2020/01/17

今年もこの日が来ました

1月17日は生涯忘れることがない日。
併せて1月7日も。

1月7日は16年前に亡くなった母の命日です。
そして偶然ですがカンボジアでは虐殺政権からの解放日。

1月17日は阪神大震災の日。
今年であれから25年が経ちます。



今カンボジアの時間で午後6時前ですが、日本では午後8時前。
25年前の今日のこの時間、大学生だったわたしは当時避難所になっていた本山第1小学校の校舎から、母校である甲南大学の避難所に移動していました。

その少し前、夕方ごろだったように記憶していますが、本山よりも少し南西の方で火事がありました。
友人と2人で被害の状況を見ているときでしたが、消火活動の人手が足りなかったので、すぐに自分たちも手伝いに入りました。
火事というのはあっという間に火の手が回るというのをそのときはじめて目の当たりにしました。そしてとても熱かったあのときの熱風の感覚を、自分の皮膚が覚えています。

消火活動が一段落してから避難所に戻りました。
自分の住んでいた部屋は大丈夫だったのですが、人がたくさんいるところにいないと心細くて怖かったのです。
市の職員らしき方々がおにぎりなどを持ってきてくれましたが、絶対的に数が足りていなかったので大学生だったわたしは遠慮し、お年寄りや子どもたちを優先してもらいました。
学校の教室の引き戸を誰かが開け閉めするたびに、ガラガラという音におびえました。
地震が起きたときと同じような音に思えて、聞こえると体が震えました。


自分の中には震災というものが、そんな細かいことも記憶として刻まれていて、1月になるといつも同じことばかり思い出します。
話を始めるときりがないくらいに些細なことも口をついて出てきます。


6000人以上の方が犠牲になりましたが、その方々のご家族、ご友人など関係者にもわたしと同じようにそれぞれの記憶があるのだろうと思います。


和歌山にたどり着いたとき、わたしは地元の最寄り駅で泣いていたそうです。
「全部なくなった」と言って泣いていた、と母から言われました。

その日の夜は母と同じ布団で寝ました。
部屋のあかりはつけたままにしてもらいました。

1月7日母の命日が来ると、このときしばらく一緒に添い寝してもらったことを思い出します。
そして母に話しかけます。
「もうすぐまた震災の日が来るね」

1月17日が来ると毎年静かに思います。
「日々を丁寧に生きよう」

あのとき生き残った自分にできるのは、これからも丁寧に生きていくこと。
いつか母に会える日が来たら、「見ててくれた?」と聞きたいなと思っています。


2019/12/28

やっぱり2019年最後に・・・(長いですよ)

先日、令和元年最後の投稿と書いたのですが、やっぱりもう一回書きます。
マイペースです(笑


2019年は平成と令和が混在している1年となったわけですが、来る2020年からは完全に令和になりますね。

だからというわけでもないのですが、なんとなく今年の間にモワっと思っていたことを書いて、すっきりと新年を迎えたいなと思いまして。



今年1年を振り返ると、執着心、について考えさせられることが多かったように思います。


わたしは人にも物にも執着心がないので、友人には自己肯定感が強いからじゃない?と言われたことがあります。

そもそもなぜ今年それについて考えたかというと、私自身ではなく、赤の他人様がいろいろなことに執着している(ようにみえるといってもいいけど)場面に出くわすことが多くて、「しんどいだろうな」と思っていたからです。

わたしが「しんどいだろうな」と思うのは、まぎれもなく過去の自分がそうだったからです。
だからもともと自己肯定感が強かったわけでもなんでもない(笑
かといってなにか強烈なコンプレックスを持って生きてきたわけでもないので、そういうふうに育ててくれた親には感謝しています。


なにかに執着した経験を思い出すと、しんどさしか蘇ってこないです。


じゃあなんで色々なものに執着しない自分になれたんだろうかと思うと、やっぱりカンボジアに来たからなんだと思うんです。
カンボジアに来たから、というか、ここに来てからいろんな経験をして、そこから導いた答えの中に、執着しないほうが自分も楽だよ、ということがあるんでしょうね。

で、今年は他人様が執着心まるだしで行動してるのを見てたり、ときにはこっちに矛先が向くようなことも色々とあったんですが、正直しんどかったですね。
見てても、こっちに向かってきても。

つまりそういうのを傍から見てて「しんどそうやな」と思うと同時に、自分も「しんど・・・なにこれ」と感じてたわけですね。



しんどいなあと思うこと、この20年たくさんあったけど、振り返るとほぼほぼ執着心から来てたような気がするので、人間ってすごいですよね、しんどくならない方法を知らないうちに身につけてきたというか(笑
この20年、いや前半の10年間くらいなのかな。そこから徐々にそういうのがなくなって、今に至るのか。

人は急に変わりませんからね。
いやー、そうやとしてもわたし、かしこいな。
うん、かしこい。
誰も普段褒めてくれんから自分で褒めとこ。

まあ、自分と同じ人間はこの世に2人といないので、わたしがそうやからって他人もそうなるとは言えないし、みんなそれぞれ違うわけなんですけど。
それにわたしのいうことが正しいわけでもないし、わたしが自分で勝手にかしこいと思っているだけやし。

とにかく、なんにしても執着心を持っている人を見てて、自分も「しんど・・・」ってなるなら、見るのやめようと思います。そっと離れます。


完全なる令和の時代到来に向け、自分にとってあまり意味のない「しんど・・・」とは決別いたします。

歳を重ねるにつれ、楽しく生きたいなと思うようになりました。
歳とる(老いるという意味で)のも嫌じゃないし、怖くないし。実際楽しいなと思ってるので、この調子でいきたいな、と。

自分のことが好きやな(あかんとこも含めて自分やし)とおもえる自分が幸せなんやなって思います。

何の話やったかな・・・。

そうそう執着心。
もし一つだけ自分の中に密かにある執着心を挙げるとしたら・・・。

うちは一人息子やということもあるし、自分の親が思ったよりも早く死んじゃったということもあるし、なんか親として息子とできるだけ長くいたいなという気持ちは強いです。
お母さんともっと長く一緒にいたかったんで(マザコンです)。
あ、お父さんも(笑

だからたぶんそれは「寿命」なんでしょうね。

すごいさらっと書きますけど、わたしは国(日本)が難病指定している病気の患者なので、わりと健康には気を付けています。
だから逆に長生きできると思うんですよね。(ポジティブ)


息子命、な母ですが、本人に言うと呆れそうなので、ここにひっそり書いておきます。
これからあの子がどんな大人になっていくのか、ずっとずっと見ていたい。(執着心丸出しすぎる笑)



年末にちょっと真面目に考えて、来年はどうしようかなぁという時間を持つこともいいですね。

わたしはいつもぼわっと、なんとなくこうしようかなあという考えを持つようにしています。
そうしてるとだいたい自分の思う幸せな方に向かっていけてるので。

良くも悪くも様々なものごとに寛容な社会であるカンボジアで、来年も皆さんにはお世話になって、ときには自分もなんか役に立てることがあれば・・・、生かされていくのだろうと思います。

これ読んで、結局何が言いたいねんと思った方、長文読んでもらったのにすみません。
たぶん感性が違うだけなので気にしないでください。

なんかふわっとわかるわーと思ってくれた方、ありがとうございます。


来年は、より多くの人があるべき方向に導かれ、自分らしく幸せな日々を過ごせる1年になりますようにという神目線で今年最後のブログを締めくくりたいと思います。


今年も関わってくださった皆様ありがとうございました。
意味もなくわたしに迷惑をかけてきた皆さん、さようなら。

それでは、皆様よいお年をお迎えください。


2019/12/15

宣伝みたいで恐縮なのですが・・・

令和2度目の投稿が令和元年最後の投稿になりそうです。
いつもながらマイペースです。


今日は今年お声がけいただいた講演のまとめを・・・。
12月となり、今年の記録を残しておこうと思いました。


★関西学院大学国際学部(兵庫県)


★りら創造芸術高等学校(和歌山県)

★神戸親和女子大学(兵庫県)


★静岡県立大学学生NGOあおい(静岡県)


★飯田市鼎公民館(長野県)

★共和病院(愛知県)


★大阪西南ロータリークラブ(大阪府)

★和歌山県立星林高等学校同窓会(和歌山県)


★福島成蹊中学校(シェムリアップ)

★ウォーキングツアーご一行様(シェムリアップ)



写真がないのですが、吹田市立豊津中学校でもお話させていただきました。(先生から写真が届きません・・・)
それぞれの場所でたくさんの方々にお世話になりました。ありがとうございました。


日本ではもちろんですが、カンボジアにいるときでもご要望があれば講演させていただいています。(施設訪問とは別になります)

テーマはご要望にお応えしています。

来年も帰国時にこういった機会をいただけそうで、各所からご連絡、お問い合わせをいただいております。
ご興味のある方は下記アドレスまで気軽にご連絡ください。


それでは皆様、よいお年をお迎えください。

来年もマイペース更新になりますが、よろしくお願いいたします。

2019/05/05

一番のおともだち

早くも令和最初のブログ更新です。
褒めてください(笑


昨夜、カンボジア生活の苦楽を10年以上にわたって共有してきた友人とその娘さんと食事しました。

娘さんとは生まれたときからのお付き合い。
と、わたしが勝手に言ってるだけですが・・・。
初めての出産子育てで友人が大変だった時、わたしがどれだけ役に立ったのかはわからないけど、気休めくらいの存在ではいられたかなと自負しております。

そんな娘さんも、もう中学生になりました。

とてもシャイで、たまに御飯に行っても静かにしていて、私と話すことはほとんどありません。
もう少し小さいときはわたしが変顔をすると、静かに微笑んでくれていましたが、最近は彼女も大人びてきたので、わたしも変顔は控えています。

そんな彼女がなんだかもじもじしながらお母さんに向かって、「今出していいの?」と聞いています。
レストランで席についてすぐのことでした。
お母さんにうながされ、出してくれたのがこれです。

これはまさか・・・
最初FRIENDと書かれたほうだけくれたんですが、それでもそれがなんなのかわたしにもわかりましたよ。

お母さんがすかさず「自分の方も見せてあげないと、ひろこちゃんにわかりにくいよ。」と言ってくれたので、もう片方を出してくれてドッキング。

BEST FRIENDのハートができました。

去年かおととしくらいのことだったと思うのですが、市内のインターナショナルスクールに通う彼女が、

My best friend in Siem Reap is ひろこちゃん

と言ってくれたことがありました。


うれしかったのでずっとそのことを覚えていました。


とはいえ、もう中学生になった彼女がいまだにこんなふうに思ってくれていたなんて・・・。

シャイでほとんど話すことのない彼女がそんなふうに言ってくれるというのは、きっとわたしと自分のお母さんの関係を見てくれているからなんだと思います。
友人とはしょっちゅう会うわけではなく(彼女は仕事が忙しくてなかなか会えないのです)、数か月に一度の会食を楽しみにするような仲です。
子どもって自分のお母さんを大事にしてくれたり、本当にきちんと付き合っている人のこと好きになりますよね。
わたしが子どものときはそうでした。
表面上だけの人って子どもでもわかるんです。

だからこれは娘さんとわたしの友情の証であると共に、彼女のお母さんとわたしの関係を認めてくれている証でもあるわけです。

カンボジアに長年住んでいるわりには、交友関係はあまり広くなく、とっつきの悪い人と思われているかもしれませんが、わたしが求めているのは広く浅くの関係ではなく、こういう人間関係なんだと改めて感じさせてもらう出来事でした。

子どもに教えられることってほんとにたくさんあります。

あと、子どもの視点も。
しっかり大人のことを見つめている、ということを忘れてはいないなと思いました。

ありがとう、一番のおともだち。

2019/04/30

平成最後の ←言いたいだけ

平成最後でも令和最初でもええやんと思っていたのですが、令和最初はいつでも書けるけど、平成最後は今日しかないかと思い直して書き始めました。


わたしが初めてカンボジアの地を踏んだのが1997年、平成9年のことです。
昭和が終わるときはたしか中学3年生だったのかな。
ちょっと話がそれますが、この年に昭和の歌姫・美空ひばりが亡くなって、子どものくせに妙に悲しみにふけっていた時、クラスのイケイケの女子に「ひばりちゃん亡くなったなあ、さみしいわ」と言われて、このイケイケ女子もひばりちゃん好きやったんか!と驚いたことだけは鮮明に覚えています。
ひばりちゃんが亡くなって昭和が終わった・・・という感覚を持っている人もたくさんいるのではないかと思います。

わたしたちは昭和後期の記憶もはっきりあり、平成も初めから終わりまでちゃんと覚えている世代になるんですね。
そんなことあまり考えたことなかったけど。

そしてその平成の三分の二くらいはカンボジアで過ごしたことになります。

だからわたしは平成時代の日本を肌で感じる機会が少ないままに、今に至りました。


先日平成生まれの(息子と同い年)若者二人が施設を訪問してくれたのですが、そのときにこんな話をしました。


「イマドキの若者は」という言葉、これってどの世代も若いときに必ず言われるものだと思うんです。
そのときそれを言う人が物事を判断する基準は、自分たちの生きてきた時代なんですよね。
言い換えれば「自分たちの頃はこうだったのに」みたいな気持ちが強い。
まあ自分たちが一番と思いたいのは人の常なので、ある程度はいいんですけど。


わたしの母は戦後生まれ、父や叔父、叔母たちは戦前生まれでした。
母は親戚が集まったりしたあとに、よく「戦前の人たちの考えが自分には理解しづらいけど、教育の違いなんかなあ」と言っていました。
そして自分が開いていた茶道や華道の教室に来る若い生徒さんたちに「今の若い子はしっかりしてる。自分の考えをちゃんと発言できるし、わたしらの若いときと違うわ。」とも言っていました。

自分と違う世代の人たちを知ろうとか理解しようする気持ちが見て取れました。
特に若い人たちへの期待が。

自分たちはこうだったからと相手に押し付けると、相手はその時代を知らないから混乱するんでしょうね。
その人たちが生まれたころ自分は大人になっていたわけなので、その感覚のギャップを埋めようと思ったら、想像したり、その世代の人たちの話をたくさん聞くしかありません。

「それが足りないからいつまで経っても理解し合えないのだとしたら、若い人たちの話を聞いてみたいな。こっちの感覚を押し付ける前に。みんなにもわたしらのことを理解してもらいたいから。」と、彼らに話していました。

母の影響もあるし、平成のほとんどをカンボジアで過ごし、平成時代の日本を直接感じる機会が少なかったこともあるでしょう。
実際のところ、平成後半に生まれた人たちが、日本とか社会にどんな感覚を持って子ども時代を過ごしたのかは興味があります。

「今日はここまで来て、色々と話を聞かせてくれてありがとう」
という言葉が自然に出ていました。

そしてもう一つ。

イマドキの若い子たちを育てたのは誰なのか、ということを忘れてはいけないと思います。
あいさつができないなど礼儀がなってないという話もよく聞くけど、教えられてないからじゃないのかな。
もちろん実際にそういう人に会うと不愉快でムッとしてしまう自分がいるんですけど、落ち着いて考えると教えてもらってないことはできないし、教えなかった周りの大人の罪を感じたりします。
自分たちの時代がよかったと思うなら、それを下の世代に伝えないとね。
教えてもらえずに大きくなった人たちが気の毒でもあります。
反対にきちんとできる子にも会うんですけど、そのときは「ご両親、近くにいたであろう大人の皆さん、ありがとう」と思います。


毎日のなんでもない日々に当たり前のことを当たり前に積み重ねておかないと、10年とか20年経ったときに取り返しのつかない澱のようなものがたまってしまう、大人の責任ってこういうところにあるのかな、と。


取り返しのつかないと書きましたが、取り返しはつくんですよね、きっと。
それは今日からでも、そのなんでもない当たり前のことを積み重ねる日々を始めることなんです。

結果がいつわかるのかわからないことに取り組むのって難しいんですけど、自分と自分の近くにいる人への愛とか思いやりがあればできる、というか、やらないとね。
そのためにはなんでも他人事にしないで、自分は何ができるのかと考えで行動することが大切です。

明日から始まる令和をそんな時代にしたいなって思います。
地味に。淡々と。静かにこっそりと決意表明です。


2019/04/22

答えは自分の中に

SNSが身近なツールとなって久しく、なんでもかんでも思ったことをすぐに全世界に公表できるようになりました。

基本的に誰かを傷つけるとか攻撃するための言葉でなければ、全世界に思いのたけを叫んでも全然いいと思ってます。
あとはネガティブな感情は、わたしは書かないように気をつけてます。


わたしのような職業をしていると、自分の活動をお知らせするとき、ともすれば「誰かのために」とか上から目線に見えたり、自慢げな内容、不遜な表現になってしまう(そう受け止められてしまう)こともあるかもしれません。

わたしにとって、他人からそう思われることは穴に入りたいくらい恥ずかしい話なので、本当にそんなふうになりたくないと思っています。


伝えることって比較的やりやすいのですが、黙っていることって難しいのかもしれません。
昔がよかったというわけではないのですが、わたしが今の仕事を始めた頃にはSNSどころかインターネットもほぼ整備されていない状態だったので、誰にも知られずに黙々とやるしかなかったんです。
誰かに知ってほしいという欲求すらなかったです。

伝える術がお手紙かパソコンのメールしかなかったし、その瞬間に誰かの反応を知ることもありませんでした。


今は今日の子どもたちの様子をこの瞬間に皆さんにお知らせすることもできるし、そういう意味ではほんとに便利になったなあと思います。


そういうツールを持たない頃から今の仕事をしてきた私が、黙ってやることやってればいい、とか言うと「今はそんな時代ではない」とか「自分をどう見せるかを考えたほうがいい」とかいう意見もあるんですが。


わたしは・・・


本当に自分の等身大の姿を生身の人間として知ってくれている人が一人でもいる限りは、虚像みたいなものを作りたくないなあと思っています。

たった一人でも自分が大切に思う人に疑問に思われるような見せ方をしたり、現状を知っている人がいるのに事実よりも自分を大きく見せることで、その人たちから幻滅されたり、失望されるのは耐えられないなと思うんですよね。
いや、ほんまに、それは恥ずかしすぎる・・・ない、ない。

それと引き換えに、顔も名前も知らない人たちからたくさんの称賛を得て、なにになるんだろうとしか思えません。
そんなことで身近な友人の信頼をなくすことのほうが、とんでもなく怖いことです、わたしにとっては。


今取り組んでいること、悩んでること、それでも何とか進んでいること。
自分の持ち場があり、そこで真剣に向き合っている人は他の誰かの見えない部分を想像することができます。
全部言わなくても、黙っていてもわかってれる人がいるということです。

でもなあ、人間だから、言いたくなりますよね。

そんなときはやはり生身の人間に話すことが一番です。
しんどいねん・・・、と言える人がいるかどうか。
それが今の等身大の自分だから。



ずっと前にこのブログに、父がわたしに「お前のことはお前にしかわからん」と言ったという話を書いたことがあります。
転じて、「知らない人が言うことは気にするな」という風にわたしは受け止めました。


「世の人はなにをぞ言わば言え 我が為すること我のみぞ知る」

という坂本龍馬の言葉から来ているのかな、と思ったりするのですが。
「龍馬のこういう言葉があってな・・・」と説明せずにいうあたりがうちの父らしさがあります。

なんでもかんでも言わないとわかってくれないたくさんの人からその時限りの誉め言葉を得るよりも、黙っていても理解しようとしてくれる人がいることのほうが、わたしにとっては幸せであり、大きな支えになるのです。


頑固で、わかりづらくて、怖そうとか言われるけど、わたしはそうだから仕方ないです。
自分を偽ること、本当の姿よりも立派に見せることって、他の誰よりも自分自身が一番つらいように思います。

便利なツールに使われるのではなく、うまく使って自分の本当の姿と子どもたちの今を知ってほしいなと思っています。

よくこのブログにも書いていますが、自分のやりかたと違うことをする人を否定はしません。
わたしはそう思う、ということを文字にしてみました。
なんか黙っていられなくて、わざわざ。



で、もう一つ黙っていられないことがありますのでここに告知します(笑

今年も子どもたちの絵画展開催します。
よろしくお願いいたします。

わたしは絵画展のために一時帰国するのですが、合間に色々なところからお声をかけていただき、講演会やおはなし会をする機会をもらっています。
(現時点で10会場ほど)

もしもまだほかにもお話をさせていただける機会があれば、受け付けておりますのでご一報ください。

2019/03/03

サイハー

卒業生にサイハーという男の子がいます。
一番手前が幼き日のサイハー

今は観光省発行のガイドライセンスを取得して、フリーランスのガイドとして自立しています。
最近彼女ができたらしく、SNSでは仲良さげな写真ばかり投稿しています(笑

今日、うちを訪問してくださったグループのガイドもさせていただいていたようです。

そのメンバーの方にこんなことを教えてもらいました。
サイハーが話したことらしいのですが・・・

スナーダイクマエを卒業できて本当によかった。
こんないい場所は他にないと思う。

ただし、それがわかるのは卒業してから。

子どもとして生活しているときは、お母さんが本当に怖かった。


怖かったと思いますよ、でもそれはやってはいけないことをしたときだけです。

子どもには媚びない主義なので(笑
(子ども以外にも、か・・・笑)

メンバーの方々は、気配りもしてくれて、とてもいいガイドさんだったと言ってくれていたのですが・・・。
卒業生大集合@わたしの部屋
この卒業生メンバーの中だと、一番頼りないのがサイハー・・・笑
いつもみんなに「大丈夫?」といじられています。

サイハーは両親の代わりに養育してくれていたおじさんに虐待を受けていた過去もあり、子どものときからかわいらしい顔とは裏腹に、その表情にはときどき憂いが見え隠れしていました。
自分の本音を容易には見せないようなところもあり、実際のところ、私にとっては少しわかりづらくやりにくい子どもでもあったんです。

そんなサイハーが、大人になった今、うちのことをいい場所だと第3者の方々に話してくれていたり、わたしのことが怖かったと本心を言ってくれたりすることが、わたしにとってなによりもうれしいことなんですよね。

答えはその時に出るわけではない、ということ。

ここにいるみんなの子ども時代に10年後を見据えた接し方を心がけていました、と今日の皆さんにもお伝えしたのですが、先にサイハーの話を聞いていたからか、余計に皆さんの心にも響いたようでした。

いわゆる大変なことっていうのは日々起きるのですが、こういう日があるとなんとなく幸せな気分になり、なんとなくごまかされて(笑)、また少しでも前に進む力に代わるんです。

幼少期、うちに来る前はつらいこともあったけど、今のサイハーは一人声を殺して夜中にひっそり泣いていた時のサイハーとは違います。
スナーダイクマエでたくさんの愛情を感じ育ち、今は人を愛することも知ってくれました。


今の子どもたちの10年後、どんな気持ちでスナーダイクマエを見てくれるようになるのかな。
それを楽しみにしながら、まだまだここでやっていくぞと思っています。





2019/02/19

先輩方からの言葉

ほんとに気ままに書いております、このブログ。
前回の投稿から一か月以上が経過(苦笑
無理して書くのは嫌なので、書きたいときに書きたいことを綴ります。


昨日、2018年度収支報告書が完成し、それをお伝えする意味もあり、メールで子どもたちの近況と共にお知らせを流しました。

すぐに何人かの方より返信をいただきました。

「スナーダイ・クマエが恵まれすぎている」という事は決してありません。
博子さんの血の滲むような努力の成果が、徐々に結実しているから素晴らしいのです。
内実をご存知の方は「この間のことを皆理解して下さっている」と、私は思います。

信じる道を歩まれる貴方の生き方が、子どもたちにとって、かけがえのない力です。
偉そうなことを書いて、ゴメンナサイ。
益々のご活躍を、深く深く祈っております。


スナーダイクマエには年間で数百人の訪問者が来られるのですが、たまに言われて返事に困る言葉があるんです。
それは「ここの子どもたちは他の家庭の子に比べて恵まれてますよね」という言葉。
それを言ってくださる皆さんがよい意味で発している言葉であることは、もちろん重々承知です。
でもとても困ってしまうのです。
外国語やパソコン、伝統舞踊などの教室、衣類や日用品、そしてみんなで暮らす立派な家。それらに恵まれていること、そしてそれを整えていく私たちスタッフへのお褒めの言葉であると、わかってはいるんですが・・・。

でも子どもたちは・・・本当の家族と暮らすことができない・・・

まずはこれが前提としてあると、私は思っています。
きっとさみしくて泣きたいときもある、そんな毎日の中で子どもたちが笑って過してくれることで、私たちスタッフがどれだけ救われるか。

こんな気持ちで毎日毎日を積みかさねていることを、すべて話さずとも理解してくださる方がいることは、どれだけわたしの力になるでしょう。



「クメール人による」日が着実にやって来るのだなあ、と強く感じます。
博子さんががっしり四つに取り組み 踏ん張って 
やってきたこと築き上げてきたことの全貌が現れることを 
この目で見たいので、もうちょっと生きていたいです。

これもうれしかったですね。
わたしがやっていることをまだまだ見続けたいと思ってくださる先輩がいる。

全く接点のないお二人からのメールだったのですが、どちらからも年下に対する広く温かい心を感じました。
行間からあふれ出る愛があると思いました。


気づけばカンボジア移住して20年です。
住み始めた頃、自分よりも年上の在住者が多かったのに、今では圧倒的に年下の方が多いという年齢になりました。
わたしもこのお二人のように、ひたむきに自分のすべきことに取り組んでいる人たちを大きな心で応援できる人になりたいなと思います。

先輩からもらったものは後輩につないでいかないといけませんね。
表面的に持ち上げられて喜ぶ人間にだけはなりたくない。
それに乗じて意味もなく年下の人の足を引っ張ることでしか自分の存在を確認できないような人にもなりたくないですね。

でも媚びることもしません。(笑

年齢にかかわらず、いいものは素直に褒めて喜ぶ人でいたいと思いました。
先輩方に改めて気づかせていただきました。
ありがとうございます。

うちの神様たちです



2019/01/09

1月7日

今から14年前の2005年から2006年の年越しはカンボジアで過ごしていました。

年が明けて1月8日、父から電話があり、1月7日に母が亡くなったと言われました。
元旦には母から電話もありましたが、他の人たちと会っている最中だったので、会話もそこそに切ってしまっていました。今となっては心残りでなりません。

父から伝えられる事実がなんのことかまったく理解できず、それを全身で拒否する自分がいた感覚を今でも思い出すことがあります。

その日から数か月間の自分の記憶が今でも曖昧です。

父の電話を受けて、翌日の便で息子を連れて帰国しましたが、どうやって関空までたどり着いたのか本当に覚えていません。

母はとても元気な人でした。
茶道と華道の講師をしていて、和歌山にある世界遺産熊野古道の研究もずっと昔からしていたので、古道を歩く方々のガイドをすることもありました。
母が亡くなったのは、その熊野古道を案内した直後のことでした。

わたしは幼いときから母が大好きでした。
父と母がケンカしても、理由はどうあれ無条件に母の味方でした。
学校のことやその日に起きた出来事は、なんでも母に聞いてもらいたかったし、母の考えを聞く時間も大切に思っていました。

でも思春期になったころ、少しだけ母を避けるようになりました。
茶道、華道の教室には当時何十人ものお弟子さんがいて、先生と慕われている母を見ていると疎ましい気持ちになりました。
今思えば、それはたぶん母を取られるような気持ちだったからなのかもしれません。
そして母をかなうはずもないのに、ライバルのように思う自分もいました。

結局は母が好きすぎて、そういうふうになったんだろうなと、今は思います。

シェムリアップに移住し、まったく教育されていない子どもたちに、生活習慣を1から教える日々になった時、気づいたことがあります。
それは、自分がいかに丁寧に育ててきてもらったか、ということです。

掃除、洗濯、片付け、食器洗いなどの家事を細かく子どもたちに教えながら、なぜ自分は自然とできることがこの子たちはできないんだろうと思いました。
教えてくれる人がそばにいなかったから、答えはそれしかありませんでした。
子どもたちが知らないことを知り、それを吸収すればするほどに、母の丁寧さを感じていました。

ようやく子どもたちに基本的な生活習慣や他者の気持ちを考えて行動することなどが定着し始め、この様子を母にも見てもらいたいと思っていたころに、母が亡くなりました。

そんなわたしに「今も見てくれているよ」と言葉をかけたくなる人もいると思います
それはもちろん善意からですし、言いたくなる気持ちはよく理解できます。
それでも、「でももういないんだよ、会話がしたい、母の考えを聞きたい、まだまだ教えてほしいことは山ほどあった、それはもう一生叶わないんだよ」という気持ちになってしまうことも否定できないんです。
それだけ深い悲しみがあります。

母が亡くなって13年が経って、2014年に父も亡くなりました。
あまり好きではなかった父でしたが、母が亡くなってからはわたしの心のよりどころになってくれていたので、二人とも早すぎるでしょう、といつか会った時に言いたいと思っています。

息子が反抗期の頃、わたしは自分が母を嫌った時期を思い出していました。
子どもたちと接するとき、息子はそれをどう思って見ているんだろうという思いはいつも頭の片隅にありました。
お弟子さんたちをとても大切にしていた母も、もしかしてわたしが息子を思うような気持ちを持ちつつ、お弟子さんたちに接していたのかもしれないと、息子の成長と共に思うようになりました。

息子は今、私と離れて日本で暮らしています。
時々電話で話すこともあるのですが、よっぽどでないかぎり、話をそこそこにして切ってしまうことはしないようにしています。
息子も同じ気持ち、いやわたし以上にそうしてくれていると思います。


今でも問題に直面したとき、母だったらなんと言ってくれただろうと考えます。
それを想像しながら答えを見つけようとします。
時が経って、自分のやってきたことに納得がついたときに、答え合わせが完了したような気持ちになります。
母が亡くなり、ずっとずっと大きな宿題を抱えながら、時折こうして答え合わせをして前に進んでいるような気がします。


母のことを尊敬していますが、一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、

死ぬのが早すぎた

ということでしょうね。


だからわたしは母と自分の生きてきた道のりを直接話したり、父と母に「早すぎたでしょう」と伝える日は、ずっと先にとっておきたいと思っています。
離れていた間に起きた出来事を山のようしておいて、話が尽きないように。
これからまだしばらくは、それをたくさん準備させてもらいます。


母からわたし、わたしから息子へ
つながっているものがあります

2018/12/27

明日を信じることができる

前回投稿からそんなに経っていませんが、今月中に書かないと今年が終わってしまうという焦りも少しあり、今日を今年の最後の投稿にしたいと思います。
自分勝手な投稿頻度にもかかわらず、お付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。



先日、神戸のある大学の先生と施設勤務をされている方が、ご自分たちの研究の参考にと訪ねて来られて、いろいろな質問を受けました。

施設の創立時から今に至る歩みを時系列に説明していく中で、色々な記憶がよみがえります。

そこで出てきたキーワードが「図らずも」でした。

うちの施設は1998年の創立時、貧困家庭から子どもを受け入れて養育していました。
2000年にわたしが働くようになり、詳細は省きますがどういった子どもを受け入れるのかについて向き合わざるを得ない出来事がたくさんありました。
そんな中、現在の虐待児の受入れに舵を切り始めて15年ほどが経ちました。

内部の細かいルールやスタッフの構成、子どもたちの受入れに関する手続き方法など、一度立ち止まってはそのときの最善を考えるということを基本に進めてきたつもりです。

そして今、それらが「図らずも」カンボジアの福祉政策などの時流に添ったものになっていることに気づきます。

現在は「貧困」だけを理由に子どもを施設で預かることは、国の方針として推奨されていません。
子どもを預かる際の手続きも、そこに子どもがいるからと言って勝手に連れてきたり、その日から勝手に住み始めるということもできません。
(うちは福祉局、警察、村長などの証明を出してもらい保管しています)

外部からの訪問者に関してもそうです。
うちはかなり早い段階(2000年代はじめごろ)から、アポイントメントがない方の訪問はお断りしていました。

年に2回、福祉局から抜き打ちの査察が入ります。
子どもたちの住環境や栄養状態など生活の基本から、教育環境なども徹底的に調べられるのですが、最近特に聞かれるのは、入所する子どものバックグラウンド、訪問者への対応、そして卒業生たちへのモニタリングです。

バックグラウンドに関しては、そもそも養育の要請があった際に福祉局の許可を得ていますので問題ありません。
訪問者はすべてアポなしお断り、訪問者記録もつけています。
卒業生のモニタリング3年なども、うちは卒業してからも普通に交流があるので、あえてしなくても近況は把握している状態です。

代表的な3つの事柄をここに書きましたが、それ以外の細かなところも「いずれ福祉局の取り締まりが始まるから」あるいは「取り締まりが始まったから」といって慌ててそうしたわけではなく、もともとやっていたことがチェックポイントに合致しています。

カンボジアの社会はここ10年でも大きく変化しています。
子どもたちを取り巻く環境がどんどん変わっていくんです。
その変化に対応しつつも、自分たちの信じるものを守っていかねばなりません。

ただひたすら、その小さな積み重ねが今につながっていると実感します。

神戸の先生方よりももう少し前に、和歌山の高校の先生も来られて少しお話をしました。

そのときに2人で話したのが、つらいことやしんどいことの方が多いかもしれないけど、なんでここまでやってこれたのかというと、そのしんどいことの途中でも「やっててよかったな」と思えることが点々とちりばめられていて、その瞬間は辛いことがなくなったような気持ちにさせられてしまうからでしょうね、と。
なんとなくごまかされてしまいますよねと笑いながら、そんな話をしました。

何人かの先生方とお話する機会をいただき、図らずもやってきたことが今につながり、ときどきあるご褒美のような楽しいこと、うれしいことのおかげで少しでも前に進むことができる、そんな日々を思い返しました。

みんなそうやって生きているのではないかな、と思うんですよね。

少なくともわたしは、そういう日々に気づく瞬間があるから、もし今困難にぶつかっていたとしても、明日を信じて生きていけるのかなと思ったりします。

結局わたしの生き方とは、地味と言われようが、頑固すぎると言われようが、自分のペースを守って、一つずつ丁寧に重ねていくこと、です。
そして日々の小さい喜びを見逃さずに、明日を信じる力にしていくことなんだと思います。



今年も本当にたくさんの方々に支えられ、お世話になり、子どもたちを護る、そんな毎日を送ることができました。
関係してくださったすべての皆様に、こころからお礼申し上げます。
ありがとうございました。

皆様、どうかよいお年をお迎えください。
そして・・・これからもわたしたちとお付き合いいただけましたら、うれしく思います。




2018/11/09

大きな足跡

今日はカンボジアの独立記念日です。
私が生まれる20年前に、カンボジアはフランスから独立しました。
もし今カンボジアで暮らしていなかったら、そんな歴史も全く知らないまま暮らしていたんでしょうね。
独立後のカンボジア、1970年代のいわゆるポルポト時代を経て、国連主導の民主的選挙により今の政権が誕生がして25年が経ちます。
1990年代前半、ニュース番組などで日本から派遣された自衛隊のPKOのことや民間からの選挙監視員、文民警察の報道を見聞きしていました。

そのときすでにカンボジアの首都プノンペンに移住し、旅行会社を経営していた女性がいるのです。

大塚めぐみさん、といいます。

当時は観光客がほとんどなかったので、PKO派遣されてきた自衛隊やカンボジア情勢を伝えるために駐在していた報道関係者に対しての手配業務を主にしていたと聞いています。
時間があればセントラルマーケットに行き、市場のおばさんたちと会話することでクメール語を習得したそうです。

わたしが彼女に会ったのは2003年です。
カンボジアの子どもたちと日本の若者ををつなげるようなツアーを作りたいとの相談を受けました。
実はそういうお話は他からもよくあったのですが、スナーダイクマエでは数日間に渡り同じグループを受入れるということはしていませんでした。

めぐみさんと初めて会った時、彼女が若いころに児童養護施設の指導員をしていたことを聞きました。
施設に外部の人を入れることがどれだけ大変か、施設の中の人としての見解を持った人だったこともあり、常に「施設に迷惑をかけないこと」を前提にお話をしてくれました。
子どもたちが普段どのように生活をしているのか、訪問しても普段の生活をできるだけ乱さない時間帯や曜日はいつなのか、丁寧にきいてくれました。

それはわたしが一番気にしていたことでもあったので、この人とならなにか一緒にやってみたいと思うことができました。

結局そのツアーは15年も続き、何千人という日本の若者がスナーダイクマエを訪れ、わたしたちの教育方針に触れ、そのもとで育っている子どもたちと交流をしていきました。
ツアーが始まった当時、子どもとして参加していたパナーはのちに得意の日本語を活かし、めぐみさんの会社で観光ガイドして雇っていただきました。
彼がそのツアーをアテンドしてくる姿を見ると、15年という月日の長さを感じました。
彼もまた、めぐみさんと同様に、受け入れる側の立場をわかってアテンドしてくれる貴重な存在で、わたしも心強かったのです。

めぐみさんは歯に衣着せぬ物言いで、ときには厳しく、いや、厳しすぎて相手の誤解を招くことも多々ありました。
わたしも出会った20代後半からの10年ほどは、あまりにきつい言葉に何度も部屋で泣きました。

めぐみさんのことが苦手で、嫌いで、仕事以外では会いたくないと思うときもありました。

それでもめぐみさんは最終的にとてもかわいがってくれました。
たしかにめぐみさんの言葉はきついのですが、翌日思い返すと「もっともだな」と感じることも多かったのです。
そして最初に否定的にとらえた事柄でも、いい点をみつけるとそこに関しては素直に認めて褒めてくれる面も持った人だったので、そこに救われてきたこともありました。
それゆえに、メールの返信や会った時の返答の際には、わたしなりにめぐみさんへの敬意をもって対応してきたつもりでした。
それがめぐみさんに伝わったのかもしれないし、今になってですが、そうしてきてよかったなと思っています。

わたしは30代で母を、そして40になったときに父を亡くしました。
それと前後するようにめぐみさんもご両親を亡くしました。
人生の中で親を失うという大きな出来事、そのときの気持ちを共有することで、わたしとめぐみさんの関係はとても縮まったように思っています。
めぐみさんに言ったことはないけど、お母様を亡くした後のめぐみさんは言葉に角がなくなって、優しくなった印象があります。
「私の年齢でも親を亡くしたらこんなにつらいのに、博子ちゃんはもっと早くにご両親を亡くして・・・」と言ってくれたとき、自分の気持ちに乗せてわたしのことまで思いをめぐらせてくれたことが強く伝わってきました。

知り合って10年が過ぎた頃からは、節度を守りつつも、なんでも話せる関係になったように思っています。
お互いに共感を持ったり、価値観を共有できるタイミングが、わたしたちにとってはそのころだったのかなと、今はそんな風に受け止めています。

人との信頼関係はすぐに構築できるものではないし、そこに相手を尊重する気持ち、適度な距離感がないと続かないものだということ、めぐみさんとの関係を通じて、ゆっくりと時間をかけて、わたしは体験的に知りました。

そんなめぐみさんが今年の9月末で会社を閉めて、帰国するという決断をされました。
少なくとも週に1度は食事をしている仲になっていたので、めぐみさんが本当に帰国する直前まで実感がわきませんでした。

在住の有志により、めぐみさんの送別会をしたとき、自分でもびっくりするくらい涙がぼろぼろとこぼれてきました。
わたし自身のシェムリアップ生活18年の中で、これほどまでに色濃く、足跡をくっきりと残してくれた人は他にいるのだろうか、と。
嫌いでたまらなかったときもあるのに、そのときのわたしは素直に「さみしい」と涙を流していて、そのわたしをしっかりと抱きしめてくれているめぐみさんがいました。
しっかりと抱きしめてくれました

めぐみさんから、「カンボジアの人たちに生かされてここまでやってきた。だからカンボジアの人たちを悲しませることはしてはいけないんです。」という言葉をよく聞いていました。

めぐみさんがカンボジアを去ることになっても、わたしはそのめぐみさんの言葉を自分のものにして、受け継いでいきたいと思っています。
わたしがこれまで子どもたち、そして一緒に働いてくれているスタッフを大切にしようと思ってこられたのは、めぐみさんから何度も聞いていたこの言葉があったからです。

最後に最後に2人で会った時、めぐみさんから贈り物をもらいました。
それはゴールドの指輪でした。

「博子ちゃん、これから自分でもときどきお金を足してこの金を大きくしていってね。
いざとなったら売ればいいのよ。」

と、にこにこ話すめぐみさんを前にして、わたしもこんな大人になりたいと思いました。
もう十分大人の年齢なのですが、先輩たちの姿を追いかけながらも、若い人たちには自分が先輩からしてもらってきたことを返していける大人になりたいなと思ったのです。

ありがとうございます
お酒好きなめぐみさんにお付き合いしているうちに、最近少しは飲めるようになってきたので、次にめぐみさんと会うときは白ワインで乾杯したいと思います。

めぐみさん、長年にわたるカンボジア生活、本当におつかれさまでした。
かなり荒っぽいやり方だったのは否めませんが、わたしに色々なことを教えてくれて、ありがとうございました。
いただいた指輪、肌身離さず大事にしています。

日本での再会を楽しみにしています。

2018/09/18

読書感想文・カルピスをつくった男 三島海雲

面白かった。
時代を旅するような気持ちで読み進めたのは、久しぶりの感覚かもしれません。

この本、夏の帰国中に手に入れていたものの、忙しいこともあり読書に集中
できず、読みかけのままカンボジアに戻る機内で読もうと取ってあったのです
が、関空にへの道中で家に置いてきてしまったことに気づきました・・・。

友人にも渡そうとスーツケースにもう1冊入れていたので、了承を得て先に
読ませてもらうことができたのは幸いでした。

どうせ読むなら最初から読み直そうと、手に取ったのが夜11時。
約3時間半で読了。
あまりに面白くてどんどん読み進めたのと、半分くらいはおさらいする感じで
読んだから早かったのかもしれません。

カルピスって国民の99.7%が知っている飲料なんだそうです。
年間で1000種類の新しい飲料が出て、1年後に残っているのはほんの数種類
だけという中で、残るだけでもすごいんだけど、カルピスってみんながそれぞれ
になにかしらの思い出というかエピソードがありますよね。
それを誰かに話したら共感されて、「そうそう!」となることも想像できます。
そんな飲料って他にあるかな・・・。

しかもそれだけ知られた国民的飲料なのに、それを作った人がどんな人なのか
一般的には周知されていない、という。

三島海雲が仏教の僧侶だったり、時代背景から大陸を目指した若者だったり、
というような書評は色々なところで読めるので、私はもうちょっと身近な
所の感想を書きたいと思います。

最初に旅するように本を読んだと書きました。
20年前にカンボジアに来た時のころを思い出すような、そんな気持ちもあり
ました。
三島海雲が大陸を目指したころ、たくさんの若者が同じように中国に渡った
そうです。その中でもいろんな人たちがいて(どんな人たちかは本を読んで
ください)、自分なりに思ったのは、何をするにも知性って必要なんだなと
いうことでした。
それは単なる学歴だけではなく、様々なことに思いを馳せられるか、であった
り、自分と周りにいる人を幸せにするための信念のようなものであったりする
ように感じました。
現代の私たちのような在外邦人でも色々な人がいますからね。知性は大事。
自分に知性があると言いたいのではなく、知性とは何かということを自分で
考えて他者に接していきたいということです。

大陸にいたためにいつも応援してくれた母の死に目にあえなかったという
エピソードも、つい自分と重ねて見てしまいました。
大きく辛い出来事を経験すると、人はその他の人たちの立場、状況、心情
にも思いを馳せることができるようになるような気がします。

そして経済的に困ったときに必ず誰かが手を差し伸べて、彼の生活、研究、
あるいは会社の存続までも助けようとするエピソードでは、いつも人から
助けられている自分とその姿を重ねて読んでいました。

うまく言えないけど、ホンモノだと軽薄に呼ばれるニセモノが多い今の時代、
自分がその道で本物でいるために必要なことがこの本から得られるのではないか、
そう感じて一気に読んでしまったのかもしれません。
得られるというのは違うかな、なんだろう、答え合わせをするという感覚でした。

国利民福と三島海雲は言いました。
企業は国を豊かにするだけではなく、国民を幸せにしないといけない
というような意味ですが、個人の利益のみが最優先事項みたいになってしまって
いる今の時代に、そんな思いで動ける人はそういないかもしれませんね。
でもきっとそれが国民の99.7%もの人が知っている商品を生み出した源
なんだろうと思います。

単なる本好きの素人としては、登場人物の多さと時代背景など難解に感じる
部分はあるかもしれないけど、モンゴルから一気に話が展開していくところ
まで読み進むことができれば・・・。
感覚的に、最初はとっつきにくい専門書のような感じで、あとのほうからはもう
少し重たさがなく「本を読む」というイメージで読むことができました。

それだけ三島海雲を語るには、多くの関係者がいること、日本が大きく動く
時代であったことがあるんでしょうけど、そのおかげで時代を旅するような
気持ちになりました。

三島海雲は、今のわたしたちが見直さないといけないことをずっとずっと昔に
すでに言ってくれていたんだな、と思います。
彼が息を引き取った1974年に自分が生まれたことにも、なにかあるなと勝手に
思ってしまったりしています。
先人の思いを継承できる、そんな人でありたいと改めて思わせてくれる本でした。

本のカバー紙はカルピスの瓶を包んでいたあの紙をイメージしたそう
「カルピスをつくった男 三島海雲」
山川徹 著 ・ 小学館

興味を持ってくれた人はぜひ買って読んでみてください。


2018/07/15

6月23日の講演 「家族の立場からの在宅看取り」

普段わたしがお話しするのはカンボジアのことが多いのですが、今回は
ちょっと違うテーマでの依頼でした。

4年前に父か癌で亡くなった時の、自宅での看取りのお話です。

緊張しました
一部では一人で、二部ではもう一人の登壇者岩崎順子さんと、司会の
伊藤さんと三人で質問にお答えする形でお話を。
定員100名のところを立ち見が出る130名ほどの方が集まってくださったそうです。



家族の、特に死に関する話をするのは・・・なかなか難しいですね。
求めていらっしゃる方もいるでしょうし、わたしの経験が誰かの役に立つの
かもしれない。

でも、たぶん、わたしはもう今後家族の看取りの話はしないように思います。

不特定多数の方に話すのは、かなりエネルギーが必要でした。

ということで、カンボジアのお話(から、今の日本で活かせることにつなげて
お話しています)であれば、帰国中都合がつく限り調整したいと思っています。
ご要望のある方はご連絡ください。

控室で
控室に置いてくださっていたのはお茶と、昨年の絵画展で購入してくださった
子どもたちの作品でした。
こういうお心遣いは本当にうれしいですね。

和歌山市第1在宅医療・介護連携促進センターの皆様、ありがとうございました。



2018/06/13

講演会のお知らせ②



何年か前から講演のお話はいただきながら、なかなか実現にいたらなかった経緯が
ありますが、泉南市人権協会の依頼で7月に講演をさせていただきます。

講演タイトルは固めになっておりますが、実際にお話しする内容は、人権・福祉
という少しとっつきにくい雰囲気のものではなく、どなたにも関係する身近な話として
おはなしできたらと、思っています。

♦平成30年度 第1回人権啓発講座♦
「カンボジア 福祉の現場から」

日時・2018年7月18日(水)午後2時から4時
場所・泉南市立市民交流センター 2階

参加無料・申し込み不要



最近、お話してくださいとのお話をよくいただけるようになっています。
私でお役に立つようなことがあれば、声をかけていただけたらと思います。


講演会のお知らせ①

しばらく告知の投稿が続くと思いますが、お付き合いください。

6月は2回、講演の依頼をいただいていますが、一つは学校の行事としての
おはなし会ですので告知はしません。

ということで、もうひとつの講演は・・・カンボジアのおはなしではない、
のです。


2018年6月23日(土)13:30~15:30
イオンモール和歌山 3階 イオンホール
参加費無料・事前に予約してください

予約 和歌山市第1在宅医療・介護連携推進センター
   TEL 073-488-3430(平日9:00~17:00)


「家族の立場からの在宅看取り」というテーマで、岩崎順子さんとご一緒
させていただきます。

もう10日後やん!というツッコミ、聞こえております。すみません・・・。

カンボジアのお話ではなく、4年前に末期がんの父を在宅で看取ったときの
体験をお話しいたします。

どんな見送り方をしても、準備していたつもりでも、残された家族には心残りは
あります。

それでも、そういった体験をしたわたしが事前にお話をさせていただくことで
今後誰の身に降りかかるかもしれないそういうときのために、すこしでも役立て
ていただけるといいなと思っています。


2018/05/10

今年もまた再会がありました

久しぶりの更新。もはやそれが当たり前になってしまっております。
それでもこれを読んでくださっている皆様、ありがとうございます。

今年は15年ぶりに春の帰国をいたしました。
カンボジアは4月がお正月、新年を迎える季節です。

タイへの出稼ぎ労働者が増えている近年、カンボジア正月に一時帰国する
人たちも多いのですが・・・。
帰国前に1通のメッセージを受け取りました。

「おかあさん、ぼくは4月にかんぼじあにかえります。おかあさんはいますか?」

送ってくれたのは、施設の卒業生サヴィの弟、サヴォでした。
何年も前からタイで暮らし、独学で習得したタイ語(読み書きも)を使って
工場内の通訳をしている、ということは知っていました。

サヴィ、サヴォ兄弟はもちろん施設に一緒に入ってきたのですが、その後
離れ離れで暮らすことになります。
結婚した姉が2人を引き取ると言ってきたとき、弟のサヴォは行くと、そして
兄のサヴィは行かないという決断をしました。

サヴィはここにいたほうが日本語を習得できると考えての決断でした。
サヴィについてはこのブログ内でも別記事で紹介しているので、お時間の
ある方は読んでみてください。

そのときに別れてからずっと会っていなかったサヴォとつながったのは昨年。
フェイスブックで私を見つけてくれたことがきっかけでした。

その時から何度となくメッセージをくれていた彼、時には日本語、時には
英語で交流していました。

ちょうどカンボジア正月に何年振りかの帰省をすると連絡をくれましたが、
あいにく私も日本に帰国が決まっていて、「あえないね。ざんねんです。」
と返信していました。

春の帰国を終えて、カンボジア正月最終日に戻ってきたわたしに、サヴォから
再度連絡がありました。

「いま、どこですか?」

彼はまだシェムリアップにいたんですね。
そしてすぐにうちまで顔を出してくれました。

私が知っているサヴォは小学生の少年で、でも目の前にいるのはまっすぐな
視線をなげてくる立派な青年でした。

翌日の早朝のバスでタイに帰るということだったので、30分ほど話しました。

サヴォの働く会社は携帯電話の部品などを組み立てているそうで、カンボジア人
従業員が300人ほどいるそうです。
彼は管理職のタイ人と労働者のカンボジア人をつなぐ通訳業務をしているとの
ことでした。

お兄ちゃんのサヴィはうちに残ることで日本語を習得し、現在は日本語ガイド
として活躍していますが、弟のサヴォもこうして語学で自立した生活をして
いることがわかり安心しました。
しかも私と話すときはできるだけ日本語を話そうと一生懸命でした。
子どものときに学んでいた日本語を覚えていてくれただけでもうれしかったです。
語彙が足りない部分はクメール語で補いつつの会話。
あっという間の30分でした。


別れ際、「元気でね」と声をかけると・・・

大きく両手を広げてハグしてきたんです。

すごくびっくりしました。

たぶんお兄ちゃんのサヴィなら恥ずかしがってやらないような気がします。

その瞬間だけ、少年のサヴォにもう一度会ったような気がしました。
無邪気に抱きついてくる少年に。
でもそのサイズは紛れもなく青年で、わたしはすっぽりと彼の腕の中に
包まれてしまっていました。
とても不思議な瞬間でした。

立派になったね
 20代半ばになったサヴォ、タイ語を習得するのにどれだけの努力をしたのか
隣の国とは言え異国で何年も暮らし、どんな苦労をしてきたのかと思うと
笑顔で別れたかったのに涙が止まりませんでした。

また会おうね。
会いに来てくれて、ありがとう。



2018/02/14

Yahoo!ニュース特集記事に掲載されました

前回のブログの冒頭で、「恐ろしいことに今年に入って初めての投稿です」みたいな
ことを昨年3月に書いているのですが、もっと恐ろしいことにその投稿からこの記事まで
一度も更新しておりませんでした。

正確に言うと書こうとしながら、うまく表現できず保存、そんなことを繰り返して
いるうちに月日が・・・
ええ、そうです、言い訳です。

で、告知です。

昨日の朝配信済みなのですが、Yahoo!ニュースの特集記事でメアス博子の
人物ルポを掲載していただいております。




Yahoo!ニュース特集
~挑戦者たちの背中~
カンボジア孤児たちの「おかあさん」日本人女性の奮闘

書き手はノンフィクションライターの山川徹氏。
写真は写真家の後藤勝氏。

1997年に初めてカンボジアを訪れて、2000年からスナーダイ・クマエで
働き始め今に至るまでのことや、カンボジア社会の変化、光と影の部分を
丁寧にルポしていただいております。



書き手の山川君は18年来の友人でもあります。
記事の中にもあるのですが、私がひたすらゴミを燃やしていたとき、一緒に
手伝ってくれていた青年が彼でした。
当時バックパッカーでしばらくカンボジアに滞在していた時期でした。

ジャーナリストになりたいと語っていた青年は、現在プロのノンフィクション
ライターとなり、できたばかりの孤児院で途方に暮れていた私から現在の私に
至るまでを見てくれていた人物でもあります。
あの頃はまさか山川君に書いてもらう日が来るとは思っていませんでした。
人生はどこにどうつながっていくかわからないものです。
でも一つだけ言えるのは、お互いに「辞めずに続けてきた」という共通点が
あります。

辞めることを批判するつもりも否定するつもりもありません。
辞める辞めないは自分が決断することですから。
ただ、わたしは辞めないでよかったと思っている、ということです。

おかげであの頃には見えなかった景色をたくさん見ることができています。

とはいえ、それは一人でやってきたわけではなく、周りの人たちの支えが
あってこそです。
だからこそ、わたしも誰かの支えになりたい、と思います。

その気持ちを自分の息子や、施設の子どもたちにも伝えたいと思うのです。

さらっと告知だけするつもりが、語ってしまいました・・・。

皆さん、山川くんの文章と、後藤さんの写真、どうかご覧ください。


2017/03/27

いつか返せるもの

恐ろしいことに今年に入ってまだ一度もこのブログを更新してない
ことに今さっき気づきました。
3か月以上も放置したらもはや誰も読んでくれないのではないだろうか。
でもまあいいか。書きたいことが出てきたので書きます。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::

友人夫婦に子どもが生まれて1年が過ぎました。
首が座っていないころからよく抱っこさせてもらい、今では一人で
歩くようになったその子を見ながら、自分の子育てをおさらいして
いるような気持ちになります。

私は2歳になる前の息子をシェムリアップに連れて来て、本格的に海外
生活が始めたのですが、当時からカンボジアの人たちにものすごく
息子をかわいがってもらいました。
友人夫婦もカンボジア在住で、自宅の大家さん一家をはじめカンボジアの
皆さんにもお世話をしてもらっているようです。

その友人以外にももう少し大きな子どもを持つお母さんたちと接点が
あるため、子どもたちと触れ合う機会もよくあります。

子どもはかわいいけれど、自分勝手で思うようにいかないと怒ったり
駄々をこねたりもします。
おなかがすけば食べ、眠いときに寝ます。親の都合はお構いなしです。
思春期になると顔も見てくれない、話もしてくれないなんてもことも。
親だけでは限界がある部分も周囲にいる大人たちが手を差し伸べて
くれ、大いに助けられた経験があります。

私が離婚しても日本に帰らなかったのは息子の教育をカンボジアで続け
たかったことが理由の一つに挙げられます。
ここにいる人たちの多くは子どもに興味を持っています。
子どもに無関心な人が少ないので、色々と世話を焼いてくれます。
それをおせっかいととるかどうかは自分次第かもしれませんが、
私にとってはそれが安心感につながっていました。
ここでは大人が子どもに関心を持てるだけの時間の流れがあります。

ずいぶん前に長年お付き合いのある方が「子どもは社会で育てるもの」と
おっしゃっていました。
10年ほど前の話です。
今はしみじみとその言葉をかみしめています。

息子が赤ちゃんのとき、たくさんの人たちが息子を抱っこしてかわいがって
くれました。それは一緒に暮らしていたスタッフや子どもたちだけではなく、
街で出会った人やレストランの従業員の人など、知り合いでも友人もでも
ない人たちも含まれています。
息子が10代になって私には言いたくない話ができても、友人夫婦やその他
の友人が聞いてくれていたそうです。
そのときに母親の私の気持ちも代弁してくれていたそうです。

息子がホテルで働き始め、仕事の話をしてくれたり、悩みながらなんとか
前に進もうとしている姿を見ていると、ここに至るまでにどれだけの人に
お世話になってきただろうと思うのです。

私はカンボジアの人々や日本人の友人たちにたくさん甘えてきました。

だからこれからはみんなが私や息子にしてきてくれたことをお返しして
いきたいと思っています。


子どもを他人に触られたくない?
知らない人に子どもを注意されたくない?
自分の子どもは自分で育てるから、他の子どもには無関心でもいい?

単純にそれはとてもさみしいことだと思います。
子どもにとってもさみしいことだと思います。
それに現実的に誰の手も借りずに子育てすることは難しいと思います。

親以外の色々な立場の大人たちに大いに関心を持たれ、溢れんばかりの
愛情を受け、そうやって大人になった人たちはきっとまた自分の子ども
だけではなく他の人の子どもにも同じことをするでしょう。

社会の構造や人の考え方が違うから、カンボジアと日本を単純に比べるのは
難しいけれど、人とふれあいを持つことはそんなに怖いことでも悪いもの
でもないとわたしは思うんです。

自分がそう思えるのはきっと、自分自身が子どものときにたくさんの大人
の手によって育ててきてもらったからなんでしょうね。
そして息子が同じようにしてもらえることに抵抗なく、むしろありがた
く感じることができました。

友人たちの子どもたちが私に向けてとびきりの笑顔を見せてくれるとき、
今が自分にとっての恩返しのときなんだなと思うんです。

それは友人の子どもたちを大人としてのまなざしで見つめ接することであり、
施設に若い年代の訪問者が来てくれた時に自分の経験から出る言葉を
持ち帰ってもらうことでもあります。
自分よりも年上の先輩方に直接恩返しすることは難しいけれど、その方々の
気持ちを次の世代に伝えることで恩返しにさせてもらいたいと思っています。

自分の考えを人に押し付けるつもりは全くないけれど、わたしはそう思う。
共感してくれる人がいればうれしいし、そんなの心には響かないという人が
いてもいいと思っています。

そういうお話です。

2016/12/19

思いがけず再会

ほとんど誰にも会わずに終了しかけた日曜日。
夕食も済ませて部屋で一人。

携帯が鳴りました。

「おがーーーさん、おげきですかーーー?」(お母さん、お元気ですか?)
電話の向こうから聞こえてきた声はソピア。
今は僧侶になっているのですが、昔うちで暮らしていた男の子です。
(もう30代なので男の子ではないか・・・笑)

少し前にフェイスブックで再会し、僧侶になっていたことは知っていました。
修行などで何度も中国に行っていたことも、写真を見てわかりました。
本人曰く、辞めようとしたけど中国のお坊さんたちに辞めないでほしいと
言われて続けているそうです。

シェムリアップでも評判(というのが正しいのかどうか・・・)のよいお坊さん
らしく、お清めやお祓いの依頼が殺到しているとか。

先月私が帰国する少し前にうちにも来てくれました。
面影ばっちりです
この時は時間もなく、あまりゆっくり話せず残念でした。


昨夜の電話ではお互いにへんてこりんな日本語とクメール語で30分くらい
話し、途中で何度も大笑いしました。

ソピアはうちにいたとき、規則破りの常習でしたが、人懐っこい笑顔が
憎めない少年でした。

あの叱られてばかりだったソピアが有名なお坊さんになっているなんて、
ちょっと信じられないのです。

人との再会はどこに落ちているかわからないけれど、ソピアとこうして
笑って話せる今があるのは、お互いに会っていなかった時間に自分の
やれることを精一杯やってきたからなんでしょうね。

問題をよく起こしていたソピアがどうして僧侶の道に入ったのか、今度会ったら
ゆっくりと聞いてみたいです。
そしてソピアと離れていた10年ほどの間に私が何をしていたのかも聞いて
もらえたらと思っています。

この仕事をしているとつくづく感じます。
今子どもたちにしていることが、彼らの将来のなににつながっていくのかは
わからない、だからこそ今のベストを尽くすしかないんだな、と。
そして何年も経って忘れた頃に、こうなったよ、と見せてもらえるものなん
ですよね。

うちの施設では卒業生たちとの交流が活発ですが、問題があって出て行った
子たちとも近年少しずつつながりが戻ってきています。
そしてそういう子たちの空白の時間を訊いてみると、やはりみんなその間に
苦労しながら乗り越えてきたことがわかります。

残念ながら全然つながらない子もいますが、
つながっていない子たちにとって、今はそういう時期(私やスナーダイクマエ
に接点を持つ時期)ではないのだろうと思うようにしています。
もう縁がないと決めつけないことです。
10年後なのか、来年なのか、それはわからないけれど、そのタイミングが
きたらまたどこかでつながることもあるでしょう。

そのときに笑って「久しぶり!元気??」と言える自分であるように、今
ここにいる子どもたちにできることをしていこうと思います。

ソピアとの再会、いろんなことに思いをめぐらせる機会をもらいました。


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自分でもびっくりですが、あまり日を置かずにブログ更新しました(笑
こんなブログですがたまにのぞいてもらえるとうれしいです。



2016/12/15

ママ会から・・・感じたこと

えーーっと、ブログ更新またまた滞っておりました。
11月を通り越して12月も半ばになってましたね。
こんなブログでも見に来てくださる方がいることに感謝いたします。


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私は月に一度開催されているママ会に参加させていただいています。
息子は18歳になり、すっかり自立しているのですが、メンバーの皆さんのお言葉に
甘えて母一人で参加しているんです。(迷惑にならないようにしているつもりです笑)

ママ会は毎回幹事が持ち回りで、場所などを設定するのですが、今月は町にある
イタリアンレストランで1mピザに挑戦しましょうということでした。


参加人数が多かったので結局3m注文したのですが、ほとんど食べきりました。
これを3つです 笑
みんなおなかいっぱいになったころ、この時の幹事をしてくれたママさんがみんなに
なにかを配り始めました。


わたしもいただきました
中身はチョコレートでした。
ママさん曰く、息子さんがサンタクロースを見て、自分もお友達にプレゼントを
配りたいと言ったそうです。
それで皆さんに配るために一つずつおうちで包みを作って持ってきてくださった
らしいのです。

子どもの気持ちを尊重して、一緒に準備するお母さん。本当に素敵だなと思いました。
思い返せば自分の子育て中は孤児院のこともすごく大変で(言い訳ですけど)
こういうちょっとした余裕がありませんでした。

そしてさらに自分たちはいい環境にいるなと思えるのは、今まで誰もしなかったことを
するお母さんがいても難癖をつけられることがないことです。
ネットなどの情報になるので誇張されている部分があるのかもしれませんが、日本だと
ちょっと目立つことをするとママ同士で軋轢が生じたり、嫌味を言われたりすることが
あるみたいですよね。

今回のようなことでいうと、「いつもやってないことをされると、次の人のプレッシャーに
なるからやめて」みたいなことを言われたりして・・・

どうして人の好意を素直に受け取れないのかなあって悲しくなりますよね。
ねたみ?自分より目立つことをされると気に入らない?
そんなことを考える時間が本当にもったいないし、目を吊り上げてそんなことを
いうよりも目じりを下げて笑ってる方が楽しいし、寿命も延びそうですよね。

幸い、カンボジアの南国特有の環境がそうさせてくれるのかここのママ会では
そういう雰囲気を感じたことはありません。
みんな小難しいことを考えず、素直に生きているのかもしれませんね。

このお母さんのお子さん、なぜか私のことを気に入ってくれているようで、前回は
膝まくらで寝転がってくれたし、今回はテーブルの下にもぐりこんで私の足を触って
ごろごろしてくれてました(笑
こうして生身の子どもと触れ合うことで親近感がわき、自分の子にだけ意識がいく
のではなく、みんなで子育てをしていると実感できる恵まれた環境、余裕のある
心でいられることを幸せに思います。

今回のママ会でこのお母さんとお子さんからチョコレート以上に甘くて心地よい
気持ちをもらえたのでブログに記しておこうと思いました。
ありがとうございました。

そして子供が大きくなった今でも私をママ会においてくださっているすべての
お母さん方にも感謝しています。

***********************************

次もいつになるかわかりませんが、懲りませずお付き合いください。
できれば年内にもう一回くらいは更新したいなと思ったり、思わなかったり・・・笑