1月17日は生涯忘れることがない日。
併せて1月7日も。
1月7日は16年前に亡くなった母の命日です。
そして偶然ですがカンボジアでは虐殺政権からの解放日。
1月17日は阪神大震災の日。
今年であれから25年が経ちます。
今カンボジアの時間で午後6時前ですが、日本では午後8時前。
25年前の今日のこの時間、大学生だったわたしは当時避難所になっていた本山第1小学校の校舎から、母校である甲南大学の避難所に移動していました。
その少し前、夕方ごろだったように記憶していますが、本山よりも少し南西の方で火事がありました。
友人と2人で被害の状況を見ているときでしたが、消火活動の人手が足りなかったので、すぐに自分たちも手伝いに入りました。
火事というのはあっという間に火の手が回るというのをそのときはじめて目の当たりにしました。そしてとても熱かったあのときの熱風の感覚を、自分の皮膚が覚えています。
消火活動が一段落してから避難所に戻りました。
自分の住んでいた部屋は大丈夫だったのですが、人がたくさんいるところにいないと心細くて怖かったのです。
市の職員らしき方々がおにぎりなどを持ってきてくれましたが、絶対的に数が足りていなかったので大学生だったわたしは遠慮し、お年寄りや子どもたちを優先してもらいました。
学校の教室の引き戸を誰かが開け閉めするたびに、ガラガラという音におびえました。
地震が起きたときと同じような音に思えて、聞こえると体が震えました。
自分の中には震災というものが、そんな細かいことも記憶として刻まれていて、1月になるといつも同じことばかり思い出します。
話を始めるときりがないくらいに些細なことも口をついて出てきます。
6000人以上の方が犠牲になりましたが、その方々のご家族、ご友人など関係者にもわたしと同じようにそれぞれの記憶があるのだろうと思います。
和歌山にたどり着いたとき、わたしは地元の最寄り駅で泣いていたそうです。
「全部なくなった」と言って泣いていた、と母から言われました。
その日の夜は母と同じ布団で寝ました。
部屋のあかりはつけたままにしてもらいました。
1月7日母の命日が来ると、このときしばらく一緒に添い寝してもらったことを思い出します。
そして母に話しかけます。
「もうすぐまた震災の日が来るね」
1月17日が来ると毎年静かに思います。
「日々を丁寧に生きよう」
あのとき生き残った自分にできるのは、これからも丁寧に生きていくこと。
いつか母に会える日が来たら、「見ててくれた?」と聞きたいなと思っています。
2020/01/17
2019/04/30
平成最後の ←言いたいだけ
平成最後でも令和最初でもええやんと思っていたのですが、令和最初はいつでも書けるけど、平成最後は今日しかないかと思い直して書き始めました。
わたしが初めてカンボジアの地を踏んだのが1997年、平成9年のことです。
昭和が終わるときはたしか中学3年生だったのかな。
ちょっと話がそれますが、この年に昭和の歌姫・美空ひばりが亡くなって、子どものくせに妙に悲しみにふけっていた時、クラスのイケイケの女子に「ひばりちゃん亡くなったなあ、さみしいわ」と言われて、このイケイケ女子もひばりちゃん好きやったんか!と驚いたことだけは鮮明に覚えています。
ひばりちゃんが亡くなって昭和が終わった・・・という感覚を持っている人もたくさんいるのではないかと思います。
わたしたちは昭和後期の記憶もはっきりあり、平成も初めから終わりまでちゃんと覚えている世代になるんですね。
そんなことあまり考えたことなかったけど。
そしてその平成の三分の二くらいはカンボジアで過ごしたことになります。
だからわたしは平成時代の日本を肌で感じる機会が少ないままに、今に至りました。
先日平成生まれの(息子と同い年)若者二人が施設を訪問してくれたのですが、そのときにこんな話をしました。
「イマドキの若者は」という言葉、これってどの世代も若いときに必ず言われるものだと思うんです。
そのときそれを言う人が物事を判断する基準は、自分たちの生きてきた時代なんですよね。
言い換えれば「自分たちの頃はこうだったのに」みたいな気持ちが強い。
まあ自分たちが一番と思いたいのは人の常なので、ある程度はいいんですけど。
わたしの母は戦後生まれ、父や叔父、叔母たちは戦前生まれでした。
母は親戚が集まったりしたあとに、よく「戦前の人たちの考えが自分には理解しづらいけど、教育の違いなんかなあ」と言っていました。
そして自分が開いていた茶道や華道の教室に来る若い生徒さんたちに「今の若い子はしっかりしてる。自分の考えをちゃんと発言できるし、わたしらの若いときと違うわ。」とも言っていました。
自分と違う世代の人たちを知ろうとか理解しようする気持ちが見て取れました。
特に若い人たちへの期待が。
自分たちはこうだったからと相手に押し付けると、相手はその時代を知らないから混乱するんでしょうね。
その人たちが生まれたころ自分は大人になっていたわけなので、その感覚のギャップを埋めようと思ったら、想像したり、その世代の人たちの話をたくさん聞くしかありません。
「それが足りないからいつまで経っても理解し合えないのだとしたら、若い人たちの話を聞いてみたいな。こっちの感覚を押し付ける前に。みんなにもわたしらのことを理解してもらいたいから。」と、彼らに話していました。
母の影響もあるし、平成のほとんどをカンボジアで過ごし、平成時代の日本を直接感じる機会が少なかったこともあるでしょう。
実際のところ、平成後半に生まれた人たちが、日本とか社会にどんな感覚を持って子ども時代を過ごしたのかは興味があります。
「今日はここまで来て、色々と話を聞かせてくれてありがとう」
という言葉が自然に出ていました。
そしてもう一つ。
イマドキの若い子たちを育てたのは誰なのか、ということを忘れてはいけないと思います。
あいさつができないなど礼儀がなってないという話もよく聞くけど、教えられてないからじゃないのかな。
もちろん実際にそういう人に会うと不愉快でムッとしてしまう自分がいるんですけど、落ち着いて考えると教えてもらってないことはできないし、教えなかった周りの大人の罪を感じたりします。
自分たちの時代がよかったと思うなら、それを下の世代に伝えないとね。
教えてもらえずに大きくなった人たちが気の毒でもあります。
反対にきちんとできる子にも会うんですけど、そのときは「ご両親、近くにいたであろう大人の皆さん、ありがとう」と思います。
毎日のなんでもない日々に当たり前のことを当たり前に積み重ねておかないと、10年とか20年経ったときに取り返しのつかない澱のようなものがたまってしまう、大人の責任ってこういうところにあるのかな、と。
取り返しのつかないと書きましたが、取り返しはつくんですよね、きっと。
それは今日からでも、そのなんでもない当たり前のことを積み重ねる日々を始めることなんです。
結果がいつわかるのかわからないことに取り組むのって難しいんですけど、自分と自分の近くにいる人への愛とか思いやりがあればできる、というか、やらないとね。
そのためにはなんでも他人事にしないで、自分は何ができるのかと考えで行動することが大切です。
明日から始まる令和をそんな時代にしたいなって思います。
地味に。淡々と。静かにこっそりと決意表明です。
わたしが初めてカンボジアの地を踏んだのが1997年、平成9年のことです。
昭和が終わるときはたしか中学3年生だったのかな。
ちょっと話がそれますが、この年に昭和の歌姫・美空ひばりが亡くなって、子どものくせに妙に悲しみにふけっていた時、クラスのイケイケの女子に「ひばりちゃん亡くなったなあ、さみしいわ」と言われて、このイケイケ女子もひばりちゃん好きやったんか!と驚いたことだけは鮮明に覚えています。
ひばりちゃんが亡くなって昭和が終わった・・・という感覚を持っている人もたくさんいるのではないかと思います。
わたしたちは昭和後期の記憶もはっきりあり、平成も初めから終わりまでちゃんと覚えている世代になるんですね。
そんなことあまり考えたことなかったけど。
そしてその平成の三分の二くらいはカンボジアで過ごしたことになります。
だからわたしは平成時代の日本を肌で感じる機会が少ないままに、今に至りました。
先日平成生まれの(息子と同い年)若者二人が施設を訪問してくれたのですが、そのときにこんな話をしました。
「イマドキの若者は」という言葉、これってどの世代も若いときに必ず言われるものだと思うんです。
そのときそれを言う人が物事を判断する基準は、自分たちの生きてきた時代なんですよね。
言い換えれば「自分たちの頃はこうだったのに」みたいな気持ちが強い。
まあ自分たちが一番と思いたいのは人の常なので、ある程度はいいんですけど。
わたしの母は戦後生まれ、父や叔父、叔母たちは戦前生まれでした。
母は親戚が集まったりしたあとに、よく「戦前の人たちの考えが自分には理解しづらいけど、教育の違いなんかなあ」と言っていました。
そして自分が開いていた茶道や華道の教室に来る若い生徒さんたちに「今の若い子はしっかりしてる。自分の考えをちゃんと発言できるし、わたしらの若いときと違うわ。」とも言っていました。
自分と違う世代の人たちを知ろうとか理解しようする気持ちが見て取れました。
特に若い人たちへの期待が。
自分たちはこうだったからと相手に押し付けると、相手はその時代を知らないから混乱するんでしょうね。
その人たちが生まれたころ自分は大人になっていたわけなので、その感覚のギャップを埋めようと思ったら、想像したり、その世代の人たちの話をたくさん聞くしかありません。
「それが足りないからいつまで経っても理解し合えないのだとしたら、若い人たちの話を聞いてみたいな。こっちの感覚を押し付ける前に。みんなにもわたしらのことを理解してもらいたいから。」と、彼らに話していました。
母の影響もあるし、平成のほとんどをカンボジアで過ごし、平成時代の日本を直接感じる機会が少なかったこともあるでしょう。
実際のところ、平成後半に生まれた人たちが、日本とか社会にどんな感覚を持って子ども時代を過ごしたのかは興味があります。
「今日はここまで来て、色々と話を聞かせてくれてありがとう」
という言葉が自然に出ていました。
そしてもう一つ。
イマドキの若い子たちを育てたのは誰なのか、ということを忘れてはいけないと思います。
あいさつができないなど礼儀がなってないという話もよく聞くけど、教えられてないからじゃないのかな。
もちろん実際にそういう人に会うと不愉快でムッとしてしまう自分がいるんですけど、落ち着いて考えると教えてもらってないことはできないし、教えなかった周りの大人の罪を感じたりします。
自分たちの時代がよかったと思うなら、それを下の世代に伝えないとね。
教えてもらえずに大きくなった人たちが気の毒でもあります。
反対にきちんとできる子にも会うんですけど、そのときは「ご両親、近くにいたであろう大人の皆さん、ありがとう」と思います。
毎日のなんでもない日々に当たり前のことを当たり前に積み重ねておかないと、10年とか20年経ったときに取り返しのつかない澱のようなものがたまってしまう、大人の責任ってこういうところにあるのかな、と。
取り返しのつかないと書きましたが、取り返しはつくんですよね、きっと。
それは今日からでも、そのなんでもない当たり前のことを積み重ねる日々を始めることなんです。
結果がいつわかるのかわからないことに取り組むのって難しいんですけど、自分と自分の近くにいる人への愛とか思いやりがあればできる、というか、やらないとね。
そのためにはなんでも他人事にしないで、自分は何ができるのかと考えで行動することが大切です。
明日から始まる令和をそんな時代にしたいなって思います。
地味に。淡々と。静かにこっそりと決意表明です。
2019/01/09
1月7日
今から14年前の2005年から2006年の年越しはカンボジアで過ごしていました。
年が明けて1月8日、父から電話があり、1月7日に母が亡くなったと言われました。
元旦には母から電話もありましたが、他の人たちと会っている最中だったので、会話もそこそに切ってしまっていました。今となっては心残りでなりません。
父から伝えられる事実がなんのことかまったく理解できず、それを全身で拒否する自分がいた感覚を今でも思い出すことがあります。
その日から数か月間の自分の記憶が今でも曖昧です。
父の電話を受けて、翌日の便で息子を連れて帰国しましたが、どうやって関空までたどり着いたのか本当に覚えていません。
母はとても元気な人でした。
茶道と華道の講師をしていて、和歌山にある世界遺産熊野古道の研究もずっと昔からしていたので、古道を歩く方々のガイドをすることもありました。
母が亡くなったのは、その熊野古道を案内した直後のことでした。
わたしは幼いときから母が大好きでした。
父と母がケンカしても、理由はどうあれ無条件に母の味方でした。
学校のことやその日に起きた出来事は、なんでも母に聞いてもらいたかったし、母の考えを聞く時間も大切に思っていました。
でも思春期になったころ、少しだけ母を避けるようになりました。
茶道、華道の教室には当時何十人ものお弟子さんがいて、先生と慕われている母を見ていると疎ましい気持ちになりました。
今思えば、それはたぶん母を取られるような気持ちだったからなのかもしれません。
そして母をかなうはずもないのに、ライバルのように思う自分もいました。
結局は母が好きすぎて、そういうふうになったんだろうなと、今は思います。
シェムリアップに移住し、まったく教育されていない子どもたちに、生活習慣を1から教える日々になった時、気づいたことがあります。
それは、自分がいかに丁寧に育ててきてもらったか、ということです。
掃除、洗濯、片付け、食器洗いなどの家事を細かく子どもたちに教えながら、なぜ自分は自然とできることがこの子たちはできないんだろうと思いました。
教えてくれる人がそばにいなかったから、答えはそれしかありませんでした。
子どもたちが知らないことを知り、それを吸収すればするほどに、母の丁寧さを感じていました。
ようやく子どもたちに基本的な生活習慣や他者の気持ちを考えて行動することなどが定着し始め、この様子を母にも見てもらいたいと思っていたころに、母が亡くなりました。
そんなわたしに「今も見てくれているよ」と言葉をかけたくなる人もいると思います
それはもちろん善意からですし、言いたくなる気持ちはよく理解できます。
それでも、「でももういないんだよ、会話がしたい、母の考えを聞きたい、まだまだ教えてほしいことは山ほどあった、それはもう一生叶わないんだよ」という気持ちになってしまうことも否定できないんです。
それだけ深い悲しみがあります。
母が亡くなって13年が経って、2014年に父も亡くなりました。
あまり好きではなかった父でしたが、母が亡くなってからはわたしの心のよりどころになってくれていたので、二人とも早すぎるでしょう、といつか会った時に言いたいと思っています。
息子が反抗期の頃、わたしは自分が母を嫌った時期を思い出していました。
子どもたちと接するとき、息子はそれをどう思って見ているんだろうという思いはいつも頭の片隅にありました。
お弟子さんたちをとても大切にしていた母も、もしかしてわたしが息子を思うような気持ちを持ちつつ、お弟子さんたちに接していたのかもしれないと、息子の成長と共に思うようになりました。
息子は今、私と離れて日本で暮らしています。
時々電話で話すこともあるのですが、よっぽどでないかぎり、話をそこそこにして切ってしまうことはしないようにしています。
息子も同じ気持ち、いやわたし以上にそうしてくれていると思います。
今でも問題に直面したとき、母だったらなんと言ってくれただろうと考えます。
それを想像しながら答えを見つけようとします。
時が経って、自分のやってきたことに納得がついたときに、答え合わせが完了したような気持ちになります。
母が亡くなり、ずっとずっと大きな宿題を抱えながら、時折こうして答え合わせをして前に進んでいるような気がします。
母のことを尊敬していますが、一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、
死ぬのが早すぎた
ということでしょうね。
だからわたしは母と自分の生きてきた道のりを直接話したり、父と母に「早すぎたでしょう」と伝える日は、ずっと先にとっておきたいと思っています。
離れていた間に起きた出来事を山のようしておいて、話が尽きないように。
これからまだしばらくは、それをたくさん準備させてもらいます。
年が明けて1月8日、父から電話があり、1月7日に母が亡くなったと言われました。
元旦には母から電話もありましたが、他の人たちと会っている最中だったので、会話もそこそに切ってしまっていました。今となっては心残りでなりません。
父から伝えられる事実がなんのことかまったく理解できず、それを全身で拒否する自分がいた感覚を今でも思い出すことがあります。
その日から数か月間の自分の記憶が今でも曖昧です。
父の電話を受けて、翌日の便で息子を連れて帰国しましたが、どうやって関空までたどり着いたのか本当に覚えていません。
母はとても元気な人でした。
茶道と華道の講師をしていて、和歌山にある世界遺産熊野古道の研究もずっと昔からしていたので、古道を歩く方々のガイドをすることもありました。
母が亡くなったのは、その熊野古道を案内した直後のことでした。
わたしは幼いときから母が大好きでした。
父と母がケンカしても、理由はどうあれ無条件に母の味方でした。
学校のことやその日に起きた出来事は、なんでも母に聞いてもらいたかったし、母の考えを聞く時間も大切に思っていました。
でも思春期になったころ、少しだけ母を避けるようになりました。
茶道、華道の教室には当時何十人ものお弟子さんがいて、先生と慕われている母を見ていると疎ましい気持ちになりました。
今思えば、それはたぶん母を取られるような気持ちだったからなのかもしれません。
そして母をかなうはずもないのに、ライバルのように思う自分もいました。
結局は母が好きすぎて、そういうふうになったんだろうなと、今は思います。
シェムリアップに移住し、まったく教育されていない子どもたちに、生活習慣を1から教える日々になった時、気づいたことがあります。
それは、自分がいかに丁寧に育ててきてもらったか、ということです。
掃除、洗濯、片付け、食器洗いなどの家事を細かく子どもたちに教えながら、なぜ自分は自然とできることがこの子たちはできないんだろうと思いました。
教えてくれる人がそばにいなかったから、答えはそれしかありませんでした。
子どもたちが知らないことを知り、それを吸収すればするほどに、母の丁寧さを感じていました。
ようやく子どもたちに基本的な生活習慣や他者の気持ちを考えて行動することなどが定着し始め、この様子を母にも見てもらいたいと思っていたころに、母が亡くなりました。
そんなわたしに「今も見てくれているよ」と言葉をかけたくなる人もいると思います
それはもちろん善意からですし、言いたくなる気持ちはよく理解できます。
それでも、「でももういないんだよ、会話がしたい、母の考えを聞きたい、まだまだ教えてほしいことは山ほどあった、それはもう一生叶わないんだよ」という気持ちになってしまうことも否定できないんです。
それだけ深い悲しみがあります。
母が亡くなって13年が経って、2014年に父も亡くなりました。
あまり好きではなかった父でしたが、母が亡くなってからはわたしの心のよりどころになってくれていたので、二人とも早すぎるでしょう、といつか会った時に言いたいと思っています。
息子が反抗期の頃、わたしは自分が母を嫌った時期を思い出していました。
子どもたちと接するとき、息子はそれをどう思って見ているんだろうという思いはいつも頭の片隅にありました。
お弟子さんたちをとても大切にしていた母も、もしかしてわたしが息子を思うような気持ちを持ちつつ、お弟子さんたちに接していたのかもしれないと、息子の成長と共に思うようになりました。
息子は今、私と離れて日本で暮らしています。
時々電話で話すこともあるのですが、よっぽどでないかぎり、話をそこそこにして切ってしまうことはしないようにしています。
息子も同じ気持ち、いやわたし以上にそうしてくれていると思います。
今でも問題に直面したとき、母だったらなんと言ってくれただろうと考えます。
それを想像しながら答えを見つけようとします。
時が経って、自分のやってきたことに納得がついたときに、答え合わせが完了したような気持ちになります。
母が亡くなり、ずっとずっと大きな宿題を抱えながら、時折こうして答え合わせをして前に進んでいるような気がします。
母のことを尊敬していますが、一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、
死ぬのが早すぎた
ということでしょうね。
だからわたしは母と自分の生きてきた道のりを直接話したり、父と母に「早すぎたでしょう」と伝える日は、ずっと先にとっておきたいと思っています。
離れていた間に起きた出来事を山のようしておいて、話が尽きないように。
これからまだしばらくは、それをたくさん準備させてもらいます。
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| 母からわたし、わたしから息子へ つながっているものがあります |
2018/12/27
明日を信じることができる
前回投稿からそんなに経っていませんが、今月中に書かないと今年が終わってしまうという焦りも少しあり、今日を今年の最後の投稿にしたいと思います。
自分勝手な投稿頻度にもかかわらず、お付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。
先日、神戸のある大学の先生と施設勤務をされている方が、ご自分たちの研究の参考にと訪ねて来られて、いろいろな質問を受けました。
施設の創立時から今に至る歩みを時系列に説明していく中で、色々な記憶がよみがえります。
そこで出てきたキーワードが「図らずも」でした。
うちの施設は1998年の創立時、貧困家庭から子どもを受け入れて養育していました。
2000年にわたしが働くようになり、詳細は省きますがどういった子どもを受け入れるのかについて向き合わざるを得ない出来事がたくさんありました。
そんな中、現在の虐待児の受入れに舵を切り始めて15年ほどが経ちました。
内部の細かいルールやスタッフの構成、子どもたちの受入れに関する手続き方法など、一度立ち止まってはそのときの最善を考えるということを基本に進めてきたつもりです。
そして今、それらが「図らずも」カンボジアの福祉政策などの時流に添ったものになっていることに気づきます。
現在は「貧困」だけを理由に子どもを施設で預かることは、国の方針として推奨されていません。
子どもを預かる際の手続きも、そこに子どもがいるからと言って勝手に連れてきたり、その日から勝手に住み始めるということもできません。
(うちは福祉局、警察、村長などの証明を出してもらい保管しています)
外部からの訪問者に関してもそうです。
うちはかなり早い段階(2000年代はじめごろ)から、アポイントメントがない方の訪問はお断りしていました。
年に2回、福祉局から抜き打ちの査察が入ります。
子どもたちの住環境や栄養状態など生活の基本から、教育環境なども徹底的に調べられるのですが、最近特に聞かれるのは、入所する子どものバックグラウンド、訪問者への対応、そして卒業生たちへのモニタリングです。
バックグラウンドに関しては、そもそも養育の要請があった際に福祉局の許可を得ていますので問題ありません。
訪問者はすべてアポなしお断り、訪問者記録もつけています。
卒業生のモニタリング3年なども、うちは卒業してからも普通に交流があるので、あえてしなくても近況は把握している状態です。
代表的な3つの事柄をここに書きましたが、それ以外の細かなところも「いずれ福祉局の取り締まりが始まるから」あるいは「取り締まりが始まったから」といって慌ててそうしたわけではなく、もともとやっていたことがチェックポイントに合致しています。
カンボジアの社会はここ10年でも大きく変化しています。
子どもたちを取り巻く環境がどんどん変わっていくんです。
その変化に対応しつつも、自分たちの信じるものを守っていかねばなりません。
ただひたすら、その小さな積み重ねが今につながっていると実感します。
神戸の先生方よりももう少し前に、和歌山の高校の先生も来られて少しお話をしました。
そのときに2人で話したのが、つらいことやしんどいことの方が多いかもしれないけど、なんでここまでやってこれたのかというと、そのしんどいことの途中でも「やっててよかったな」と思えることが点々とちりばめられていて、その瞬間は辛いことがなくなったような気持ちにさせられてしまうからでしょうね、と。
なんとなくごまかされてしまいますよねと笑いながら、そんな話をしました。
何人かの先生方とお話する機会をいただき、図らずもやってきたことが今につながり、ときどきあるご褒美のような楽しいこと、うれしいことのおかげで少しでも前に進むことができる、そんな日々を思い返しました。
みんなそうやって生きているのではないかな、と思うんですよね。
少なくともわたしは、そういう日々に気づく瞬間があるから、もし今困難にぶつかっていたとしても、明日を信じて生きていけるのかなと思ったりします。
結局わたしの生き方とは、地味と言われようが、頑固すぎると言われようが、自分のペースを守って、一つずつ丁寧に重ねていくこと、です。
そして日々の小さい喜びを見逃さずに、明日を信じる力にしていくことなんだと思います。
今年も本当にたくさんの方々に支えられ、お世話になり、子どもたちを護る、そんな毎日を送ることができました。
関係してくださったすべての皆様に、こころからお礼申し上げます。
ありがとうございました。
皆様、どうかよいお年をお迎えください。
そして・・・これからもわたしたちとお付き合いいただけましたら、うれしく思います。
自分勝手な投稿頻度にもかかわらず、お付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。
先日、神戸のある大学の先生と施設勤務をされている方が、ご自分たちの研究の参考にと訪ねて来られて、いろいろな質問を受けました。
施設の創立時から今に至る歩みを時系列に説明していく中で、色々な記憶がよみがえります。
そこで出てきたキーワードが「図らずも」でした。
うちの施設は1998年の創立時、貧困家庭から子どもを受け入れて養育していました。
2000年にわたしが働くようになり、詳細は省きますがどういった子どもを受け入れるのかについて向き合わざるを得ない出来事がたくさんありました。
そんな中、現在の虐待児の受入れに舵を切り始めて15年ほどが経ちました。
内部の細かいルールやスタッフの構成、子どもたちの受入れに関する手続き方法など、一度立ち止まってはそのときの最善を考えるということを基本に進めてきたつもりです。
そして今、それらが「図らずも」カンボジアの福祉政策などの時流に添ったものになっていることに気づきます。
現在は「貧困」だけを理由に子どもを施設で預かることは、国の方針として推奨されていません。
子どもを預かる際の手続きも、そこに子どもがいるからと言って勝手に連れてきたり、その日から勝手に住み始めるということもできません。
(うちは福祉局、警察、村長などの証明を出してもらい保管しています)
外部からの訪問者に関してもそうです。
うちはかなり早い段階(2000年代はじめごろ)から、アポイントメントがない方の訪問はお断りしていました。
年に2回、福祉局から抜き打ちの査察が入ります。
子どもたちの住環境や栄養状態など生活の基本から、教育環境なども徹底的に調べられるのですが、最近特に聞かれるのは、入所する子どものバックグラウンド、訪問者への対応、そして卒業生たちへのモニタリングです。
バックグラウンドに関しては、そもそも養育の要請があった際に福祉局の許可を得ていますので問題ありません。
訪問者はすべてアポなしお断り、訪問者記録もつけています。
卒業生のモニタリング3年なども、うちは卒業してからも普通に交流があるので、あえてしなくても近況は把握している状態です。
代表的な3つの事柄をここに書きましたが、それ以外の細かなところも「いずれ福祉局の取り締まりが始まるから」あるいは「取り締まりが始まったから」といって慌ててそうしたわけではなく、もともとやっていたことがチェックポイントに合致しています。
カンボジアの社会はここ10年でも大きく変化しています。
子どもたちを取り巻く環境がどんどん変わっていくんです。
その変化に対応しつつも、自分たちの信じるものを守っていかねばなりません。
ただひたすら、その小さな積み重ねが今につながっていると実感します。
神戸の先生方よりももう少し前に、和歌山の高校の先生も来られて少しお話をしました。
そのときに2人で話したのが、つらいことやしんどいことの方が多いかもしれないけど、なんでここまでやってこれたのかというと、そのしんどいことの途中でも「やっててよかったな」と思えることが点々とちりばめられていて、その瞬間は辛いことがなくなったような気持ちにさせられてしまうからでしょうね、と。
なんとなくごまかされてしまいますよねと笑いながら、そんな話をしました。
何人かの先生方とお話する機会をいただき、図らずもやってきたことが今につながり、ときどきあるご褒美のような楽しいこと、うれしいことのおかげで少しでも前に進むことができる、そんな日々を思い返しました。
みんなそうやって生きているのではないかな、と思うんですよね。
少なくともわたしは、そういう日々に気づく瞬間があるから、もし今困難にぶつかっていたとしても、明日を信じて生きていけるのかなと思ったりします。
結局わたしの生き方とは、地味と言われようが、頑固すぎると言われようが、自分のペースを守って、一つずつ丁寧に重ねていくこと、です。
そして日々の小さい喜びを見逃さずに、明日を信じる力にしていくことなんだと思います。
今年も本当にたくさんの方々に支えられ、お世話になり、子どもたちを護る、そんな毎日を送ることができました。
関係してくださったすべての皆様に、こころからお礼申し上げます。
ありがとうございました。
皆様、どうかよいお年をお迎えください。
そして・・・これからもわたしたちとお付き合いいただけましたら、うれしく思います。
2018/11/09
大きな足跡
今日はカンボジアの独立記念日です。
私が生まれる20年前に、カンボジアはフランスから独立しました。
もし今カンボジアで暮らしていなかったら、そんな歴史も全く知らないまま暮らしていたんでしょうね。
独立後のカンボジア、1970年代のいわゆるポルポト時代を経て、国連主導の民主的選挙により今の政権が誕生がして25年が経ちます。
1990年代前半、ニュース番組などで日本から派遣された自衛隊のPKOのことや民間からの選挙監視員、文民警察の報道を見聞きしていました。
そのときすでにカンボジアの首都プノンペンに移住し、旅行会社を経営していた女性がいるのです。
大塚めぐみさん、といいます。
当時は観光客がほとんどなかったので、PKO派遣されてきた自衛隊やカンボジア情勢を伝えるために駐在していた報道関係者に対しての手配業務を主にしていたと聞いています。
時間があればセントラルマーケットに行き、市場のおばさんたちと会話することでクメール語を習得したそうです。
わたしが彼女に会ったのは2003年です。
カンボジアの子どもたちと日本の若者ををつなげるようなツアーを作りたいとの相談を受けました。
実はそういうお話は他からもよくあったのですが、スナーダイクマエでは数日間に渡り同じグループを受入れるということはしていませんでした。
めぐみさんと初めて会った時、彼女が若いころに児童養護施設の指導員をしていたことを聞きました。
施設に外部の人を入れることがどれだけ大変か、施設の中の人としての見解を持った人だったこともあり、常に「施設に迷惑をかけないこと」を前提にお話をしてくれました。
子どもたちが普段どのように生活をしているのか、訪問しても普段の生活をできるだけ乱さない時間帯や曜日はいつなのか、丁寧にきいてくれました。
それはわたしが一番気にしていたことでもあったので、この人とならなにか一緒にやってみたいと思うことができました。
結局そのツアーは15年も続き、何千人という日本の若者がスナーダイクマエを訪れ、わたしたちの教育方針に触れ、そのもとで育っている子どもたちと交流をしていきました。
ツアーが始まった当時、子どもとして参加していたパナーはのちに得意の日本語を活かし、めぐみさんの会社で観光ガイドして雇っていただきました。
彼がそのツアーをアテンドしてくる姿を見ると、15年という月日の長さを感じました。
彼もまた、めぐみさんと同様に、受け入れる側の立場をわかってアテンドしてくれる貴重な存在で、わたしも心強かったのです。
めぐみさんは歯に衣着せぬ物言いで、ときには厳しく、いや、厳しすぎて相手の誤解を招くことも多々ありました。
わたしも出会った20代後半からの10年ほどは、あまりにきつい言葉に何度も部屋で泣きました。
めぐみさんのことが苦手で、嫌いで、仕事以外では会いたくないと思うときもありました。
それでもめぐみさんは最終的にとてもかわいがってくれました。
たしかにめぐみさんの言葉はきついのですが、翌日思い返すと「もっともだな」と感じることも多かったのです。
そして最初に否定的にとらえた事柄でも、いい点をみつけるとそこに関しては素直に認めて褒めてくれる面も持った人だったので、そこに救われてきたこともありました。
それゆえに、メールの返信や会った時の返答の際には、わたしなりにめぐみさんへの敬意をもって対応してきたつもりでした。
それがめぐみさんに伝わったのかもしれないし、今になってですが、そうしてきてよかったなと思っています。
わたしは30代で母を、そして40になったときに父を亡くしました。
それと前後するようにめぐみさんもご両親を亡くしました。
人生の中で親を失うという大きな出来事、そのときの気持ちを共有することで、わたしとめぐみさんの関係はとても縮まったように思っています。
めぐみさんに言ったことはないけど、お母様を亡くした後のめぐみさんは言葉に角がなくなって、優しくなった印象があります。
「私の年齢でも親を亡くしたらこんなにつらいのに、博子ちゃんはもっと早くにご両親を亡くして・・・」と言ってくれたとき、自分の気持ちに乗せてわたしのことまで思いをめぐらせてくれたことが強く伝わってきました。
知り合って10年が過ぎた頃からは、節度を守りつつも、なんでも話せる関係になったように思っています。
お互いに共感を持ったり、価値観を共有できるタイミングが、わたしたちにとってはそのころだったのかなと、今はそんな風に受け止めています。
人との信頼関係はすぐに構築できるものではないし、そこに相手を尊重する気持ち、適度な距離感がないと続かないものだということ、めぐみさんとの関係を通じて、ゆっくりと時間をかけて、わたしは体験的に知りました。
そんなめぐみさんが今年の9月末で会社を閉めて、帰国するという決断をされました。
少なくとも週に1度は食事をしている仲になっていたので、めぐみさんが本当に帰国する直前まで実感がわきませんでした。
在住の有志により、めぐみさんの送別会をしたとき、自分でもびっくりするくらい涙がぼろぼろとこぼれてきました。
わたし自身のシェムリアップ生活18年の中で、これほどまでに色濃く、足跡をくっきりと残してくれた人は他にいるのだろうか、と。
嫌いでたまらなかったときもあるのに、そのときのわたしは素直に「さみしい」と涙を流していて、そのわたしをしっかりと抱きしめてくれているめぐみさんがいました。
めぐみさんから、「カンボジアの人たちに生かされてここまでやってきた。だからカンボジアの人たちを悲しませることはしてはいけないんです。」という言葉をよく聞いていました。
めぐみさんがカンボジアを去ることになっても、わたしはそのめぐみさんの言葉を自分のものにして、受け継いでいきたいと思っています。
わたしがこれまで子どもたち、そして一緒に働いてくれているスタッフを大切にしようと思ってこられたのは、めぐみさんから何度も聞いていたこの言葉があったからです。
最後に最後に2人で会った時、めぐみさんから贈り物をもらいました。
それはゴールドの指輪でした。
「博子ちゃん、これから自分でもときどきお金を足してこの金を大きくしていってね。
いざとなったら売ればいいのよ。」
と、にこにこ話すめぐみさんを前にして、わたしもこんな大人になりたいと思いました。
もう十分大人の年齢なのですが、先輩たちの姿を追いかけながらも、若い人たちには自分が先輩からしてもらってきたことを返していける大人になりたいなと思ったのです。
お酒好きなめぐみさんにお付き合いしているうちに、最近少しは飲めるようになってきたので、次にめぐみさんと会うときは白ワインで乾杯したいと思います。
めぐみさん、長年にわたるカンボジア生活、本当におつかれさまでした。
かなり荒っぽいやり方だったのは否めませんが、わたしに色々なことを教えてくれて、ありがとうございました。
いただいた指輪、肌身離さず大事にしています。
日本での再会を楽しみにしています。
私が生まれる20年前に、カンボジアはフランスから独立しました。
もし今カンボジアで暮らしていなかったら、そんな歴史も全く知らないまま暮らしていたんでしょうね。
独立後のカンボジア、1970年代のいわゆるポルポト時代を経て、国連主導の民主的選挙により今の政権が誕生がして25年が経ちます。
1990年代前半、ニュース番組などで日本から派遣された自衛隊のPKOのことや民間からの選挙監視員、文民警察の報道を見聞きしていました。
そのときすでにカンボジアの首都プノンペンに移住し、旅行会社を経営していた女性がいるのです。
大塚めぐみさん、といいます。
当時は観光客がほとんどなかったので、PKO派遣されてきた自衛隊やカンボジア情勢を伝えるために駐在していた報道関係者に対しての手配業務を主にしていたと聞いています。
時間があればセントラルマーケットに行き、市場のおばさんたちと会話することでクメール語を習得したそうです。
わたしが彼女に会ったのは2003年です。
カンボジアの子どもたちと日本の若者ををつなげるようなツアーを作りたいとの相談を受けました。
実はそういうお話は他からもよくあったのですが、スナーダイクマエでは数日間に渡り同じグループを受入れるということはしていませんでした。
めぐみさんと初めて会った時、彼女が若いころに児童養護施設の指導員をしていたことを聞きました。
施設に外部の人を入れることがどれだけ大変か、施設の中の人としての見解を持った人だったこともあり、常に「施設に迷惑をかけないこと」を前提にお話をしてくれました。
子どもたちが普段どのように生活をしているのか、訪問しても普段の生活をできるだけ乱さない時間帯や曜日はいつなのか、丁寧にきいてくれました。
それはわたしが一番気にしていたことでもあったので、この人とならなにか一緒にやってみたいと思うことができました。
結局そのツアーは15年も続き、何千人という日本の若者がスナーダイクマエを訪れ、わたしたちの教育方針に触れ、そのもとで育っている子どもたちと交流をしていきました。
ツアーが始まった当時、子どもとして参加していたパナーはのちに得意の日本語を活かし、めぐみさんの会社で観光ガイドして雇っていただきました。
彼がそのツアーをアテンドしてくる姿を見ると、15年という月日の長さを感じました。
彼もまた、めぐみさんと同様に、受け入れる側の立場をわかってアテンドしてくれる貴重な存在で、わたしも心強かったのです。
めぐみさんは歯に衣着せぬ物言いで、ときには厳しく、いや、厳しすぎて相手の誤解を招くことも多々ありました。
わたしも出会った20代後半からの10年ほどは、あまりにきつい言葉に何度も部屋で泣きました。
めぐみさんのことが苦手で、嫌いで、仕事以外では会いたくないと思うときもありました。
それでもめぐみさんは最終的にとてもかわいがってくれました。
たしかにめぐみさんの言葉はきついのですが、翌日思い返すと「もっともだな」と感じることも多かったのです。
そして最初に否定的にとらえた事柄でも、いい点をみつけるとそこに関しては素直に認めて褒めてくれる面も持った人だったので、そこに救われてきたこともありました。
それゆえに、メールの返信や会った時の返答の際には、わたしなりにめぐみさんへの敬意をもって対応してきたつもりでした。
それがめぐみさんに伝わったのかもしれないし、今になってですが、そうしてきてよかったなと思っています。
わたしは30代で母を、そして40になったときに父を亡くしました。
それと前後するようにめぐみさんもご両親を亡くしました。
人生の中で親を失うという大きな出来事、そのときの気持ちを共有することで、わたしとめぐみさんの関係はとても縮まったように思っています。
めぐみさんに言ったことはないけど、お母様を亡くした後のめぐみさんは言葉に角がなくなって、優しくなった印象があります。
「私の年齢でも親を亡くしたらこんなにつらいのに、博子ちゃんはもっと早くにご両親を亡くして・・・」と言ってくれたとき、自分の気持ちに乗せてわたしのことまで思いをめぐらせてくれたことが強く伝わってきました。
知り合って10年が過ぎた頃からは、節度を守りつつも、なんでも話せる関係になったように思っています。
お互いに共感を持ったり、価値観を共有できるタイミングが、わたしたちにとってはそのころだったのかなと、今はそんな風に受け止めています。
人との信頼関係はすぐに構築できるものではないし、そこに相手を尊重する気持ち、適度な距離感がないと続かないものだということ、めぐみさんとの関係を通じて、ゆっくりと時間をかけて、わたしは体験的に知りました。
そんなめぐみさんが今年の9月末で会社を閉めて、帰国するという決断をされました。
少なくとも週に1度は食事をしている仲になっていたので、めぐみさんが本当に帰国する直前まで実感がわきませんでした。
在住の有志により、めぐみさんの送別会をしたとき、自分でもびっくりするくらい涙がぼろぼろとこぼれてきました。
わたし自身のシェムリアップ生活18年の中で、これほどまでに色濃く、足跡をくっきりと残してくれた人は他にいるのだろうか、と。
嫌いでたまらなかったときもあるのに、そのときのわたしは素直に「さみしい」と涙を流していて、そのわたしをしっかりと抱きしめてくれているめぐみさんがいました。
| しっかりと抱きしめてくれました |
めぐみさんから、「カンボジアの人たちに生かされてここまでやってきた。だからカンボジアの人たちを悲しませることはしてはいけないんです。」という言葉をよく聞いていました。
めぐみさんがカンボジアを去ることになっても、わたしはそのめぐみさんの言葉を自分のものにして、受け継いでいきたいと思っています。
わたしがこれまで子どもたち、そして一緒に働いてくれているスタッフを大切にしようと思ってこられたのは、めぐみさんから何度も聞いていたこの言葉があったからです。
最後に最後に2人で会った時、めぐみさんから贈り物をもらいました。
それはゴールドの指輪でした。
「博子ちゃん、これから自分でもときどきお金を足してこの金を大きくしていってね。
いざとなったら売ればいいのよ。」
と、にこにこ話すめぐみさんを前にして、わたしもこんな大人になりたいと思いました。
もう十分大人の年齢なのですが、先輩たちの姿を追いかけながらも、若い人たちには自分が先輩からしてもらってきたことを返していける大人になりたいなと思ったのです。
| ありがとうございます |
めぐみさん、長年にわたるカンボジア生活、本当におつかれさまでした。
かなり荒っぽいやり方だったのは否めませんが、わたしに色々なことを教えてくれて、ありがとうございました。
いただいた指輪、肌身離さず大事にしています。
日本での再会を楽しみにしています。
2016/12/19
思いがけず再会
ほとんど誰にも会わずに終了しかけた日曜日。
夕食も済ませて部屋で一人。
携帯が鳴りました。
「おがーーーさん、おげきですかーーー?」(お母さん、お元気ですか?)
電話の向こうから聞こえてきた声はソピア。
今は僧侶になっているのですが、昔うちで暮らしていた男の子です。
(もう30代なので男の子ではないか・・・笑)
少し前にフェイスブックで再会し、僧侶になっていたことは知っていました。
修行などで何度も中国に行っていたことも、写真を見てわかりました。
本人曰く、辞めようとしたけど中国のお坊さんたちに辞めないでほしいと
言われて続けているそうです。
シェムリアップでも評判(というのが正しいのかどうか・・・)のよいお坊さん
らしく、お清めやお祓いの依頼が殺到しているとか。
先月私が帰国する少し前にうちにも来てくれました。
| 面影ばっちりです |
この時は時間もなく、あまりゆっくり話せず残念でした。
昨夜の電話ではお互いにへんてこりんな日本語とクメール語で30分くらい
話し、途中で何度も大笑いしました。
ソピアはうちにいたとき、規則破りの常習でしたが、人懐っこい笑顔が
憎めない少年でした。
あの叱られてばかりだったソピアが有名なお坊さんになっているなんて、
ちょっと信じられないのです。
人との再会はどこに落ちているかわからないけれど、ソピアとこうして
笑って話せる今があるのは、お互いに会っていなかった時間に自分の
やれることを精一杯やってきたからなんでしょうね。
問題をよく起こしていたソピアがどうして僧侶の道に入ったのか、今度会ったら
ゆっくりと聞いてみたいです。
そしてソピアと離れていた10年ほどの間に私が何をしていたのかも聞いて
もらえたらと思っています。
この仕事をしているとつくづく感じます。
今子どもたちにしていることが、彼らの将来のなににつながっていくのかは
わからない、だからこそ今のベストを尽くすしかないんだな、と。
そして何年も経って忘れた頃に、こうなったよ、と見せてもらえるものなん
ですよね。
うちの施設では卒業生たちとの交流が活発ですが、問題があって出て行った
子たちとも近年少しずつつながりが戻ってきています。
そしてそういう子たちの空白の時間を訊いてみると、やはりみんなその間に
苦労しながら乗り越えてきたことがわかります。
残念ながら全然つながらない子もいますが、
つながっていない子たちにとって、今はそういう時期(私やスナーダイクマエ
に接点を持つ時期)ではないのだろうと思うようにしています。
もう縁がないと決めつけないことです。
10年後なのか、来年なのか、それはわからないけれど、そのタイミングが
きたらまたどこかでつながることもあるでしょう。
そのときに笑って「久しぶり!元気??」と言える自分であるように、今
ここにいる子どもたちにできることをしていこうと思います。
ソピアとの再会、いろんなことに思いをめぐらせる機会をもらいました。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
自分でもびっくりですが、あまり日を置かずにブログ更新しました(笑
こんなブログですがたまにのぞいてもらえるとうれしいです。
2016/10/23
そのままの自分、昔の自分を忘れないこと
次回はいつか不明ですと記したこの雑記帳ですが、いつもより
早いですよ。1か月ぶりの更新です(笑
前回は思いのほか反応してくださる方が多くて、褒められて育つタイプ
のわたくしにとってはうれしく励みとなりました。
皆様、ありがとうございます。
今日は5回目を迎えられるという写真家・足立君江さんと巡るカンボジア
撮影ツアー皆さんをお迎えして、自分自身の振り返りができたことに
ついて書こうと思います。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
今月はいつもより施設への訪問者が少なかったのですが、毎年欠かさず
訪問してくださるグループを今日お迎えすることができました。
写真家・足立君江さんとの出会いは遡ること16年、わたしがまだここにきて
間もない2000年のことになります。
とあるツアーでたまたま施設を訪問してくださった足立さんと今でも公私
共にお世話になり、よいお付き合いを継続していただいております。
カンボジアでは施設の訪問者の皆さんに、日本ではお声がかかればどこでも
スナーダイクマエのことや、カンボジア生活から得た自身の体験、そこから
生まれた考え方などのお話をさせていただいています。
どんな話をしているのか具体的な内容を知りたい方はスナーダイクマエまで
お越しください(笑
今日はこのグループの皆さんにお話しさせていただいたあとの自分自身の
感想を記したいと思います。
足立さん、このツアーの添乗員で7年間子どもたちの日本語教師を務めて
くれたことがある佐々木愛さん、現地日本語ガイドの卒業生パナー、
このツアーで何度か施設を訪れてくださった方々、そして今回初めて施設に
お越しくださった参加者の皆様が一堂に会する場でどんなお話をさせていた
だこうかと考えていました。
話しながら昔のことがいろいろと思いだされます。
20代の自分・・・未熟すぎて思い出すのも恥ずかしいことがたくさんあります。
その時代を知っている卒業生のパナー。
あの頃の子どもたちには迷惑もたくさんかけてしまいました。
30代の自分・・・少し物事がわかったような気になっていたと思います。
母が亡くなり、大きなショックを受けた時代でもありました。
そして今の自分・・・
人はどうしても今の自分がずっと前から今の自分であったように思いがちです。
様々な経験を経て人は変わっていくと思います。
根本的な部分はなかなか変わらないにしても、同じような困難に何度か遭遇
すると対応の仕方も変わってきますよね。
それはどこにいて、どんな仕事をしていてもそうではないかと思います。
でも人は自分が昔からそんな自分だったよう錯覚しがちです。
そして過去を美化してしまうのではないでしょうか。
それはそれで否定はしないのですが、自分はそうしたくないと思っています。
なぜならわたしがここで皆さんにお話をする目的は、私自身の話を通じて
「今」の皆さんそれぞれが持つ何かに役立ててほしいからなんです。
もちろんわたしやこの施設のことを話しますが、それを感心して聞いてほしい
のではなく、ご自身に反映してもらえるような内容にしたいと思っています。
役立ててほしいというのはおこがましいかもしれませんが、言い換えれば
何千キロも離れた日本からカンボジアの、さらにこのスナーダイクマエを
ピンポイントに足を運んでくださった皆さんのお役立てたらいいなという
ことなんです。
この今の自分も考えも、20代、30代の自分にはなかったものかもしれません。
わたしの話を何度も聞いたり、文章を読んだりしてくれている元日本語教師の
佐々木さん言われました。
博子さんって本当にそのままの事実の自分を表現するんだね、と。
自分ではそれを心がけていたわけではないのですが、頼りない自分や
情けない自分を見てきてくれた人たちがいて、たくさんの人に支えられて
来たという自覚があるぶん、今さら昔から自分は強くてなんでもすぐに判断できて
正しく子どもたちを導いてきました、なんて言えないんだと思います。
そして長年そのままのわたしをそばで見てくれていた佐々木さんにそんなふうに
いってもらえたことが素直にうれしかったです。
学生時代は大きな夢もなく、目標もなく、なんとなく日々を過ごしていたし、
結婚を機にカンボジアに来たけど、教育や国際協力という活動に大きな関心が
あって今の仕事を始めたわけでもありません。
過去も今もそれ以上でも以下でもない、自分とはそういう存在なんだという、
そのことを忘れないでいたいと思っています。
いくら周りの方がよい評価をくださっても、「あんたはすぐに調子に乗るから、
気ぃつけなあかん」と言い続けてくれた母の言葉が今でも思い出され、
「自分を客観視できんとあかんぞ」と言っていた父の言葉とも重なります。
今日お迎えした方々は人生の先輩方ばかりでした。
そんな皆さんの前でお話しさせていただいたあとに、改めてこんなことを一人
考えていました。
意外と真面目なんです、わたくし・・・(笑
ここで暮らしているからこそいただける機会、ひとつひとつを大切に、丁寧に
お迎えしたいと思っております。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
いつもわたしが一人で考えていることにお付き合いいただきありがとうございます。
そしていつものことながら次回の投稿は未定です(笑
早いですよ。1か月ぶりの更新です(笑
前回は思いのほか反応してくださる方が多くて、褒められて育つタイプ
のわたくしにとってはうれしく励みとなりました。
皆様、ありがとうございます。
今日は5回目を迎えられるという写真家・足立君江さんと巡るカンボジア
撮影ツアー皆さんをお迎えして、自分自身の振り返りができたことに
ついて書こうと思います。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
今月はいつもより施設への訪問者が少なかったのですが、毎年欠かさず
訪問してくださるグループを今日お迎えすることができました。
写真家・足立君江さんとの出会いは遡ること16年、わたしがまだここにきて
間もない2000年のことになります。
とあるツアーでたまたま施設を訪問してくださった足立さんと今でも公私
共にお世話になり、よいお付き合いを継続していただいております。
カンボジアでは施設の訪問者の皆さんに、日本ではお声がかかればどこでも
スナーダイクマエのことや、カンボジア生活から得た自身の体験、そこから
生まれた考え方などのお話をさせていただいています。
どんな話をしているのか具体的な内容を知りたい方はスナーダイクマエまで
お越しください(笑
今日はこのグループの皆さんにお話しさせていただいたあとの自分自身の
感想を記したいと思います。
足立さん、このツアーの添乗員で7年間子どもたちの日本語教師を務めて
くれたことがある佐々木愛さん、現地日本語ガイドの卒業生パナー、
このツアーで何度か施設を訪れてくださった方々、そして今回初めて施設に
お越しくださった参加者の皆様が一堂に会する場でどんなお話をさせていた
だこうかと考えていました。
話しながら昔のことがいろいろと思いだされます。
20代の自分・・・未熟すぎて思い出すのも恥ずかしいことがたくさんあります。
その時代を知っている卒業生のパナー。
あの頃の子どもたちには迷惑もたくさんかけてしまいました。
30代の自分・・・少し物事がわかったような気になっていたと思います。
母が亡くなり、大きなショックを受けた時代でもありました。
そして今の自分・・・
人はどうしても今の自分がずっと前から今の自分であったように思いがちです。
様々な経験を経て人は変わっていくと思います。
根本的な部分はなかなか変わらないにしても、同じような困難に何度か遭遇
すると対応の仕方も変わってきますよね。
それはどこにいて、どんな仕事をしていてもそうではないかと思います。
でも人は自分が昔からそんな自分だったよう錯覚しがちです。
そして過去を美化してしまうのではないでしょうか。
それはそれで否定はしないのですが、自分はそうしたくないと思っています。
なぜならわたしがここで皆さんにお話をする目的は、私自身の話を通じて
「今」の皆さんそれぞれが持つ何かに役立ててほしいからなんです。
もちろんわたしやこの施設のことを話しますが、それを感心して聞いてほしい
のではなく、ご自身に反映してもらえるような内容にしたいと思っています。
役立ててほしいというのはおこがましいかもしれませんが、言い換えれば
何千キロも離れた日本からカンボジアの、さらにこのスナーダイクマエを
ピンポイントに足を運んでくださった皆さんのお役立てたらいいなという
ことなんです。
この今の自分も考えも、20代、30代の自分にはなかったものかもしれません。
わたしの話を何度も聞いたり、文章を読んだりしてくれている元日本語教師の
佐々木さん言われました。
博子さんって本当にそのままの事実の自分を表現するんだね、と。
自分ではそれを心がけていたわけではないのですが、頼りない自分や
情けない自分を見てきてくれた人たちがいて、たくさんの人に支えられて
来たという自覚があるぶん、今さら昔から自分は強くてなんでもすぐに判断できて
正しく子どもたちを導いてきました、なんて言えないんだと思います。
そして長年そのままのわたしをそばで見てくれていた佐々木さんにそんなふうに
いってもらえたことが素直にうれしかったです。
学生時代は大きな夢もなく、目標もなく、なんとなく日々を過ごしていたし、
結婚を機にカンボジアに来たけど、教育や国際協力という活動に大きな関心が
あって今の仕事を始めたわけでもありません。
過去も今もそれ以上でも以下でもない、自分とはそういう存在なんだという、
そのことを忘れないでいたいと思っています。
いくら周りの方がよい評価をくださっても、「あんたはすぐに調子に乗るから、
気ぃつけなあかん」と言い続けてくれた母の言葉が今でも思い出され、
「自分を客観視できんとあかんぞ」と言っていた父の言葉とも重なります。
今日お迎えした方々は人生の先輩方ばかりでした。
そんな皆さんの前でお話しさせていただいたあとに、改めてこんなことを一人
考えていました。
意外と真面目なんです、わたくし・・・(笑
ここで暮らしているからこそいただける機会、ひとつひとつを大切に、丁寧に
お迎えしたいと思っております。
| みなさま、ありがとうございました |
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
いつもわたしが一人で考えていることにお付き合いいただきありがとうございます。
そしていつものことながら次回の投稿は未定です(笑
2016/09/29
多くの訪問者をお迎えして・・・
もうこのブログ、誰も見に来ないんではないか・・・
3か月以上放置とか、もはやブログではないのではないだろうか・・・
書くことはひらめいたりとかしてるんですが、「書く」作業に入れない。
なんとなくタイミングを逃してここまで来てしまいました。
誰も見てなくてもとりあえずキロクとして書きます!(宣言!笑
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
子どもたちの絵画展を2か月間(7月8月)で終えて、8月の半ば過ぎに
カンボジアに戻り、すぐ連日多くの訪問者の皆さんを受け入れされて
いただいておりました。
この施設に来た25歳ごろから今に至るまで、ここでいろいろな方々と
出会いました。
そのときの私が話せること、ご対応できることをさせていただいてきた
つもりではありますが、今以上に未熟な年齢のころは十分でなかった
こともたくさんあったと思います・・・。
13年間続いているツアーがあります。
地球の歩き方交流・NGOスナーダイクマエを訪ねて、と銘打ったツアー。
この夏から初めて、参加者の皆さんと私がランチをしながらざっくばらんに
お話しするという時間を設けていただきました。
ここでは参加者の皆さんの感想を直接ご本人からお聞かせてもらえる、
そして私への質問にはお顔見てお答えできるという貴重な場となって
おります。
今季最後の参加者の皆さんとの懇親会で、こんな質問をいただきました。
「博子さんから見て今の日本人に足りないことってなんですか?」
なかなか難しい質問です。
私がこれに答える立場なのか?、なぜ私にこれを訊いてくれたのか?と
逆に質問したくなる気持ちを抑えつつ丁寧を心がけてお答えしました。
それはズバリ「当事者意識」なのかな、ということです。
例えば多くの訪問者をお迎えする中で私がとても戸惑う(不愉快な)
言葉、その割に言われる頻度の高い言葉がいくつかあります。
「うちの子どももここに連れてきてしばらく一緒に生活させてもらえば、根性が
たたき直るのかもしれないな」
「カンボジアの子どもに比べて日本の子どもは目が死んでる」
どうしてこうも他人事なんでしょうか。
あなたの息子さんが根性たたき直るほど「不便な」生活をうちの子どもたちは
毎日しています。
(そして実際子どもたちにとってここは不便な場所ではない)
子どもの目が死んでいると気づいているなら、どうしてそれを輝かせる努力を
大人はしないのでしょうか。
もちろんこれを日本代表の言葉として扱う気はありません。
なぜなら、いつも子どもたちと真剣に向き合い、子どもたちを笑顔にしている
日本の大人の方々がいることも知っているから。
もっというと、そういう人たちはこんな言葉は言わないと思います。
なぜなら生身の子どもたちにちゃんと向き合っているから。
何か問題が起きても、誰かのせいにすれば楽でしょうね。
環境のせい、時代のせいにすることもできます。
ここに子どもを連れてきて、誰かに根性を叩き直してもらうのではなく、
自分の目で見たこと、感じたことを真剣にお子さんに伝えることでお子さんの
意識を少しでも変えようとしませんか?
子どもの目が死んでるというなら、自分以外の大人も巻き込んでできるだけ
多くの子どもの目を輝かせる行動を考えませんか?
子どものことだけではなく、自分のことも、自分の大切な人たちのことも、
目の前にあることで気になることがあれば「なかったこと」にせず向き合って
自分の行動につなげませんか?
時代や社会の波の中で、いきなり変えることはできないとあきらめるのは
簡単ですが、一人一人が自分にできることを地道に積み上げ大きな波に
していけると信じたい、というのが私の思いです。
大人があきらめない姿を子どもにも見せたいなと思うんです、単純に。
普段なかなか接することのない大学生を中心とした、自分の息子世代の
皆さんとお話しする機会。
2度目の成人式を迎えた世代の私からなにをお伝えすることができるのか、
以前よりもずっとずっと私自身が真剣に考えていることに気づかされます。
カンボジアはそろそろお盆。
自分よりも先に逝ってしまった人たちが、どんな思いでこの世を去ったのか、
今生きている人たちにどう生きてほしいと願ってくれているのか、そんな
ことに思いを馳せつつこれを書きました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ということで、次回のアップはいつになるのか、それは不明です(笑
今日もお付き合いいただきありがとうございました。
3か月以上放置とか、もはやブログではないのではないだろうか・・・
書くことはひらめいたりとかしてるんですが、「書く」作業に入れない。
なんとなくタイミングを逃してここまで来てしまいました。
誰も見てなくてもとりあえずキロクとして書きます!(宣言!笑
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
子どもたちの絵画展を2か月間(7月8月)で終えて、8月の半ば過ぎに
カンボジアに戻り、すぐ連日多くの訪問者の皆さんを受け入れされて
いただいておりました。
この施設に来た25歳ごろから今に至るまで、ここでいろいろな方々と
出会いました。
そのときの私が話せること、ご対応できることをさせていただいてきた
つもりではありますが、今以上に未熟な年齢のころは十分でなかった
こともたくさんあったと思います・・・。
13年間続いているツアーがあります。
地球の歩き方交流・NGOスナーダイクマエを訪ねて、と銘打ったツアー。
この夏から初めて、参加者の皆さんと私がランチをしながらざっくばらんに
お話しするという時間を設けていただきました。
ここでは参加者の皆さんの感想を直接ご本人からお聞かせてもらえる、
そして私への質問にはお顔見てお答えできるという貴重な場となって
おります。
今季最後の参加者の皆さんとの懇親会で、こんな質問をいただきました。
「博子さんから見て今の日本人に足りないことってなんですか?」
なかなか難しい質問です。
私がこれに答える立場なのか?、なぜ私にこれを訊いてくれたのか?と
逆に質問したくなる気持ちを抑えつつ丁寧を心がけてお答えしました。
それはズバリ「当事者意識」なのかな、ということです。
例えば多くの訪問者をお迎えする中で私がとても戸惑う(不愉快な)
言葉、その割に言われる頻度の高い言葉がいくつかあります。
「うちの子どももここに連れてきてしばらく一緒に生活させてもらえば、根性が
たたき直るのかもしれないな」
「カンボジアの子どもに比べて日本の子どもは目が死んでる」
どうしてこうも他人事なんでしょうか。
あなたの息子さんが根性たたき直るほど「不便な」生活をうちの子どもたちは
毎日しています。
(そして実際子どもたちにとってここは不便な場所ではない)
子どもの目が死んでいると気づいているなら、どうしてそれを輝かせる努力を
大人はしないのでしょうか。
もちろんこれを日本代表の言葉として扱う気はありません。
なぜなら、いつも子どもたちと真剣に向き合い、子どもたちを笑顔にしている
日本の大人の方々がいることも知っているから。
もっというと、そういう人たちはこんな言葉は言わないと思います。
なぜなら生身の子どもたちにちゃんと向き合っているから。
何か問題が起きても、誰かのせいにすれば楽でしょうね。
環境のせい、時代のせいにすることもできます。
ここに子どもを連れてきて、誰かに根性を叩き直してもらうのではなく、
自分の目で見たこと、感じたことを真剣にお子さんに伝えることでお子さんの
意識を少しでも変えようとしませんか?
子どもの目が死んでるというなら、自分以外の大人も巻き込んでできるだけ
多くの子どもの目を輝かせる行動を考えませんか?
子どものことだけではなく、自分のことも、自分の大切な人たちのことも、
目の前にあることで気になることがあれば「なかったこと」にせず向き合って
自分の行動につなげませんか?
時代や社会の波の中で、いきなり変えることはできないとあきらめるのは
簡単ですが、一人一人が自分にできることを地道に積み上げ大きな波に
していけると信じたい、というのが私の思いです。
大人があきらめない姿を子どもにも見せたいなと思うんです、単純に。
普段なかなか接することのない大学生を中心とした、自分の息子世代の
皆さんとお話しする機会。
2度目の成人式を迎えた世代の私からなにをお伝えすることができるのか、
以前よりもずっとずっと私自身が真剣に考えていることに気づかされます。
カンボジアはそろそろお盆。
自分よりも先に逝ってしまった人たちが、どんな思いでこの世を去ったのか、
今生きている人たちにどう生きてほしいと願ってくれているのか、そんな
ことに思いを馳せつつこれを書きました。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ということで、次回のアップはいつになるのか、それは不明です(笑
今日もお付き合いいただきありがとうございました。
2016/03/04
スタディツアー
子どもたちの元気な声と足音を部屋で聞きながら、今回も楽しそうだなと
目を細める機会が多くなるのは春と夏。
学生さんたちが長期のお休みに入る季節です。
地球の歩き方交流ツアーの受け入れを始めさせていただき、今年で13年目に
なります。
このツアーでの私の役割はたった一言でも参加した皆さんの心に残る
言葉を贈ることだと思っています。
せっかくはるばるカンボジアまで来てくれているので、私はその役割に
徹したいのです。
これまでの参加者の皆さんとは今でもつながっています。
絵画展をお手伝いしてくれたり、絵画展を毎年欠かさず見に来てくれたり、
何度もカンボジアに来てくれたり、カンボジアに留学までしちゃった人も。
2月末にもこのツアーの受け入れがありました。
これまでは交流を終えて最後に私と参加者の皆さんが対面するということが
多かったのですが、今回からは私が最初に施設のこと、私たちの思いを
お伝えすることから始めさせていただきました。
(話を聞きたい!という方は訪問してきてください・笑)
施設創設時の子どもたち、今の子どもたちや卒業生のこと、そして私自身が
受けてきた家庭教育について、カンボジアから見える日本のこと、1時間しか
ないのですがたっぷりお話ができました。
それを踏まえての子どもたちとの交流で日本の若い人たちが何を感じて
持って帰ってくれるのか、今はそれが楽しみです。
カンボジアまでわざわざ行こうと思ってくれた人たちの感じる力を信じたいな
という思いもあります。
私が15年以上もここでやってこれたのは、自分の親と同世代の支援者の
皆さんがいて下さったから。
右も左もわからないような若輩者の力を信じて、根気強く付き合ってくださった
から今の自分があると思います。
そしてそんな私のそばで「好意に甘え過ぎず、調子に乗らず、感謝の気持ち
を忘れずにやっていきなさい」と、何度も繰り返し言ってくれた母の存在は
大きかったです。
私もここで少しずつ歳を重ね、気がつけばツアー参加者の親御さんと同じ
くらいの世代になっています。
私がこのツアーで若い人たちに何を発信できるのか、そのときの自分と
対峙しながら考えています。
そして結局そのことを通じて自分が思いを馳せているのは日本。
今の自分を形作る様々な言葉や経験をくれた、日本の皆さんだったりします。
教えてもらったことを次の世代につたえていくことが自然にできる、そんな
自分でありたいなと。
同じように考える人の輪が少しずつ広がりを見せてくれたら・・・。
子どもたちとの交流が楽しいということだけに終始するのではなく、
子どもをみんなで育むことの意味や、それがなににつながっていくのか
ということまで考えてもらえるようなツアーにしたいです。
うちの子どもたちの笑顔の向こう側にあるものがなんなのか、それを
考えることで自分の子ども時代も振り返ってほしいですね。
13年の時を経て、私自身のスタディツアーへの向き合い方も変わっていく、
面白なと思います。
目を細める機会が多くなるのは春と夏。
学生さんたちが長期のお休みに入る季節です。
地球の歩き方交流ツアーの受け入れを始めさせていただき、今年で13年目に
なります。
このツアーでの私の役割はたった一言でも参加した皆さんの心に残る
言葉を贈ることだと思っています。
せっかくはるばるカンボジアまで来てくれているので、私はその役割に
徹したいのです。
これまでの参加者の皆さんとは今でもつながっています。
絵画展をお手伝いしてくれたり、絵画展を毎年欠かさず見に来てくれたり、
何度もカンボジアに来てくれたり、カンボジアに留学までしちゃった人も。
2月末にもこのツアーの受け入れがありました。
これまでは交流を終えて最後に私と参加者の皆さんが対面するということが
多かったのですが、今回からは私が最初に施設のこと、私たちの思いを
お伝えすることから始めさせていただきました。
(話を聞きたい!という方は訪問してきてください・笑)
施設創設時の子どもたち、今の子どもたちや卒業生のこと、そして私自身が
受けてきた家庭教育について、カンボジアから見える日本のこと、1時間しか
ないのですがたっぷりお話ができました。
それを踏まえての子どもたちとの交流で日本の若い人たちが何を感じて
持って帰ってくれるのか、今はそれが楽しみです。
カンボジアまでわざわざ行こうと思ってくれた人たちの感じる力を信じたいな
という思いもあります。
私が15年以上もここでやってこれたのは、自分の親と同世代の支援者の
皆さんがいて下さったから。
右も左もわからないような若輩者の力を信じて、根気強く付き合ってくださった
から今の自分があると思います。
そしてそんな私のそばで「好意に甘え過ぎず、調子に乗らず、感謝の気持ち
を忘れずにやっていきなさい」と、何度も繰り返し言ってくれた母の存在は
大きかったです。
私もここで少しずつ歳を重ね、気がつけばツアー参加者の親御さんと同じ
くらいの世代になっています。
私がこのツアーで若い人たちに何を発信できるのか、そのときの自分と
対峙しながら考えています。
そして結局そのことを通じて自分が思いを馳せているのは日本。
今の自分を形作る様々な言葉や経験をくれた、日本の皆さんだったりします。
教えてもらったことを次の世代につたえていくことが自然にできる、そんな
自分でありたいなと。
同じように考える人の輪が少しずつ広がりを見せてくれたら・・・。
子どもたちとの交流が楽しいということだけに終始するのではなく、
子どもをみんなで育むことの意味や、それがなににつながっていくのか
ということまで考えてもらえるようなツアーにしたいです。
うちの子どもたちの笑顔の向こう側にあるものがなんなのか、それを
考えることで自分の子ども時代も振り返ってほしいですね。
13年の時を経て、私自身のスタディツアーへの向き合い方も変わっていく、
面白なと思います。
2016/01/17
21年目
1月17日、一生忘れることのない日。
あの日の早朝、試験勉強のため徹夜していた私。
隣の家のおばさんは圧死したけれど、すぐ横で生きのびた私。
そしてなぜか今はカンボジアに住んでいる私。
21年経っても、あの日の記憶はすべてモノクロでしか思い出せません。
神戸から色が消えた日でした。
あのとき神戸に住んでいたというと、カンボジアでの使命が待っていたから
生かされたのかもしれないねという言葉をもらうことがあります。
そういうふうに言ってくださる方を否定するわけではないのですが、でも
違うんです。
みんな同じ状況だったのに、たまたま命拾いしたんです。
あのときにもらった命だから、カンボジアで子どもたちと一緒に暮らすことを
心に決めた、なんて安っぽいことは死んでも言えないと思っています。
そのことを今のカンボジアの活動の意味づけになんてとてもじゃないけど
できません。
6000人以上もの方が亡くなったあの震災にむけて、生き残ったから自分は
どうのこうのなんて言えないんです。
みんな生きたかった、それだけが真実だと思います。
生きている自分に今日できることといえば、静かに祈ることだけです。
また1年、丁寧に生きよう。
あの日の早朝、試験勉強のため徹夜していた私。
隣の家のおばさんは圧死したけれど、すぐ横で生きのびた私。
そしてなぜか今はカンボジアに住んでいる私。
21年経っても、あの日の記憶はすべてモノクロでしか思い出せません。
神戸から色が消えた日でした。
あのとき神戸に住んでいたというと、カンボジアでの使命が待っていたから
生かされたのかもしれないねという言葉をもらうことがあります。
そういうふうに言ってくださる方を否定するわけではないのですが、でも
違うんです。
みんな同じ状況だったのに、たまたま命拾いしたんです。
あのときにもらった命だから、カンボジアで子どもたちと一緒に暮らすことを
心に決めた、なんて安っぽいことは死んでも言えないと思っています。
そのことを今のカンボジアの活動の意味づけになんてとてもじゃないけど
できません。
6000人以上もの方が亡くなったあの震災にむけて、生き残ったから自分は
どうのこうのなんて言えないんです。
みんな生きたかった、それだけが真実だと思います。
生きている自分に今日できることといえば、静かに祈ることだけです。
また1年、丁寧に生きよう。
2015/03/04
見えてきた答え
大学生の長期休暇である春と夏は私の運営する施設への訪問希望が増える
季節でもあります。
色々な方と会うので、それぞれの今置かれている立場や価値観などによる
質問を受けます。
昨日はある質問を頂いたことから探していた答えが見えてきたような気が
したのでそのことを書こうと思います。
私の母は60歳で急逝しました。急性心不全、周りの人は誰一人母がこんなに急に
逝ってしまうなどと思ってもいませんでした。
10年前のことでした。
そして父は昨年すい臓がんと診断され、自宅療養ののちに母のもとへ逝きました。
母が亡くなってからずっと、なぜこんなにも早く逝かなければならなかったのか、と
思い続けています。
そして父が亡くなってからはまた別の思いが生まれました。
それを言葉にするのにぴったりな表現がよくわからないのですが、「父と母がこの世
にいたその意味について」なのかもしれません。
なんかうまく言えないのですが。
昨日訪問して下さったのは名古屋大学の先生と学生さんの一行。
学生さんの中には私が日本でお話をさせて頂いていたときに来場してくれていた方も
含まれていました。
施設の歴史、概要を一通りお話しした後で皆さんから質問を受けました。
最後に先生から、
「これまでの話を聞く限り、本来このような(精神的にも)ハードな活動をし続けるには
例えば宗教などのような心の拠り所がないとなかなかやってこれないのだと思います
が、博子さんの場合は個人の持つパーソナリティで進んできたように感じます。
あなたのそういう強さというか、進んでいくための支えとなったものはなんでしょうか?」
というようなご質問を受けました。
これまでにも同様の質問を頂く機会は多く、私は一人でやってきたわけではなくて
スタッフも子どもたちも、家族も、友人も、そして多くの支援者の方の存在そのものが
支えだとごく自然に考えていました。
それは今後も変わることない一つの答えです。
昨日はもう一つ別の答えが自分の中に湧いてきました。
「父と母が生きてきた意味をつないでいく作業だから辛いと思うことは少なかった
のかもしれない」
ということです。
小さい頃から母が身につけさせてくれた家事や人とのお付き合いの仕方、父が
教えてくれた生きていくために必要な物事の考え方、それを息子や子どもたちに
伝えていくことで二人が生きていた意味をさらに磨くことができるのだと思います。
それはなにもカンボジアでなくとも、どこにいても大切な人の命を輝かせる
作業として誰にでもできることなんですよね。
息子を出産したときの母の言葉、「命のバトンタッチができたわ、ほっとした」
バトンを渡された私はこれから息子やここにいる子どもたちにまたそれを渡して
いく、ありふれた当たり前のことかもしれないけど、力強く手渡していきたいです。
それは両親がみんなの中に生き続けることにつながりますから。
大切な人の命、それは私という人間の基礎となる部分を築いてくれた両親と、
今そばにいてくれる息子や子どもたちです。
大切な人と共に生きるという営みだからこそ、なにがあってもたとえ少しずつでも
前に進んでこれたのだと思います。
それが私を支えるものだったのだと、かすんでいた向こう側が少し見えてきました。
『要するに私は両親のことが大好きなんでしょうね』
気がついたら、質問してくれた先生に笑いながらそう答えていました。
「やっと気づいたかー」という二人の声が聞こえてきそうです。笑
こののんびりした気質も、しんどいことをしんどいと思いすぎずに
やってこれた要因なのかもしれません。
まだこれからもいろんな答え合わせが待っているんでしょうね。
ぼちぼちいきます。
季節でもあります。
色々な方と会うので、それぞれの今置かれている立場や価値観などによる
質問を受けます。
昨日はある質問を頂いたことから探していた答えが見えてきたような気が
したのでそのことを書こうと思います。
私の母は60歳で急逝しました。急性心不全、周りの人は誰一人母がこんなに急に
逝ってしまうなどと思ってもいませんでした。
10年前のことでした。
そして父は昨年すい臓がんと診断され、自宅療養ののちに母のもとへ逝きました。
母が亡くなってからずっと、なぜこんなにも早く逝かなければならなかったのか、と
思い続けています。
そして父が亡くなってからはまた別の思いが生まれました。
それを言葉にするのにぴったりな表現がよくわからないのですが、「父と母がこの世
にいたその意味について」なのかもしれません。
なんかうまく言えないのですが。
昨日訪問して下さったのは名古屋大学の先生と学生さんの一行。
学生さんの中には私が日本でお話をさせて頂いていたときに来場してくれていた方も
含まれていました。
施設の歴史、概要を一通りお話しした後で皆さんから質問を受けました。
最後に先生から、
「これまでの話を聞く限り、本来このような(精神的にも)ハードな活動をし続けるには
例えば宗教などのような心の拠り所がないとなかなかやってこれないのだと思います
が、博子さんの場合は個人の持つパーソナリティで進んできたように感じます。
あなたのそういう強さというか、進んでいくための支えとなったものはなんでしょうか?」
というようなご質問を受けました。
これまでにも同様の質問を頂く機会は多く、私は一人でやってきたわけではなくて
スタッフも子どもたちも、家族も、友人も、そして多くの支援者の方の存在そのものが
支えだとごく自然に考えていました。
それは今後も変わることない一つの答えです。
昨日はもう一つ別の答えが自分の中に湧いてきました。
「父と母が生きてきた意味をつないでいく作業だから辛いと思うことは少なかった
のかもしれない」
ということです。
小さい頃から母が身につけさせてくれた家事や人とのお付き合いの仕方、父が
教えてくれた生きていくために必要な物事の考え方、それを息子や子どもたちに
伝えていくことで二人が生きていた意味をさらに磨くことができるのだと思います。
それはなにもカンボジアでなくとも、どこにいても大切な人の命を輝かせる
作業として誰にでもできることなんですよね。
息子を出産したときの母の言葉、「命のバトンタッチができたわ、ほっとした」
バトンを渡された私はこれから息子やここにいる子どもたちにまたそれを渡して
いく、ありふれた当たり前のことかもしれないけど、力強く手渡していきたいです。
それは両親がみんなの中に生き続けることにつながりますから。
大切な人の命、それは私という人間の基礎となる部分を築いてくれた両親と、
今そばにいてくれる息子や子どもたちです。
大切な人と共に生きるという営みだからこそ、なにがあってもたとえ少しずつでも
前に進んでこれたのだと思います。
それが私を支えるものだったのだと、かすんでいた向こう側が少し見えてきました。
『要するに私は両親のことが大好きなんでしょうね』
気がついたら、質問してくれた先生に笑いながらそう答えていました。
こののんびりした気質も、しんどいことをしんどいと思いすぎずに
やってこれた要因なのかもしれません。
まだこれからもいろんな答え合わせが待っているんでしょうね。
ぼちぼちいきます。
2015/01/31
15年前のおはなし
「博子さんはね、ただ毎日子どもたちに笑顔を振りまいていればそれでいいのよ」
今でもたまに思い出すんです、この言葉。
15年前、シェムリアップに来てまだ間もない頃の話です。
この言葉を発した人と初めて会ったのは日本でした。
まだカンボジアに移住する前のことです。
自分で言うのもなんですが、色白でふわふわした右も左もあんまりわかっていない
お嬢さんでした、私。
その後カンボジアでその人に再会したときにそんなことを言われたんですよね。
今となっては、
笑顔振りまいてるだけやったら今の運営はないやろ・・・
と、ただひたすら心の中で突っ込むばかりなのですが(笑
彼女が私にそれを言った真意はいまだによくわからないけれど、当時の関係性を
からめて考えると、私がその人の言いなりになっていればそれでよかったのだと
思います。
お嬢さんのご意見は必要ありません、と。
今なら笑って「そんなことしてたら何にも動きませんって」ってあっけらかんと言える
んでしょうけど、当時の私は落ち込みましたよ・・・。
私は飾り物なのか・・・と。
また別の方にも言われました。
「施設運営は博子さんには荷が重すぎる」
正確にいうと、私に言ったのではなくご丁寧にも私の両親にそんな内容のお手紙を
送ってくれたんですねえ・・・。
私は両親に申し訳なくて、泣きました。
自分の娘のことを他人からそんな風に言われて、両親の心中はいかばかりだった
でしょうか。
と言っても、私はただその人たちを批判するためにブログを書いているわけでは
ないのです。
私は去年40歳になりました。
過去の私にそういった言葉を投げた人たちの、当時の年齢に徐々に近づいて
いるわけです。
その頃の私と言えば、言葉もおぼつかなく、環境の違う場所での暮らしに慣れる
のにも精一杯でしたが、なにかしていたんです。
その「なにか」というのが、毎日来る日も来る日もとにかくやっていた『掃除』です。
朝6時に起きて、写真の部屋(写真に写っている面積の3倍くらい)を掃き掃除、
モップ掛け、必ず毎朝一人でやっていました。1時間くらいかかるんですけど、それを
してから朝ごはんが日課だったんです。
家の周りをほうきで掃いたり、ゴミを燃やしたりもしていました。
とにかく飽きることなくずっと毎日です。
子どもたちの洗濯(もちろん手洗い)の手伝いや、食事の後の皿洗いも。
そのときの私を知るスタッフは今でもそのことを覚えてくれています。
そして「今は私たちができるから博子さんはしなくてもよい」と言ってくれます。
「見せる」ことから「覚えてもらう」という作業だったのだと思います。
大人であってもスタッフは何から子どもたちに指導すればいいのかをわかって
いなかったんですよね。
当時何のスキルもない、経験もない私ができたのはそれだったんです。
『意味もなくただいるのだけは嫌だ』と思っていました。
だってそれってすごく邪魔な人ではないですか?
人様の国にのこのこと来て、邪魔するってなんやねん、と(笑
この気持ちは今でも変わらずに私の中にあります。
続けていると、「できること」が増えていくんです。
目についてくるんですよね、あれもできるかも、これも変えられるかも、と。
もともとのんびりした性格なので、次々に新しいことをするのは苦手なんですが
1つを終えるとまたもう1つという感じでした。
15年、ただそれを繰り返してきただけです。みんなの邪魔にならないように。
もし私がこの15年ただひたすら子どもたちに笑顔だけ振りまいていたら・・・とか、
荷が重いと言って投げ出していたら、たぶん全然違うスナーダイ・クマエになって
いたんでしょうね。
今となっては、そんな言葉をくれた人たちからすると15年前の私はそんな頼り
ない子に見えていたんだろうなと思います。
ではもし今、自分の近くに過去の自分と同じくらいの年齢の人がいて、今の自分
の目で見たときに未熟やなとか幼い考えやなと思ったとしたら・・・
自分がされたのとは違うアプローチで、その人に自分の意見を伝えるのだと
思います。
なぜなら自分には『悪意』がないから。
いじめてやろうとかいびってやろうとか思ってないから。
ただ先を生きている者として、こういうふうにしてみるのはどうかな?ということを
伝えておきたい、まあ要するにおせっかいなんですけど。
だから相手がそれを聞いてくれるか無視するかはその人次第だとも思います。
でも頭ごなしに「これだけしてればいい」とか「荷が重い」とか、言わない。
だってそんなこと言われて「そうですね」って素直に聞くとは思えないもの。
でも一つだけはっきりと言いたいのは「とにかくカンボジアのみんなの邪魔だけ
せんように気配りしようよ」ということです。
なんかうまく言えないけど、昔私にそういうことを言ったおばさまたちに思うこと。
(私もおばちゃんの年齢になってるけど 笑)
私なりにやってきたから、今の施設運営があるし、今の子どもたちがあるんだって
やっと言える自分になってきています。
そして何よりも、そんなおばさま方よりも、はるかに多くの人たちが、どう見ても
未熟な私を辛抱強く見守り、応援してくれたからこその今なんです。
あるときは励まし、あるときは褒め、そしてたまに苦言も呈してくれました。
そのどれもが私の頭にすっと入ってきて、進む道を示してくれるものだったように
思います。(褒められると困惑するけど、実は喜んでます 笑)
どっち側の人になりたいのか、最近はよくそんなことを思います。
答えは言うまでもないですよね。
たまに思い出す15年前のおはなしです。
悔しくても泣くしかなかった15年前より、ずいぶんとたくましくなったものです。
今でもたまに思い出すんです、この言葉。
15年前、シェムリアップに来てまだ間もない頃の話です。
この言葉を発した人と初めて会ったのは日本でした。
まだカンボジアに移住する前のことです。
自分で言うのもなんですが、色白でふわふわした右も左もあんまりわかっていない
お嬢さんでした、私。
その後カンボジアでその人に再会したときにそんなことを言われたんですよね。
今となっては、
笑顔振りまいてるだけやったら今の運営はないやろ・・・
と、ただひたすら心の中で突っ込むばかりなのですが(笑
彼女が私にそれを言った真意はいまだによくわからないけれど、当時の関係性を
からめて考えると、私がその人の言いなりになっていればそれでよかったのだと
思います。
お嬢さんのご意見は必要ありません、と。
今なら笑って「そんなことしてたら何にも動きませんって」ってあっけらかんと言える
んでしょうけど、当時の私は落ち込みましたよ・・・。
私は飾り物なのか・・・と。
また別の方にも言われました。
「施設運営は博子さんには荷が重すぎる」
正確にいうと、私に言ったのではなくご丁寧にも私の両親にそんな内容のお手紙を
送ってくれたんですねえ・・・。
私は両親に申し訳なくて、泣きました。
自分の娘のことを他人からそんな風に言われて、両親の心中はいかばかりだった
でしょうか。
と言っても、私はただその人たちを批判するためにブログを書いているわけでは
ないのです。
私は去年40歳になりました。
過去の私にそういった言葉を投げた人たちの、当時の年齢に徐々に近づいて
いるわけです。
| 昔はここを一人で・・・ |
のにも精一杯でしたが、なにかしていたんです。
その「なにか」というのが、毎日来る日も来る日もとにかくやっていた『掃除』です。
朝6時に起きて、写真の部屋(写真に写っている面積の3倍くらい)を掃き掃除、
モップ掛け、必ず毎朝一人でやっていました。1時間くらいかかるんですけど、それを
してから朝ごはんが日課だったんです。
家の周りをほうきで掃いたり、ゴミを燃やしたりもしていました。
とにかく飽きることなくずっと毎日です。
子どもたちの洗濯(もちろん手洗い)の手伝いや、食事の後の皿洗いも。
そのときの私を知るスタッフは今でもそのことを覚えてくれています。
そして「今は私たちができるから博子さんはしなくてもよい」と言ってくれます。
「見せる」ことから「覚えてもらう」という作業だったのだと思います。
大人であってもスタッフは何から子どもたちに指導すればいいのかをわかって
いなかったんですよね。
当時何のスキルもない、経験もない私ができたのはそれだったんです。
『意味もなくただいるのだけは嫌だ』と思っていました。
だってそれってすごく邪魔な人ではないですか?
人様の国にのこのこと来て、邪魔するってなんやねん、と(笑
この気持ちは今でも変わらずに私の中にあります。
続けていると、「できること」が増えていくんです。
目についてくるんですよね、あれもできるかも、これも変えられるかも、と。
もともとのんびりした性格なので、次々に新しいことをするのは苦手なんですが
1つを終えるとまたもう1つという感じでした。
15年、ただそれを繰り返してきただけです。みんなの邪魔にならないように。
もし私がこの15年ただひたすら子どもたちに笑顔だけ振りまいていたら・・・とか、
荷が重いと言って投げ出していたら、たぶん全然違うスナーダイ・クマエになって
いたんでしょうね。
今となっては、そんな言葉をくれた人たちからすると15年前の私はそんな頼り
ない子に見えていたんだろうなと思います。
ではもし今、自分の近くに過去の自分と同じくらいの年齢の人がいて、今の自分
の目で見たときに未熟やなとか幼い考えやなと思ったとしたら・・・
自分がされたのとは違うアプローチで、その人に自分の意見を伝えるのだと
思います。
なぜなら自分には『悪意』がないから。
いじめてやろうとかいびってやろうとか思ってないから。
ただ先を生きている者として、こういうふうにしてみるのはどうかな?ということを
伝えておきたい、まあ要するにおせっかいなんですけど。
だから相手がそれを聞いてくれるか無視するかはその人次第だとも思います。
でも頭ごなしに「これだけしてればいい」とか「荷が重い」とか、言わない。
だってそんなこと言われて「そうですね」って素直に聞くとは思えないもの。
でも一つだけはっきりと言いたいのは「とにかくカンボジアのみんなの邪魔だけ
せんように気配りしようよ」ということです。
なんかうまく言えないけど、昔私にそういうことを言ったおばさまたちに思うこと。
(私もおばちゃんの年齢になってるけど 笑)
私なりにやってきたから、今の施設運営があるし、今の子どもたちがあるんだって
やっと言える自分になってきています。
そして何よりも、そんなおばさま方よりも、はるかに多くの人たちが、どう見ても
未熟な私を辛抱強く見守り、応援してくれたからこその今なんです。
あるときは励まし、あるときは褒め、そしてたまに苦言も呈してくれました。
そのどれもが私の頭にすっと入ってきて、進む道を示してくれるものだったように
思います。(褒められると困惑するけど、実は喜んでます 笑)
どっち側の人になりたいのか、最近はよくそんなことを思います。
答えは言うまでもないですよね。
たまに思い出す15年前のおはなしです。
悔しくても泣くしかなかった15年前より、ずいぶんとたくましくなったものです。
2015/01/17
わたしの1・17
始発電車の時間にはまだ早く人の動きも感じられない早朝、机に向かう私。
電気が突然消え、その数秒後には激しい揺れ。
揺れが収まってから外に出てみると、自分の知っている風景はそこには
ありませんでした。
そしてその瞬間から住んでいた町の景色すべてが色のないモノクロに
変わってしまいました。
20年経っても消えることのない記憶です。
当時甲南大学の2回生だった私は翌日から始まる後期試験のために
徹夜で勉強していました。
一人暮らしをしていたのは学校のすぐ近く、東灘区でした。
今年で阪神淡路大震災から20年。
あの日試験がなければ地元和歌山の成人式に参加し、被災していなかった
はずです。
20歳だった私も今は40歳。
当時子どもだった人やその年に生まれた人たちも大人になりました。
それだけの年を経ても、神戸で被災した人の心の中からあの日の記憶が
なくなることはないでしょう。
私の友人たちは一人暮らししていた私とは違い、神戸が地元という人が
多く、震災後の苦労というのは言葉では表せないものがあると思います。
地元に帰った私には家族、暖かい家がありました。
たった20秒あまりの時間でそれらを失った人、命を落としてしまった6000人
以上もの人たちと私の間に何の違いがあるのか。
和歌山に帰ってからはそのことが頭から離れませんでした。
それから20年、税理士事務所勤務を経て、結婚を機にカンボジアへ。
今の生活を始めて15年が過ぎ、お手伝い程度に思っていた施設運営は
私の手に委ねられ、今日に至ります。
そして今でもずっとどこかで神戸を意識している自分と共に日々の営みが
あるように感じます。
この指輪は当時の彼がクリスマスプレゼントに私にくれたものです。
サイズが大きかったのでお直しのために年末からお店に預けていました。
預けていたのは大丸神戸店。
元町にあるこのビルの様子も当時テレビや新聞でよく見ていたので、きっと
指輪はなくなってしまっているだろうと思っていました。
いつだったかは忘れましたが、営業を再開したあとでサイズがぴったりに
なったこの指輪が手元に戻ってきました。
一度盗難にもあったのに、不思議と私のところに却ってきたこともあり
今では肌身離さずつけています。
私は震災後の神戸に対して直接的な行動はなにもできていません。
大人になり自身の力を蓄えてから、地元神戸と3・11の被災地をつなぎ
復興事業に関わっている友人もいます。
他の友人たちも多くは語らないけれど、家族で大変な思いをして今の
生活を築いているのだと思います。
やりたいこともあきらめて違う道を選ばざるを得ない状況の人もいたと
思います。
神戸のあの日を境にすべてが変わってしまった人たちの体験には
一つ一つの物語があり、それはのちに伝えてゆくべき尊いものです。
震災後大学を卒業した私は、自分で決めたことをやりたいように生きてきました。
他人が何を言っても、私を信じてくれた両親がいました。
母は10年前、父は昨年亡くなりましたが、神戸の記憶と同様に私の心の中で
『丁寧に生きる』ことを示してくれています。
巡り巡ってカンボジアの子どもたちの成長に関わることになり、自分自身の
子どもにも恵まれました。
私にとって『丁寧に生きる』こと、日々を積み重ねることのできる幸せを伝えて
いくことが生きる意味なのかもしれません。
私の右手にある指輪はその気持ちを忘れそうになったときに、「ちゃうで、あかんで」
と教えてくれます。
私にとっての1・17は、自分の生き方についてもう一度向き合う日、自分の命がある
限りそれは続いていくのだと思います。
カンボジアと日本の時差は2時間。
こちらの時間で午前3時46分、黙とうを捧げました。
神戸に対して具体的にはなにもできていないけれど、あの日多くの人が犠牲と
なり、残された人の傷もいまだに癒えていないことを忘れずに、今自分と関わりの
ある人たちに当たり前のあるものの大切さ伝えていきたいと思っています。
それが私の1・17の物語なのだと思います。
電気が突然消え、その数秒後には激しい揺れ。
揺れが収まってから外に出てみると、自分の知っている風景はそこには
ありませんでした。
そしてその瞬間から住んでいた町の景色すべてが色のないモノクロに
変わってしまいました。
20年経っても消えることのない記憶です。
当時甲南大学の2回生だった私は翌日から始まる後期試験のために
徹夜で勉強していました。
一人暮らしをしていたのは学校のすぐ近く、東灘区でした。
今年で阪神淡路大震災から20年。
あの日試験がなければ地元和歌山の成人式に参加し、被災していなかった
はずです。
20歳だった私も今は40歳。
当時子どもだった人やその年に生まれた人たちも大人になりました。
それだけの年を経ても、神戸で被災した人の心の中からあの日の記憶が
なくなることはないでしょう。
私の友人たちは一人暮らししていた私とは違い、神戸が地元という人が
多く、震災後の苦労というのは言葉では表せないものがあると思います。
地元に帰った私には家族、暖かい家がありました。
たった20秒あまりの時間でそれらを失った人、命を落としてしまった6000人
以上もの人たちと私の間に何の違いがあるのか。
和歌山に帰ってからはそのことが頭から離れませんでした。
それから20年、税理士事務所勤務を経て、結婚を機にカンボジアへ。
今の生活を始めて15年が過ぎ、お手伝い程度に思っていた施設運営は
私の手に委ねられ、今日に至ります。
そして今でもずっとどこかで神戸を意識している自分と共に日々の営みが
あるように感じます。
| 右手の薬指にいつもあります |
サイズが大きかったのでお直しのために年末からお店に預けていました。
預けていたのは大丸神戸店。
元町にあるこのビルの様子も当時テレビや新聞でよく見ていたので、きっと
指輪はなくなってしまっているだろうと思っていました。
いつだったかは忘れましたが、営業を再開したあとでサイズがぴったりに
なったこの指輪が手元に戻ってきました。
一度盗難にもあったのに、不思議と私のところに却ってきたこともあり
今では肌身離さずつけています。
私は震災後の神戸に対して直接的な行動はなにもできていません。
大人になり自身の力を蓄えてから、地元神戸と3・11の被災地をつなぎ
復興事業に関わっている友人もいます。
他の友人たちも多くは語らないけれど、家族で大変な思いをして今の
生活を築いているのだと思います。
やりたいこともあきらめて違う道を選ばざるを得ない状況の人もいたと
思います。
神戸のあの日を境にすべてが変わってしまった人たちの体験には
一つ一つの物語があり、それはのちに伝えてゆくべき尊いものです。
震災後大学を卒業した私は、自分で決めたことをやりたいように生きてきました。
他人が何を言っても、私を信じてくれた両親がいました。
母は10年前、父は昨年亡くなりましたが、神戸の記憶と同様に私の心の中で
『丁寧に生きる』ことを示してくれています。
巡り巡ってカンボジアの子どもたちの成長に関わることになり、自分自身の
子どもにも恵まれました。
私にとって『丁寧に生きる』こと、日々を積み重ねることのできる幸せを伝えて
いくことが生きる意味なのかもしれません。
私の右手にある指輪はその気持ちを忘れそうになったときに、「ちゃうで、あかんで」
と教えてくれます。
私にとっての1・17は、自分の生き方についてもう一度向き合う日、自分の命がある
限りそれは続いていくのだと思います。
カンボジアと日本の時差は2時間。
こちらの時間で午前3時46分、黙とうを捧げました。
神戸に対して具体的にはなにもできていないけれど、あの日多くの人が犠牲と
なり、残された人の傷もいまだに癒えていないことを忘れずに、今自分と関わりの
ある人たちに当たり前のあるものの大切さ伝えていきたいと思っています。
それが私の1・17の物語なのだと思います。
2015/01/06
新年でしたね
このブログをご覧になってくださっている皆様、いつもありがとうございます。
年が明けたというのにようやく今日、今年初めての投稿です。
今年もこんな感じでゆるくやっていきますので、よろしくお願いします。
新年にあたって思うことを・・・
私は今年カンボジアで孤児院に本格的に関わり始めて15年という節目の年を
迎えます。
もう15年、まだ15年、思いは錯綜しますが、やっぱり「もう15年」かな。
結婚を機にカンボジア移住、首都プノンペンの生活からド田舎のシェムリアップ
(今とは比べ物にならないほどの超田舎でした)生活へ。
カエルの声を聞きながら一人で泣いていた私も、今では少々のことでは涙も
流さず、たまに悔し涙を流すと友人から心配されるどころか「鬼の目にも涙」と
つぶやかれるほどまでに強く成長しました。
日本やプノンペンに比べて広く感じるシェムリアップの空が好きで、まだフィルム
だった頃から空の写真をよく撮っていたのに、いつの間にかそれにも慣れて
気づいたらこの街には建物だらけ、空の様子もずいぶん様変わりしてしまいました。
今年は日本で新年を迎えず、10年ぶりでしょうかカンボジアで年越しをすることに
しました。10年前は「え?お正月って4月でしょう?」というカンボジアの皆様の
中で静かに迎えていた1月1日も、今ではバーストリートを中心にシヴォタ通りまで
身動きが取れない程の騒ぎになっているようですね。
人混みが大嫌いな私にとってはあまり喜ばしくない光景です(笑
お正月が過ぎたある日、少しだけ息子とゆっくり話す時間がありました。
思春期を迎えて少々難しい年頃ではありますが、今でも私と話をする時間を
持ってくれる優しい息子です。
昔の話をしているときこんなことを言われました。
「僕、覚えてるよ。ママが一人で部屋で泣いてたこと。」
今年17歳になる息子、半分大人で半分子どもですが、そんな微妙な感覚で
私の気持ちに寄り添ってくれたのかなと思います。
私に話しかける横顔はずいぶん大人びたように感じました。
この子が幼かった頃は私が抱きしめていたのに、今では時に私を抱きしめて
くれる存在でもあるのが不思議です。
年を追うごとに家族の大切さを感じます。
私にはもう父も母もいないけれど、二人が私の中にしっかりと残してくれたものは
私が存在する限り消えることはありません。
しかも私には息子やここにいる子どもたちがいて、彼らが二人からもらったものを
伝えていく存在でもあるんですよね。
街も、息子も、そして私の心の中も15年で成熟してきたのかな。
これからの15年、どんなふうになっていくんだろう。
自信家に見られることも多いけど、本当は迷いだらけで心細くてしょうがないん
です。
そんな自分も少しは出していける40代になりたい、かな。
ここで過ごしてきたからこそ得られた人とのつながりもたくさんあります。
どれだけぶつかってもぶつかるたびに深まる関係、どうしてそこまで私に
優しくしてくれるのだろうと思うような慈悲深い人たち、弱音を吐ける相手、
私たちのことを忘れずにいてくれる人たち、頻繁に会うわけではないのに
お互いになんとか会いたいと思い続ける関係。
人と人のつながりは複雑で尊いものであること、ここに来なければここまで
思うことはなかったかもしれません。
40代へ向けて、30代でもらってきたものを無駄にしない歳を重ね方をしたいです。
家族の幸せと健康一番で。
とりとめない文章になりましたが、新年ということでお許しください(笑
大切なものを強さと優しさで包み込めるような自分でいたいと思います。
この街のビミョーな変化にもなんとかついていきながら・・・(笑
空の色、日々の違いにも気づける余裕を持ちたいな。
また今年もがんばりますか・・・。
皆さんにとって、大切な人たちと笑って過ごせるかけがえない時間が少し
でも多い一年になりますよう、遅ればせながらお祈りしております。
今年もどうかよろしくお願いします。
(次の更新は未定です・笑)
年が明けたというのにようやく今日、今年初めての投稿です。
今年もこんな感じでゆるくやっていきますので、よろしくお願いします。
新年にあたって思うことを・・・
私は今年カンボジアで孤児院に本格的に関わり始めて15年という節目の年を
迎えます。
もう15年、まだ15年、思いは錯綜しますが、やっぱり「もう15年」かな。
結婚を機にカンボジア移住、首都プノンペンの生活からド田舎のシェムリアップ
(今とは比べ物にならないほどの超田舎でした)生活へ。
カエルの声を聞きながら一人で泣いていた私も、今では少々のことでは涙も
流さず、たまに悔し涙を流すと友人から心配されるどころか「鬼の目にも涙」と
つぶやかれるほどまでに強く成長しました。
日本やプノンペンに比べて広く感じるシェムリアップの空が好きで、まだフィルム
だった頃から空の写真をよく撮っていたのに、いつの間にかそれにも慣れて
気づいたらこの街には建物だらけ、空の様子もずいぶん様変わりしてしまいました。
今年は日本で新年を迎えず、10年ぶりでしょうかカンボジアで年越しをすることに
しました。10年前は「え?お正月って4月でしょう?」というカンボジアの皆様の
中で静かに迎えていた1月1日も、今ではバーストリートを中心にシヴォタ通りまで
身動きが取れない程の騒ぎになっているようですね。
人混みが大嫌いな私にとってはあまり喜ばしくない光景です(笑
お正月が過ぎたある日、少しだけ息子とゆっくり話す時間がありました。
思春期を迎えて少々難しい年頃ではありますが、今でも私と話をする時間を
持ってくれる優しい息子です。
昔の話をしているときこんなことを言われました。
「僕、覚えてるよ。ママが一人で部屋で泣いてたこと。」
今年17歳になる息子、半分大人で半分子どもですが、そんな微妙な感覚で
私の気持ちに寄り添ってくれたのかなと思います。
私に話しかける横顔はずいぶん大人びたように感じました。
この子が幼かった頃は私が抱きしめていたのに、今では時に私を抱きしめて
くれる存在でもあるのが不思議です。
年を追うごとに家族の大切さを感じます。
私にはもう父も母もいないけれど、二人が私の中にしっかりと残してくれたものは
私が存在する限り消えることはありません。
しかも私には息子やここにいる子どもたちがいて、彼らが二人からもらったものを
伝えていく存在でもあるんですよね。
街も、息子も、そして私の心の中も15年で成熟してきたのかな。
これからの15年、どんなふうになっていくんだろう。
自信家に見られることも多いけど、本当は迷いだらけで心細くてしょうがないん
です。
そんな自分も少しは出していける40代になりたい、かな。
ここで過ごしてきたからこそ得られた人とのつながりもたくさんあります。
どれだけぶつかってもぶつかるたびに深まる関係、どうしてそこまで私に
優しくしてくれるのだろうと思うような慈悲深い人たち、弱音を吐ける相手、
私たちのことを忘れずにいてくれる人たち、頻繁に会うわけではないのに
お互いになんとか会いたいと思い続ける関係。
人と人のつながりは複雑で尊いものであること、ここに来なければここまで
思うことはなかったかもしれません。
40代へ向けて、30代でもらってきたものを無駄にしない歳を重ね方をしたいです。
家族の幸せと健康一番で。
とりとめない文章になりましたが、新年ということでお許しください(笑
大切なものを強さと優しさで包み込めるような自分でいたいと思います。
この街のビミョーな変化にもなんとかついていきながら・・・(笑
| 年明けの夕陽 |
空の色、日々の違いにも気づける余裕を持ちたいな。
また今年もがんばりますか・・・。
皆さんにとって、大切な人たちと笑って過ごせるかけがえない時間が少し
でも多い一年になりますよう、遅ればせながらお祈りしております。
今年もどうかよろしくお願いします。
(次の更新は未定です・笑)
2014/12/02
海南市民講座 【これからの生き方と逝き方】
11月29日海南市の福祉センターで開催された市民講座でお話しする
機会を頂きました。
今回はいつものようにカンボジアのお話ではなく、9月にすい臓がんで
亡くなった父を自宅で看取った経験をお話しするというものでした。
福祉センターは何年も前に華道講師であった母が華展をさせてもらった
ことがある場所です。
華展終了後に一枚ずつ手書きで来場者の皆さんにお礼状を書いていた
母をふと思い出しました。
母は父よりも9年早く急性心不全で他界しています。
この日は一緒に看取りをした姉と共に話をすることになっていました。
これも初めてのことで、前夜に軽く打ち合わせをしましたがどうなるかは
わかりませんでした・・・。
登壇される皆さんと事前の打ち合わせを少々したところで時間になり会場に。
客席にはたくさんの方がいらっしゃって、後ろの方で職員の方が新しい椅子を
準備されている姿が見えました。
それでもまったく緊張しなかったのは不思議です。
いよいよ自分たちの番になりました。
資料に従って話すように準備していたため、すらすらと言葉が出ました。
写真にもありますが、ガンがわかってから、それについての話し合い、その後の
自宅での介護から看取りへの流れとそのときどきの私たちの気持ちをお話し
しました。
父がガンとわかったとき、なんでうちのお父さんが・・・と思いました。
母が急性心不全で亡くなったこともいまだになぜという思いが消えることは
ありません。
父がガンの治療はしないと決めたこと、それを家族で全力でサポートすると姉と
話し合ったこと、信頼できる医師と看護師に出会えたことがよい看取りができた
要因だというお話をしました。
父は若いころ遊び人でとにかく母に迷惑をかけてばかりの人でした。
私も姉も父が嫌いでした。
一言で遊び人と言いますが、想像を超えた遊びをする人でした・・・。
どうしてそんな父を私たち姉妹が全力でサポートする気持ちになれたのか。
先に亡くなった母から託された気持ちがあったからではないでしょうか。
父がこうして家族に自宅で看取られて逝くことができたのは、母が父を見捨て
なかったからだと思います。
そして母の急逝というつらい体験があったからこそ、父の時は精一杯悔いなく
できることをしようと思えたのでしょう。
そんなことを思うにつけ、母の愛というのは深く、大きなものだったのだと感じます。
母がそこまで見越していたのかどうかは誰にも分らないけれど、そうやって
自分なりに答えを見つけることで愛する人の死を受け入れていくのだと思います。
完全ではないにせよ、私は母の死を受け入れるのに10年かかったことになり、
受け入れることに手を貸してくれたのは父の看取りという体験でした。
結局は両親の大きな愛の中に自分はいるのだと思います。
介護をする姉に「ありがとう、すまんなあ」と言っていたという父ですが、私にはそんな
ことはなかなか言ってくれませんでした。
昔から私には娘というよりは息子に接するような父でした。
父を最期まで看てくれた新垣医師の手紙には、カンボジアから私が戻った時
前日まで80しかなかった血圧が100まで上がったエピソードが書かれていました。
言葉にしなかったけど、私がいたことを喜んでくれたのだと思います。
病気になってから父が何度も私たちに言ったことがあります。それは「きょうだいで
仲良くするように」ということでした。
とにかくそのことを気にかけているようでした。
何をするにしても正反対の姉と私ですが、それゆえにないものをお互いに補える
のかもしれません。
若いころは自分と違う姉にいらだったり、喧嘩もしましたが、きっとこれからは
仲良くやっていけると思います。
とはいっても、もともと仲が悪かったわけではないのですが・・・。
会場の真ん中最前列に私が尊敬する岩崎順子さんが座っていました。
この夏、私が本音を話せるように、父の命がある間に本音でカンボジアのことを
人前で話せるようにとその機会を設けてくださったのが岩崎さんでした。
父は当日会場に来る体力はなかったけれど、私の友人が撮影してくれたDVDを
うちで見てくれました。
『ええトークショーに仕上がったな』と言っていました。
私は父と最後にかけてもらった言葉がどうしても思い出せないので、この言葉を
最期の言葉だと思っています。
この日終始落ち着いて話せたのは岩崎さんの顔がずっと見えていたからですね。
(岩崎さんのブログ)
人前で話す経験など皆無の姉が緊張しながら少ない言葉で一生懸命話すのを
横ではらはらと見ていました。
できるところは助けたつもりで、結果的にほとんど私が話すことになりました。
きっと私たち姉妹はこれでいいのだと思います。
なぜならどちらも自分にもっていないものがあるのに、お互いにそこに嫉妬する
ことなく素直に違いを受け入れているからです。
そんな気持ちを持てる姉妹に育ててくれた両親に感謝したいと、改めて思いました。
若いころ滅茶苦茶だった父ですが、その中にも譲れない信念のようなものを
持った人でした。
いつ死ぬかわからんから好きなことをするんや、とよく言っていました。
一方仕事で人に迷惑をかけることはなかったように思います。
そんな父の生き方を、最期の逝き方につなげることができたのが私たちの
看取りの経験だったのです。
つたない話だったのでどこまでそれを皆さんにお伝えできたかわかりませんが
私自身も大変有意義な時間を頂いたと思います。
関係者の皆様、ご来場の皆様、ありがとうございました。
もしまた海南の皆さんのお役に立てる機会がありましたらぜひ参加させて
頂きたいと思います。
ずっとカンボジアで、日本の皆さんにお世話になりながらカンボジアの子どもへの
活動をしてきた私が、ようやく日本で何かを還元させて頂けるときを頂けて
心が救われる思いです。
ありがとうございました。
機会を頂きました。
今回はいつものようにカンボジアのお話ではなく、9月にすい臓がんで
亡くなった父を自宅で看取った経験をお話しするというものでした。
福祉センターは何年も前に華道講師であった母が華展をさせてもらった
ことがある場所です。
華展終了後に一枚ずつ手書きで来場者の皆さんにお礼状を書いていた
母をふと思い出しました。
母は父よりも9年早く急性心不全で他界しています。
この日は一緒に看取りをした姉と共に話をすることになっていました。
これも初めてのことで、前夜に軽く打ち合わせをしましたがどうなるかは
わかりませんでした・・・。
登壇される皆さんと事前の打ち合わせを少々したところで時間になり会場に。
| 大盛況 |
準備されている姿が見えました。
それでもまったく緊張しなかったのは不思議です。
いよいよ自分たちの番になりました。
資料に従って話すように準備していたため、すらすらと言葉が出ました。
| 父の逝き方~家族、周りの方と共に~というタイトルで |
自宅での介護から看取りへの流れとそのときどきの私たちの気持ちをお話し
しました。
父がガンとわかったとき、なんでうちのお父さんが・・・と思いました。
母が急性心不全で亡くなったこともいまだになぜという思いが消えることは
ありません。
父がガンの治療はしないと決めたこと、それを家族で全力でサポートすると姉と
話し合ったこと、信頼できる医師と看護師に出会えたことがよい看取りができた
要因だというお話をしました。
父は若いころ遊び人でとにかく母に迷惑をかけてばかりの人でした。
私も姉も父が嫌いでした。
一言で遊び人と言いますが、想像を超えた遊びをする人でした・・・。
どうしてそんな父を私たち姉妹が全力でサポートする気持ちになれたのか。
先に亡くなった母から託された気持ちがあったからではないでしょうか。
父がこうして家族に自宅で看取られて逝くことができたのは、母が父を見捨て
なかったからだと思います。
そして母の急逝というつらい体験があったからこそ、父の時は精一杯悔いなく
できることをしようと思えたのでしょう。
そんなことを思うにつけ、母の愛というのは深く、大きなものだったのだと感じます。
母がそこまで見越していたのかどうかは誰にも分らないけれど、そうやって
自分なりに答えを見つけることで愛する人の死を受け入れていくのだと思います。
完全ではないにせよ、私は母の死を受け入れるのに10年かかったことになり、
受け入れることに手を貸してくれたのは父の看取りという体験でした。
結局は両親の大きな愛の中に自分はいるのだと思います。
介護をする姉に「ありがとう、すまんなあ」と言っていたという父ですが、私にはそんな
ことはなかなか言ってくれませんでした。
昔から私には娘というよりは息子に接するような父でした。
父を最期まで看てくれた新垣医師の手紙には、カンボジアから私が戻った時
前日まで80しかなかった血圧が100まで上がったエピソードが書かれていました。
言葉にしなかったけど、私がいたことを喜んでくれたのだと思います。
病気になってから父が何度も私たちに言ったことがあります。それは「きょうだいで
仲良くするように」ということでした。
とにかくそのことを気にかけているようでした。
何をするにしても正反対の姉と私ですが、それゆえにないものをお互いに補える
のかもしれません。
若いころは自分と違う姉にいらだったり、喧嘩もしましたが、きっとこれからは
仲良くやっていけると思います。
とはいっても、もともと仲が悪かったわけではないのですが・・・。
会場の真ん中最前列に私が尊敬する岩崎順子さんが座っていました。
この夏、私が本音を話せるように、父の命がある間に本音でカンボジアのことを
人前で話せるようにとその機会を設けてくださったのが岩崎さんでした。
父は当日会場に来る体力はなかったけれど、私の友人が撮影してくれたDVDを
うちで見てくれました。
『ええトークショーに仕上がったな』と言っていました。
私は父と最後にかけてもらった言葉がどうしても思い出せないので、この言葉を
最期の言葉だと思っています。
この日終始落ち着いて話せたのは岩崎さんの顔がずっと見えていたからですね。
(岩崎さんのブログ)
人前で話す経験など皆無の姉が緊張しながら少ない言葉で一生懸命話すのを
横ではらはらと見ていました。
できるところは助けたつもりで、結果的にほとんど私が話すことになりました。
きっと私たち姉妹はこれでいいのだと思います。
なぜならどちらも自分にもっていないものがあるのに、お互いにそこに嫉妬する
ことなく素直に違いを受け入れているからです。
そんな気持ちを持てる姉妹に育ててくれた両親に感謝したいと、改めて思いました。
若いころ滅茶苦茶だった父ですが、その中にも譲れない信念のようなものを
持った人でした。
いつ死ぬかわからんから好きなことをするんや、とよく言っていました。
一方仕事で人に迷惑をかけることはなかったように思います。
そんな父の生き方を、最期の逝き方につなげることができたのが私たちの
看取りの経験だったのです。
つたない話だったのでどこまでそれを皆さんにお伝えできたかわかりませんが
私自身も大変有意義な時間を頂いたと思います。
関係者の皆様、ご来場の皆様、ありがとうございました。
もしまた海南の皆さんのお役に立てる機会がありましたらぜひ参加させて
頂きたいと思います。
ずっとカンボジアで、日本の皆さんにお世話になりながらカンボジアの子どもへの
活動をしてきた私が、ようやく日本で何かを還元させて頂けるときを頂けて
心が救われる思いです。
ありがとうございました。
2014/11/21
おなじときを歩んで2
今日もチョムランのことを書きます。
彼がここに来た時は一生懸命虚勢をはって「自分は何も怖くない」と
いいながら夜に真っ暗な建設中の敷地内の建物の中に入っていったり、
誰とも仲良くしようしなかったりしていました。
標準よりもずいぶん細くて小さい体でそんなことをする彼を見ていると
とても悲しくなったのを覚えています。
ここでそんなことしなくてもいいんだよ、と心の中で思いながら当時クメール語
がまったくできなかった私は言葉ではない表現を選ぶしかありませんでした。
そして髪や体の洗い方すら知らなかった彼を自分の息子(当時2歳)と共に
シャワー室で洗ったり、爪の切り方を教えたり・・・
まずは自分の身の回りの基本的なことができるように、実際に私がやって
見せながら教えました。
そんな日が続いたあるとき、夕方だったと思います。
外に座っていた私にチョムランがトコトコ近づいてきました。
なんだろうと思っていると、横に座りこう言いました。
「おかーしゃん」
彼が初めて発した日本語です。
私は驚きつつもうれしくて、チョムランの肩を揺らしながら「もう一回!もう一回!」
と日本語で言いました。
そんなチョムランが今では日本語でスピーチを書くまでになったのです。
私はチョムランの原稿を読んで一人部屋で涙を流しました。
つたない日本語の中に、両親への「なぜ?」という思いや、スナーダイ
クマエを本当にいいところだと思ってくれている気持ちが詰まっている
ように感じられたからです。
生まれる場所や環境を自分で決めることのできないのが子どもです。
どんな大人に囲まれ、どんな言葉をかけられて育っていくのか、それは
一人の人間のその先を決めていく重要なカギになると思います。
それはチョムランだけではなく、他の子どもたちもみんな同じ。
そしてうちにいる子どもたちはみんなそれぞれに家族や村での出来事に
対する思いを持っているはずです。
私たちは起きてしまったことをなかったことにはできません。
でもそれはそれとしてこれから新しく前を向いていくために、少しだけ
背中を押すことはできると思っています。
それぞれの思いを簡単に「わかるわかる」などということはできないけれど、
これから先は一緒に歩いていく人がそばにいるよということを発信する
ことはできますよね。
私はスナーダイクマエにいる子どもたちにそんな気持ち、まなざしをむけて
やってきました。
あいかわらず勉強が苦手なチョムランですが、なにがあってもあなたの
味方だよという気持ちはずっと伝え続けていこうと思っています。
私もチョムランの言うように、がんばります。
彼がここに来た時は一生懸命虚勢をはって「自分は何も怖くない」と
いいながら夜に真っ暗な建設中の敷地内の建物の中に入っていったり、
誰とも仲良くしようしなかったりしていました。
標準よりもずいぶん細くて小さい体でそんなことをする彼を見ていると
とても悲しくなったのを覚えています。
ここでそんなことしなくてもいいんだよ、と心の中で思いながら当時クメール語
がまったくできなかった私は言葉ではない表現を選ぶしかありませんでした。
そして髪や体の洗い方すら知らなかった彼を自分の息子(当時2歳)と共に
シャワー室で洗ったり、爪の切り方を教えたり・・・
まずは自分の身の回りの基本的なことができるように、実際に私がやって
見せながら教えました。
そんな日が続いたあるとき、夕方だったと思います。
外に座っていた私にチョムランがトコトコ近づいてきました。
なんだろうと思っていると、横に座りこう言いました。
「おかーしゃん」
彼が初めて発した日本語です。
私は驚きつつもうれしくて、チョムランの肩を揺らしながら「もう一回!もう一回!」
と日本語で言いました。
そんなチョムランが今では日本語でスピーチを書くまでになったのです。
| 幼い頃のチョムラン、私の息子と共に |
つたない日本語の中に、両親への「なぜ?」という思いや、スナーダイ
クマエを本当にいいところだと思ってくれている気持ちが詰まっている
ように感じられたからです。
生まれる場所や環境を自分で決めることのできないのが子どもです。
どんな大人に囲まれ、どんな言葉をかけられて育っていくのか、それは
一人の人間のその先を決めていく重要なカギになると思います。
それはチョムランだけではなく、他の子どもたちもみんな同じ。
そしてうちにいる子どもたちはみんなそれぞれに家族や村での出来事に
対する思いを持っているはずです。
私たちは起きてしまったことをなかったことにはできません。
でもそれはそれとしてこれから新しく前を向いていくために、少しだけ
背中を押すことはできると思っています。
それぞれの思いを簡単に「わかるわかる」などということはできないけれど、
これから先は一緒に歩いていく人がそばにいるよということを発信する
ことはできますよね。
私はスナーダイクマエにいる子どもたちにそんな気持ち、まなざしをむけて
やってきました。
あいかわらず勉強が苦手なチョムランですが、なにがあってもあなたの
味方だよという気持ちはずっと伝え続けていこうと思っています。
私もチョムランの言うように、がんばります。
2014/11/19
おなじときを歩んで1
一人の男の子がスピーチ原稿の添削をしてほしいと持ってきました。
チョムラン18歳。
今年から高校1年生になりました。
まずは彼の書いたスピーチを読んで下さい。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
「まけないで」
私は貧しい家族に生まれました。私の両親はいつもお酒を飲むので
子どもたちの将来はどうなるのかということを考えませんでした。
ある日私の両親はお酒が欲しいけどお金がないので買うことができ
ませんでした。
お金が欲しかったので子どもがいない家族に、「子どもが欲しいですか?
欲しかったら私の子どもを売ってあげるよ。」とききました。
私の両親にとって自分の子供は大切なものじゃなかったのでしょう。
たぶん動物と同じと思っていたと思います。
どうして私の両親は自分の子どもを売るのか私は知りたいです。
私のきょうだいは5人います。4人は両親が売りました。でも私は運が
よかったのです。おばは両親が子どもを売ってしまったことを知ってい
ました。
そのときおばさんは両親を叱りました。「なんで自分の子どもを別の
家族に売ってしまうの?」
おばさんは両親と話してから私を自分の家に連れて帰りました。
おばさんの生活はあまりよくないので私の将来を考えて「スナーダイ・
クマエ」という施設に連れていきました。
そこは子どもたちの将来のために無料で勉強をさせるとてもいいところです。
「スナーダイ・クマエ」に私を送ってからおばさんは家に帰りました。
そこに入ってから英語や日本語などを勉強させてもらって本当にうれし
かったです。
それからもう14年です。今、私は18歳で今でも「スナーダイ・クマエ」に
住んでいます。
毎日勉強を頑張っています。
初めてここに来てから今まで日本人のお母さんが色々なことを助けて
くれています。彼女に恩返しがしたいので私は一生懸命お手伝いとか
勉強とか色々なことをがんばっています。今は日本語の先生がいないので
自分で勉強します。
話したいときはできるだけ話します。先生がいなくても自分でがんばったら
いつかできると思います。
皆さん、じぶんがやりたいことがあったらやってみてがんばって下さい。
なせばなると思います。皆さん、なんでも負けないでがんばりましょう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
私がシェムリアップに住み始めたのは2000年。
そして私が初めて自分の判断で施設に入れた子どもがチョムランです。
当時5歳と言われていましたが、生年月日もわかりませんでした。
(カンボジアでは今でも農村部に行くと生年月日不詳のことが多いです)
私は「この子は実家が貧しくて売られていたんだ」と聞いていました。
今のカンボジア生活はこの子が入ってきたのとほぼ同じに歩んできた
とも言えます。
チョムランは体は小さく、学校の勉強も苦手でした。
小学校は何度も落第し、中学校の卒業試験にも1度落ちています。
それに合格できないと高校に進学ができないので、そのときに彼にきいた
ことがあります。
このままもう一度中学3年生をするのか、職業訓練を受けて働くか。
チョムランは迷いなく「僕は勉強したい」と言ったのを覚えています。
勉強が苦手で、成績も悪く、試験で落ちることもよくあった彼ですが
学校も勉強も「嫌い」ではなかったのですね。
私は「もう一度だけ中学校に行ってもいいけど、今度試験に落ちたら
将来についてもう一度私と一緒に考えましょう」と答えました。
限られた予算の中で子どもたちを養育し、そんなに余裕のある運営をして
いるわけではありません。
もちろんチョムランもそのことはわかっていたと思います。
そして2度目は卒業試験に合格し、高校生になることができたのです。
彼よりもずっと後でここに入ってきたラタナーと同じ学年になりました。
ちょっと他の用ができて席を離れるので、また次回続きを書きます。
チョムラン18歳。
今年から高校1年生になりました。
まずは彼の書いたスピーチを読んで下さい。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
「まけないで」
私は貧しい家族に生まれました。私の両親はいつもお酒を飲むので
子どもたちの将来はどうなるのかということを考えませんでした。
ある日私の両親はお酒が欲しいけどお金がないので買うことができ
ませんでした。
お金が欲しかったので子どもがいない家族に、「子どもが欲しいですか?
欲しかったら私の子どもを売ってあげるよ。」とききました。
私の両親にとって自分の子供は大切なものじゃなかったのでしょう。
たぶん動物と同じと思っていたと思います。
どうして私の両親は自分の子どもを売るのか私は知りたいです。
私のきょうだいは5人います。4人は両親が売りました。でも私は運が
よかったのです。おばは両親が子どもを売ってしまったことを知ってい
ました。
そのときおばさんは両親を叱りました。「なんで自分の子どもを別の
家族に売ってしまうの?」
おばさんは両親と話してから私を自分の家に連れて帰りました。
おばさんの生活はあまりよくないので私の将来を考えて「スナーダイ・
クマエ」という施設に連れていきました。
そこは子どもたちの将来のために無料で勉強をさせるとてもいいところです。
「スナーダイ・クマエ」に私を送ってからおばさんは家に帰りました。
そこに入ってから英語や日本語などを勉強させてもらって本当にうれし
かったです。
それからもう14年です。今、私は18歳で今でも「スナーダイ・クマエ」に
住んでいます。
毎日勉強を頑張っています。
初めてここに来てから今まで日本人のお母さんが色々なことを助けて
くれています。彼女に恩返しがしたいので私は一生懸命お手伝いとか
勉強とか色々なことをがんばっています。今は日本語の先生がいないので
自分で勉強します。
話したいときはできるだけ話します。先生がいなくても自分でがんばったら
いつかできると思います。
皆さん、じぶんがやりたいことがあったらやってみてがんばって下さい。
なせばなると思います。皆さん、なんでも負けないでがんばりましょう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
私がシェムリアップに住み始めたのは2000年。
そして私が初めて自分の判断で施設に入れた子どもがチョムランです。
当時5歳と言われていましたが、生年月日もわかりませんでした。
(カンボジアでは今でも農村部に行くと生年月日不詳のことが多いです)
私は「この子は実家が貧しくて売られていたんだ」と聞いていました。
今のカンボジア生活はこの子が入ってきたのとほぼ同じに歩んできた
とも言えます。
チョムランは体は小さく、学校の勉強も苦手でした。
小学校は何度も落第し、中学校の卒業試験にも1度落ちています。
それに合格できないと高校に進学ができないので、そのときに彼にきいた
ことがあります。
このままもう一度中学3年生をするのか、職業訓練を受けて働くか。
チョムランは迷いなく「僕は勉強したい」と言ったのを覚えています。
勉強が苦手で、成績も悪く、試験で落ちることもよくあった彼ですが
学校も勉強も「嫌い」ではなかったのですね。
私は「もう一度だけ中学校に行ってもいいけど、今度試験に落ちたら
将来についてもう一度私と一緒に考えましょう」と答えました。
限られた予算の中で子どもたちを養育し、そんなに余裕のある運営をして
いるわけではありません。
もちろんチョムランもそのことはわかっていたと思います。
そして2度目は卒業試験に合格し、高校生になることができたのです。
彼よりもずっと後でここに入ってきたラタナーと同じ学年になりました。
ちょっと他の用ができて席を離れるので、また次回続きを書きます。
2014/09/05
過ぎたときから贈られてくるもの その3
施設を卒業した子どもたちはここで身につけたことや勉強したことを活かして
自立した生活を送っています。
ブンヤーはその子たちと自分の今を比べて、恥じているように思えました。
「おかあさんにずっと会いたかったけど、恥ずかしくて会えなかった」
そんな思いを抱えてもやっぱり会いたいと思ってくれたブンヤー。
思っただけではなく、本当に会いに来てくれたこと。
ときおり目を潤ませながら、昔のことや今のことを隠さずに話してくれました。
恥ずかしいことなんてないです、私にとって一度でもここで一緒に暮らした子は
みんな同じです。
最後に立ちあがったとき、彼を抱きしめて「ごめんね」としか言うことができま
せんでした。
彼は「おかあさん・・・」と小さい声で言っていました。
今年になって初めて小さい子どもを抱きしめることができましたが、それも
あってかブンヤーを抱きしめることに抵抗はありませんでした。
あのとき自分がブンヤーに対してもっとできたかもしれないことを
取り戻すような気持ちでした。
未熟さのために彼らに十分できなかった経験から、今の子どもたちに関わる
一つ一つを丁寧にしようと思うようになりました。
出ていってしまった子どもたちへの「ごめんね」という気持ちは今でも持ち続けて
いたことでした。
そのときの自分のいっぱいいっぱいでやってきたけれど、今の自分ならもっと
違う方法を考えたかもしれないと思ってしまうことがあります。
一つ一つの出来事に振り回されてしまうことが多いけれど、その集合体が
のちの大きな流れとなっていくことを思えば、何事にも丁寧に向き合おうと
思えるのかもしれないですね。
この再会が一層その思いを強くさせてくれました。
ブンヤーとは電話番号を交換しました。
これでまたいつでも会える、かな。
| お互いにちょっとだけ歳をとりました 笑 |
なにもかもが精一杯だった20代の私よりも今は少しマシに、そんな自分に
なれていると思うので、またブンヤーとの関係を形作っていきたいと
思っています。
最後にずっと遠くもなく近くもない場所にいてくれたチョムランが言いました。
「おかあさん、ぼく、せんぱいとまたあえて、うれしいです」
| チョムランの成長ぶりにブンヤーも驚いていました |
ブンヤーが出ていったあの日が今日という日につながっていたことなど
そのときは考えることもできませんでした。
ブンヤーがくれた再会という贈り物に私はこれからどんな形で応えていけ
るのか、また一つここでのやりがいを見つけたような気持ちです。
(おわり)
2014/09/04
過ぎたときから贈られてくるもの その2
食堂のすぐ横にある語学教室には見慣れたチョムランの背中。
その背中にそっと寄り添うように一人の男性が座っていました。
ブンヤーーー!!
思わず名前を呼び掛けてしまいました。
あのときと変わらない笑顔で「コンニチハ」と日本語で挨拶するブンヤー。
少し大人になったような気がしたけれど、私にとっては前回の記事に載せた
写真と変わらぬ少年がそこにいました。
チョムランが何かを察するように私たちを食堂へとうながしてくれました。
ここにいた頃は学校の成績もそれなりによく、日本語の習得もなかなかの
ものだった彼。
残念ながら中学3年生で学校に行くことをやめ、うちを出て田舎に帰って
しまいました。
日本語は少し覚えていたものの、会話のほとんどはクメール語でした。
聞くともう今年で29歳になったとのこと。たしかに10年以上も経つのだから
当たり前なのですが。
うちを出たときは(もちろん両親の承諾がありました)実のお母さんからかなり
失望されたそうです。
そんな状況が耐えられなかったのか、その後彼は単身でタイに出稼ぎに
行ったと話していました。それも6年間も・・・。
今年に入ってカンボジアからの出稼ぎ労働者が数万人単位でタイ警察の
取り締まりにあい、強制的にカンボジアに帰還させられていましたが、彼も
その中の一人だったとか。
今は友人の手伝いでときどき車の運転をしているだけで定職はないと話して
いました。
私が離婚したことを告げると一瞬絶句して目を閉じていました。
そして開いた目には「でもどうしておかあさんは今でもここにいるの?」と
問いかけているようでした。
「みんなが助けてくれるからだよ。子どもたちが好きだし。」
尋ねられたわけでもないのに私がそう答えると、深くうなづいていました。
「なんで・・・ブンヤーはあのとき出ていったの?」
ずっと聞きたかったことを思いきって聞いてみたのはそんな会話のあとでした。
訪問してくる皆さんや講演を聞いて下さったことがある方はご存知かと
思いますが、私がここに来てから数年間は子どもたちの中でいさかいが
絶えませんでした。
それに漏れずに彼もどうしても仲良くなれない子がいたのです。
ある日その彼とブンヤーがケンカになったとき、ちょうど当時代表を務めて
いた私の元夫がプノンペンから施設の様子を見に来ていました。
勉強はできてもお手伝いなどをさぼり気味のちょっと悪ガキだったブンヤーは
深く理由も聞いてもらえずに一方的に謝るように怒られたというのです。
大人の前ではいい子を演じていた(とブンヤーは言います)仲の悪かった子を
日ごろから忌々しく思っていたブンヤーは謝ることができませんでした。
たしかに当時はそういったケンカがほぼ毎日、そして仲の悪い子たちの間には
交わることを拒むような見えない壁が存在していました。
私は前の夫と指導の仕方でよくぶつかりました。(悪口ではありません)
まずは話して聞かせるようにしていた私は前の夫から「そんなやり方は
ここでは通用しない」と小馬鹿にされていました。
それでも私は彼のやり方とは違い、怒鳴らない、殴らない、とにかく感情を
ぶつけて「怒る」ことはしない、と心に決めていました。
しかし一度かたくなに閉じてしまったそのときのブンヤーの心を開くにはまだ
十分な信頼関係がなかったのかもしれません。
古いスタッフなら知っていますが、私はまったく話さない子どもを前に何時間
でも話すまで待ったことが何度もあります。
でもそのときブンヤーはただ「田舎に帰りたい」と繰り返すだけでした。
あまり公言したことはないのですが、そのころ私は夫が怖かったのです。
感情的に怒鳴ることも多く、若かった私もそれに応酬することがよくありました。
そして次第に彼のそんな性格に疲れ(向こうも思っているでしょうね笑)
顔色を見ながらできるだけ怒らせないようにしてしまっていました。
彼のやり方に疑問があっても言えない、言ったあとの彼からの暴言で
自分が傷つくことを避けるようにしていました。
当時の様々な状況や私の未熟さも、ブンヤーが出ていく原因の一つだった
のだと思います。
(つづく)
2014/09/03
過ぎたときから贈られてくるもの その1
もう9月ですね。全然更新しないことをむしろウリにしよかと思う今日この頃。
マニアの皆様お待たせしました、約1カ月ぶりの更新です。
書こうと思っていることはいくつかたまっているのですが、すべてタイミングが
ありますので、何かが降りてきた瞬間でないとまったく筆が進みません(笑
思っていることはちょっとそのまま置いといて、今日書きたいと思ったことを
綴ってみます。
そして久々に連載形式にしてみようかと・・・。
そうすれば書かざるを得ないという・・・(笑
すみません、つべこべ言わずに書きます・・・。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
2000年4月末、まだ酷暑期の暑さの残るシェムリアップで私の新生活が
始まりました。
1998年から始まっていた施設の活動の中にいきなり入ってきたニホンジンの私。
子どもたちは25人前後いたと記憶しています。
あの頃ここにいた子どものほとんどが貧困農村出身、実家は子だくさんゆえに
養育ができないという理由で預けられた子たちでした。
「親がいるのになんで施設に来るのだろう」というのが正直な私の感想。
とはいえ、目の前に子どもたちがずらっといるわけで、そこから突き詰めて
考えている暇などありませんでした。
劣悪な衛生環境、栄養の不足した日々の食事、そしてなんといっても一緒に
暮らしているにも関わらずそれはそれは仲の悪い子どもたち・・・。
目の前の問題に対応するだけで終わっていく毎日でした。
今の施設を訪問した方にはまったく想像もできない、そんな場所。
2001年から2004年ごろまでの間に子どもたちがあいついで田舎に帰ってしまう
という事態が起きました。
親の都合で施設に入れられ、私が来たことで規則や時間割もできた暮らしが
窮屈だったり、あるいは一緒に暮らす子との折り合いがつかないなどの理由が
あったのだろうなと今は思います。
当時はなんとか環境をよくしようと必死だったので、そんな中で出ていってしまう
子どもたちに対して冷静にその心の中を見つめる余裕はありませんでした。
昨日の夕方スタッフが私を呼びました。
「博子さん、昔うちにいた子があなたに会いたいと訪ねてきましたよ」
数ヶ月前、あることがきっかけでその子と再会した卒院生のラーヴォから
こんな話を聞いていました。
その子とバイクで二人乗りしていたとき、彼はラーヴォに言ったそうです。
「おかあさんは元気にしているのか」、と。
そして、「僕のことは覚えてるか、会いたい・・・」、と。
ラーヴォは「おかあさんが忘れるわけがない、会いたければ会いに行って
みたらいい。きっと受け入れられるはずだから。」と答えたそうです。
彼とお別れしてからもう10年以上が経っています。
とても人懐っこくて、気がつけばそばにいたように思います。
感情がすぐに顔に出るので、誰かとけんかした時の険しい顔やうれしいときの
本当にニコニコした笑顔はよく覚えています。
彼は写真の右はじ、黄色と白のしましまの服を着た子の後ろにいる
茶色いTシャツの男の子です。
少し緊張して彼が待つ階下の食堂に行きました。
(つづく)
マニアの皆様お待たせしました、約1カ月ぶりの更新です。
書こうと思っていることはいくつかたまっているのですが、すべてタイミングが
ありますので、何かが降りてきた瞬間でないとまったく筆が進みません(笑
思っていることはちょっとそのまま置いといて、今日書きたいと思ったことを
綴ってみます。
そして久々に連載形式にしてみようかと・・・。
そうすれば書かざるを得ないという・・・(笑
すみません、つべこべ言わずに書きます・・・。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
2000年4月末、まだ酷暑期の暑さの残るシェムリアップで私の新生活が
始まりました。
1998年から始まっていた施設の活動の中にいきなり入ってきたニホンジンの私。
子どもたちは25人前後いたと記憶しています。
あの頃ここにいた子どものほとんどが貧困農村出身、実家は子だくさんゆえに
養育ができないという理由で預けられた子たちでした。
「親がいるのになんで施設に来るのだろう」というのが正直な私の感想。
とはいえ、目の前に子どもたちがずらっといるわけで、そこから突き詰めて
考えている暇などありませんでした。
劣悪な衛生環境、栄養の不足した日々の食事、そしてなんといっても一緒に
暮らしているにも関わらずそれはそれは仲の悪い子どもたち・・・。
目の前の問題に対応するだけで終わっていく毎日でした。
今の施設を訪問した方にはまったく想像もできない、そんな場所。
2001年から2004年ごろまでの間に子どもたちがあいついで田舎に帰ってしまう
という事態が起きました。
親の都合で施設に入れられ、私が来たことで規則や時間割もできた暮らしが
窮屈だったり、あるいは一緒に暮らす子との折り合いがつかないなどの理由が
あったのだろうなと今は思います。
当時はなんとか環境をよくしようと必死だったので、そんな中で出ていってしまう
子どもたちに対して冷静にその心の中を見つめる余裕はありませんでした。
昨日の夕方スタッフが私を呼びました。
「博子さん、昔うちにいた子があなたに会いたいと訪ねてきましたよ」
数ヶ月前、あることがきっかけでその子と再会した卒院生のラーヴォから
こんな話を聞いていました。
その子とバイクで二人乗りしていたとき、彼はラーヴォに言ったそうです。
「おかあさんは元気にしているのか」、と。
そして、「僕のことは覚えてるか、会いたい・・・」、と。
ラーヴォは「おかあさんが忘れるわけがない、会いたければ会いに行って
みたらいい。きっと受け入れられるはずだから。」と答えたそうです。
彼とお別れしてからもう10年以上が経っています。
とても人懐っこくて、気がつけばそばにいたように思います。
感情がすぐに顔に出るので、誰かとけんかした時の険しい顔やうれしいときの
本当にニコニコした笑顔はよく覚えています。
| 当時のみんな 少しずつ仲良くなり始めた頃・・・ |
茶色いTシャツの男の子です。
少し緊張して彼が待つ階下の食堂に行きました。
(つづく)
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