、あれは・・・。
太ももに赤い発疹みたいのもあったし、関節痛すぎたし。


それから14年、ココナツを見ると拒絶反応。
最近ようやくココナツミルク入りのカレーとかカンボジアのお菓子とかさほど
抵抗なく食べるようになってましたが、好んで食べるまでではありません。

この「ココナツもう見たくない問題」を克服するときがきました。

影響され屋さんな私は周りの女子たちがこぞって「いいよ」というココナツ
オイルについに手を出したのであります。

よく聞いてみると、口に入れなくても使える、というではないですか!
朗報です。

ヘアオイル、メイククレンジング、その他のスキンケアにもいけると。

90㎖5ドルのお試しサイズから
バージンココナツオイルは摂取すると、もともと自分の体内にある脂肪も
一緒に燃焼してくれるとかなんとか・・・

無類のコーヒー好きの私はコーヒーにちょっとたらすくらいならきっと大丈夫
だろうと試したところ・・・

ココナツ主張つよっっ!!!

一気にすべてが南国風味に。

しかし37kg時代からそうとう蓄えた私のお肉さま。
ここはひとつこのバージンココナツオイルとやらで燃えてなくなって頂きましょう。


ということで、私の「ココナツもう見たくない問題」解消への扉が開いたわけです。


カンボジアに住んでるくせにそれあかんの??っていうのは、ココナツだけ
じゃないんですけどね・・・。


(おわり)



2015/01/06

新年でしたね

このブログをご覧になってくださっている皆様、いつもありがとうございます。
年が明けたというのにようやく今日、今年初めての投稿です。
今年もこんな感じでゆるくやっていきますので、よろしくお願いします。


新年にあたって思うことを・・・

私は今年カンボジアで孤児院に本格的に関わり始めて15年という節目の年を
迎えます。

もう15年、まだ15年、思いは錯綜しますが、やっぱり「もう15年」かな。

結婚を機にカンボジア移住、首都プノンペンの生活からド田舎のシェムリアップ
(今とは比べ物にならないほどの超田舎でした)生活へ。
カエルの声を聞きながら一人で泣いていた私も、今では少々のことでは涙も
流さず、たまに悔し涙を流すと友人から心配されるどころか「鬼の目にも涙」と
つぶやかれるほどまでに強く成長しました。




日本やプノンペンに比べて広く感じるシェムリアップの空が好きで、まだフィルム
だった頃から空の写真をよく撮っていたのに、いつの間にかそれにも慣れて
気づいたらこの街には建物だらけ、空の様子もずいぶん様変わりしてしまいました。

今年は日本で新年を迎えず、10年ぶりでしょうかカンボジアで年越しをすることに
しました。10年前は「え?お正月って4月でしょう?」というカンボジアの皆様の
中で静かに迎えていた1月1日も、今ではバーストリートを中心にシヴォタ通りまで
身動きが取れない程の騒ぎになっているようですね。
人混みが大嫌いな私にとってはあまり喜ばしくない光景です(笑




お正月が過ぎたある日、少しだけ息子とゆっくり話す時間がありました。
思春期を迎えて少々難しい年頃ではありますが、今でも私と話をする時間を
持ってくれる優しい息子です。
昔の話をしているときこんなことを言われました。

「僕、覚えてるよ。ママが一人で部屋で泣いてたこと。」


今年17歳になる息子、半分大人で半分子どもですが、そんな微妙な感覚で
私の気持ちに寄り添ってくれたのかなと思います。
私に話しかける横顔はずいぶん大人びたように感じました。
この子が幼かった頃は私が抱きしめていたのに、今では時に私を抱きしめて
くれる存在でもあるのが不思議です。


年を追うごとに家族の大切さを感じます。
私にはもう父も母もいないけれど、二人が私の中にしっかりと残してくれたものは
私が存在する限り消えることはありません。
しかも私には息子やここにいる子どもたちがいて、彼らが二人からもらったものを
伝えていく存在でもあるんですよね。

街も、息子も、そして私の心の中も15年で成熟してきたのかな。


これからの15年、どんなふうになっていくんだろう。
自信家に見られることも多いけど、本当は迷いだらけで心細くてしょうがないん
です。
そんな自分も少しは出していける40代になりたい、かな。


ここで過ごしてきたからこそ得られた人とのつながりもたくさんあります。
どれだけぶつかってもぶつかるたびに深まる関係、どうしてそこまで私に
優しくしてくれるのだろうと思うような慈悲深い人たち、弱音を吐ける相手、
私たちのことを忘れずにいてくれる人たち、頻繁に会うわけではないのに
お互いになんとか会いたいと思い続ける関係。
人と人のつながりは複雑で尊いものであること、ここに来なければここまで
思うことはなかったかもしれません。

40代へ向けて、30代でもらってきたものを無駄にしない歳を重ね方をしたいです。


家族の幸せと健康一番で。


とりとめない文章になりましたが、新年ということでお許しください(笑

大切なものを強さと優しさで包み込めるような自分でいたいと思います。
この街のビミョーな変化にもなんとかついていきながら・・・(笑

年明けの夕陽

空の色、日々の違いにも気づける余裕を持ちたいな。

また今年もがんばりますか・・・。


皆さんにとって、大切な人たちと笑って過ごせるかけがえない時間が少し
でも多い一年になりますよう、遅ればせながらお祈りしております。

今年もどうかよろしくお願いします。
(次の更新は未定です・笑)