夫がシェムリアップに「スナーダイ・クマエ孤児院」を作ったのは
1998年。
その前から「ダイ・トイ」(小さな手)という任意団体を作り、地域の
子どもたちに勉強を教える塾のようなことや、休日に遺跡周辺の
清掃活動をしているということは聞いていました。
私がカンボジアに初めて行ったのは知人の誘いで、その方が
支援して寄付したある中学校の校舎の落成式に参加するため
でした。
カンボジアがどこにあるかもよく知らなかったけれど、アンコール
ワットという遺跡があることだけは知っていて、そこに行ってみたい
という単純な動機。
大学を卒業する1997年2月のことです。
その校舎建設の現地カウンターパートを務めていたのが夫。
1980年にカンボジア難民として来日し、中学校から大学院までを
日本で過ごした彼は日本語には不自由ありませんでした。
孤児院を作ろうと準備していた頃は日本政府のアンコール遺跡
救済チーム(当時のJSA、現在のJASA)で通訳をしていた夫。
シェムリアップに住み続け、仕事と孤児院運営をしようと思って
いたそうですが、家庭の事情で出身地のプノンペンに戻る理由が
でき私と知り合ったときにはプノンペンにある日系ゼネコンに
勤務していました。
シェムリアップで活動を始めかけていた孤児院は現地スタッフに
任せて週末だけ様子を見に行くという生活。
日本に住んでいたこともあり、孤児院運営にかかる費用を日本の
方に支援して頂いていると聞いていました。
最初はプノンペンで暮らしていた私がシェムリアップ行きを決めたのは
「ここなら自分にできることがあるかもしれない」
と思ったから。
大学では会計学のゼミに所属していたもののできの悪い学生だった
私には特に自慢できるような専門はなかったけれど、日本の支援者の
方へのお礼や報告などはできるのではないか、そのためには現場に
いたほうが状況の把握がしやすいという考えでした。
なにもすることがないプノンペンでの生活に飽き飽きしていた私には
それしか選択肢がなかったといえるかもしれません。
私が作った孤児院ではありません。
夫が自分なりの思いがあり設立した施設です。
あとで知ったのですが1998年政府へのローカルNGO登録の際には
私もスタッフとして名前が記載されていたそうです。
とにかくこのプノンペン生活から逃れたいという一心でしたが、そこまでは
夫には言わず「シェムリアップに息子と移住したい」と伝えました。
今のシェムリアップからは想像もできない超ド田舎だった当時のシェムリ
アップ、治安などの面を考えてもプノンペンよりは安心というのが
夫の答えでした。
そしていよいよシェムリアップに移動するその日を迎えました。
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