私の母は華道と茶道の教室を自宅で開いていたので、社中さん達が毎日
ひっきりなしに自宅に出入りしていました。
母のことを「先生」と呼び、慕ってくれていました。
私も華道や茶道はたしなんでいたので、よく自宅のお茶室に行き、社中さん
たちから一服頂いたり、私がお点前をさせて頂いたり・・・。
冗談を言いながら和気あいあいとお稽古する時間が大好きでした。
でもお稽古が終って、お道具を片づけて、お茶室やお華のお稽古場を母と
二人で掃除する時間のほうがもっと大切でした。
母を一人占めできる時間だったからです。
今でも目を閉じると瞬時にそのときに戻れるくらい鮮明な記憶です。
本当に母が大好きでした。
その母が亡くなったのは2006年の年が明けてすぐのことでした。
父からそのことを知らされ帰国してから数カ月間の記憶がほとんど
ありません。
息子を連れて日本に帰ったはずなんですが、どうやって帰ったのかも
まったく覚えていません。
いくつかのことは断片的に記憶にあるものの、カンボジアに戻ることが
できなかった約4カ月ほどの日本滞在期間、自分が何をしていたのか
いまだによくわからないのです。
その断片的な記憶の中に、葬儀の場面があります。
何百人もの参列者の方々がいらっしゃって、最期のお別れの時に皆さん
が棺に花をいれてくれるのですが、花があふれかえって棺の蓋が閉まら
ないくらいでした。
ありがたいことのはずなのに、複雑な気持ちの自分がいたように思います。
最後まで家族だけのお母さんではいてくれないのかな、と。
私はそのとき棺の近くに行くことができませんでした。
生前の母を慕ってくれていたたくさんの方々に囲まれた棺の近くに行くことが
できなかったんです。
そしていつもお稽古が終ったあとに二人で話したようなあの時間はもうありません
でした。
母は60歳で亡くなりました。
今の日本では早すぎる年齢ですね。
なぜ母はこんなに早く逝ってしまったのかということ。
母と会えなくなってしまってからもそのことが心のどこかにありました。
いつも周りを明るくし、励まし、人に尽くすことを心から喜んでいた母がなぜ
こんなにも早く逝かなければならなかったのか。
考えても考えてもわからずにいます。
今度の冬の帰国では母と話したいことがたくさんあります。
やっと亡くなった母と心で対話できる自分になってきたのかもしれません。
来年の年明け、母の7回忌。
カンボジアで暮らすことに一つも反対せずに応援し続けてくれた母としっかり
話したいです。
それでもやっぱり、母がなぜあのときに逝かなければならなかったのかという
ことに対して、納得できる答えは一生見つからないんだろうなぁ・・・。
私、本当にお母さんが大好きなんです(笑
そうなんですね。一生答えは見つからないかも知れないですが
返信削除日々博子さんの中にお母様が語りかけて
くださる気がします…それを祈っております。
佳子さん
返信削除ありがとうございます。
そうですね、母は語りかけてくれていて、見てくれてます。
自分にとってゆるぎない存在があることがどれだけ強みに
なるか、そういうことを教えてくれた人です。
先日、友人のお母さんが亡くなり、なんだかその日は仕事が手に着かず、おばちゃんのことばかり考えていました。。。
返信削除あ~もっとこんなことも話しておけばよかっただとかいろいろ。
身近な方が亡くなると、私はあらためて自分が生きているんだと思い知らされます。
博子さんのお母様はものすごく早かったのですね。・・・・びっくりしました・・・
すばらしい娘さんを産んだお母様は偉大ですね!今度はたくさんお話してきてくださいね^^
どんさん
返信削除コメントありがとうございます。
私の母もいろんな人に心残りを置いていった人でした。
残されたほうは色々考えますよね。
今度の帰国ではたくさん対話してきますね。
おはようございます。私の父と母は、博子さんと異なり、生活は異なりますが、まだ一緒に仕事しています。仕事の話などでは、顔を合わせる度にに喧嘩する日々です。しかし、逝ってしまうとその機会も無くなります。私は、ここ数年、誕生日には自分を祝う日ではなく、私を産んでくれた母に感謝する日として祝っています。博子さんもご自身の誕生日に祝ってあげてください。
返信削除朝から良いメッセージを見ることができました。ありがとうございます。
小田さん
返信削除コメントありがとうございました。
誕生日が母に感謝する日、いいですね。
来年からそんな気持ちで年齢を重ねていきたいと思います。
こちらこそありがとうございます。