2018/12/27

明日を信じることができる

前回投稿からそんなに経っていませんが、今月中に書かないと今年が終わってしまうという焦りも少しあり、今日を今年の最後の投稿にしたいと思います。
自分勝手な投稿頻度にもかかわらず、お付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。



先日、神戸のある大学の先生と施設勤務をされている方が、ご自分たちの研究の参考にと訪ねて来られて、いろいろな質問を受けました。

施設の創立時から今に至る歩みを時系列に説明していく中で、色々な記憶がよみがえります。

そこで出てきたキーワードが「図らずも」でした。

うちの施設は1998年の創立時、貧困家庭から子どもを受け入れて養育していました。
2000年にわたしが働くようになり、詳細は省きますがどういった子どもを受け入れるのかについて向き合わざるを得ない出来事がたくさんありました。
そんな中、現在の虐待児の受入れに舵を切り始めて15年ほどが経ちました。

内部の細かいルールやスタッフの構成、子どもたちの受入れに関する手続き方法など、一度立ち止まってはそのときの最善を考えるということを基本に進めてきたつもりです。

そして今、それらが「図らずも」カンボジアの福祉政策などの時流に添ったものになっていることに気づきます。

現在は「貧困」だけを理由に子どもを施設で預かることは、国の方針として推奨されていません。
子どもを預かる際の手続きも、そこに子どもがいるからと言って勝手に連れてきたり、その日から勝手に住み始めるということもできません。
(うちは福祉局、警察、村長などの証明を出してもらい保管しています)

外部からの訪問者に関してもそうです。
うちはかなり早い段階(2000年代はじめごろ)から、アポイントメントがない方の訪問はお断りしていました。

年に2回、福祉局から抜き打ちの査察が入ります。
子どもたちの住環境や栄養状態など生活の基本から、教育環境なども徹底的に調べられるのですが、最近特に聞かれるのは、入所する子どものバックグラウンド、訪問者への対応、そして卒業生たちへのモニタリングです。

バックグラウンドに関しては、そもそも養育の要請があった際に福祉局の許可を得ていますので問題ありません。
訪問者はすべてアポなしお断り、訪問者記録もつけています。
卒業生のモニタリング3年なども、うちは卒業してからも普通に交流があるので、あえてしなくても近況は把握している状態です。

代表的な3つの事柄をここに書きましたが、それ以外の細かなところも「いずれ福祉局の取り締まりが始まるから」あるいは「取り締まりが始まったから」といって慌ててそうしたわけではなく、もともとやっていたことがチェックポイントに合致しています。

カンボジアの社会はここ10年でも大きく変化しています。
子どもたちを取り巻く環境がどんどん変わっていくんです。
その変化に対応しつつも、自分たちの信じるものを守っていかねばなりません。

ただひたすら、その小さな積み重ねが今につながっていると実感します。

神戸の先生方よりももう少し前に、和歌山の高校の先生も来られて少しお話をしました。

そのときに2人で話したのが、つらいことやしんどいことの方が多いかもしれないけど、なんでここまでやってこれたのかというと、そのしんどいことの途中でも「やっててよかったな」と思えることが点々とちりばめられていて、その瞬間は辛いことがなくなったような気持ちにさせられてしまうからでしょうね、と。
なんとなくごまかされてしまいますよねと笑いながら、そんな話をしました。

何人かの先生方とお話する機会をいただき、図らずもやってきたことが今につながり、ときどきあるご褒美のような楽しいこと、うれしいことのおかげで少しでも前に進むことができる、そんな日々を思い返しました。

みんなそうやって生きているのではないかな、と思うんですよね。

少なくともわたしは、そういう日々に気づく瞬間があるから、もし今困難にぶつかっていたとしても、明日を信じて生きていけるのかなと思ったりします。

結局わたしの生き方とは、地味と言われようが、頑固すぎると言われようが、自分のペースを守って、一つずつ丁寧に重ねていくこと、です。
そして日々の小さい喜びを見逃さずに、明日を信じる力にしていくことなんだと思います。



今年も本当にたくさんの方々に支えられ、お世話になり、子どもたちを護る、そんな毎日を送ることができました。
関係してくださったすべての皆様に、こころからお礼申し上げます。
ありがとうございました。

皆様、どうかよいお年をお迎えください。
そして・・・これからもわたしたちとお付き合いいただけましたら、うれしく思います。




2018/11/09

大きな足跡

今日はカンボジアの独立記念日です。
私が生まれる20年前に、カンボジアはフランスから独立しました。
もし今カンボジアで暮らしていなかったら、そんな歴史も全く知らないまま暮らしていたんでしょうね。
独立後のカンボジア、1970年代のいわゆるポルポト時代を経て、国連主導の民主的選挙により今の政権が誕生がして25年が経ちます。
1990年代前半、ニュース番組などで日本から派遣された自衛隊のPKOのことや民間からの選挙監視員、文民警察の報道を見聞きしていました。

そのときすでにカンボジアの首都プノンペンに移住し、旅行会社を経営していた女性がいるのです。

大塚めぐみさん、といいます。

当時は観光客がほとんどなかったので、PKO派遣されてきた自衛隊やカンボジア情勢を伝えるために駐在していた報道関係者に対しての手配業務を主にしていたと聞いています。
時間があればセントラルマーケットに行き、市場のおばさんたちと会話することでクメール語を習得したそうです。

わたしが彼女に会ったのは2003年です。
カンボジアの子どもたちと日本の若者ををつなげるようなツアーを作りたいとの相談を受けました。
実はそういうお話は他からもよくあったのですが、スナーダイクマエでは数日間に渡り同じグループを受入れるということはしていませんでした。

めぐみさんと初めて会った時、彼女が若いころに児童養護施設の指導員をしていたことを聞きました。
施設に外部の人を入れることがどれだけ大変か、施設の中の人としての見解を持った人だったこともあり、常に「施設に迷惑をかけないこと」を前提にお話をしてくれました。
子どもたちが普段どのように生活をしているのか、訪問しても普段の生活をできるだけ乱さない時間帯や曜日はいつなのか、丁寧にきいてくれました。

それはわたしが一番気にしていたことでもあったので、この人とならなにか一緒にやってみたいと思うことができました。

結局そのツアーは15年も続き、何千人という日本の若者がスナーダイクマエを訪れ、わたしたちの教育方針に触れ、そのもとで育っている子どもたちと交流をしていきました。
ツアーが始まった当時、子どもとして参加していたパナーはのちに得意の日本語を活かし、めぐみさんの会社で観光ガイドして雇っていただきました。
彼がそのツアーをアテンドしてくる姿を見ると、15年という月日の長さを感じました。
彼もまた、めぐみさんと同様に、受け入れる側の立場をわかってアテンドしてくれる貴重な存在で、わたしも心強かったのです。

めぐみさんは歯に衣着せぬ物言いで、ときには厳しく、いや、厳しすぎて相手の誤解を招くことも多々ありました。
わたしも出会った20代後半からの10年ほどは、あまりにきつい言葉に何度も部屋で泣きました。

めぐみさんのことが苦手で、嫌いで、仕事以外では会いたくないと思うときもありました。

それでもめぐみさんは最終的にとてもかわいがってくれました。
たしかにめぐみさんの言葉はきついのですが、翌日思い返すと「もっともだな」と感じることも多かったのです。
そして最初に否定的にとらえた事柄でも、いい点をみつけるとそこに関しては素直に認めて褒めてくれる面も持った人だったので、そこに救われてきたこともありました。
それゆえに、メールの返信や会った時の返答の際には、わたしなりにめぐみさんへの敬意をもって対応してきたつもりでした。
それがめぐみさんに伝わったのかもしれないし、今になってですが、そうしてきてよかったなと思っています。

わたしは30代で母を、そして40になったときに父を亡くしました。
それと前後するようにめぐみさんもご両親を亡くしました。
人生の中で親を失うという大きな出来事、そのときの気持ちを共有することで、わたしとめぐみさんの関係はとても縮まったように思っています。
めぐみさんに言ったことはないけど、お母様を亡くした後のめぐみさんは言葉に角がなくなって、優しくなった印象があります。
「私の年齢でも親を亡くしたらこんなにつらいのに、博子ちゃんはもっと早くにご両親を亡くして・・・」と言ってくれたとき、自分の気持ちに乗せてわたしのことまで思いをめぐらせてくれたことが強く伝わってきました。

知り合って10年が過ぎた頃からは、節度を守りつつも、なんでも話せる関係になったように思っています。
お互いに共感を持ったり、価値観を共有できるタイミングが、わたしたちにとってはそのころだったのかなと、今はそんな風に受け止めています。

人との信頼関係はすぐに構築できるものではないし、そこに相手を尊重する気持ち、適度な距離感がないと続かないものだということ、めぐみさんとの関係を通じて、ゆっくりと時間をかけて、わたしは体験的に知りました。

そんなめぐみさんが今年の9月末で会社を閉めて、帰国するという決断をされました。
少なくとも週に1度は食事をしている仲になっていたので、めぐみさんが本当に帰国する直前まで実感がわきませんでした。

在住の有志により、めぐみさんの送別会をしたとき、自分でもびっくりするくらい涙がぼろぼろとこぼれてきました。
わたし自身のシェムリアップ生活18年の中で、これほどまでに色濃く、足跡をくっきりと残してくれた人は他にいるのだろうか、と。
嫌いでたまらなかったときもあるのに、そのときのわたしは素直に「さみしい」と涙を流していて、そのわたしをしっかりと抱きしめてくれているめぐみさんがいました。
しっかりと抱きしめてくれました

めぐみさんから、「カンボジアの人たちに生かされてここまでやってきた。だからカンボジアの人たちを悲しませることはしてはいけないんです。」という言葉をよく聞いていました。

めぐみさんがカンボジアを去ることになっても、わたしはそのめぐみさんの言葉を自分のものにして、受け継いでいきたいと思っています。
わたしがこれまで子どもたち、そして一緒に働いてくれているスタッフを大切にしようと思ってこられたのは、めぐみさんから何度も聞いていたこの言葉があったからです。

最後に最後に2人で会った時、めぐみさんから贈り物をもらいました。
それはゴールドの指輪でした。

「博子ちゃん、これから自分でもときどきお金を足してこの金を大きくしていってね。
いざとなったら売ればいいのよ。」

と、にこにこ話すめぐみさんを前にして、わたしもこんな大人になりたいと思いました。
もう十分大人の年齢なのですが、先輩たちの姿を追いかけながらも、若い人たちには自分が先輩からしてもらってきたことを返していける大人になりたいなと思ったのです。

ありがとうございます
お酒好きなめぐみさんにお付き合いしているうちに、最近少しは飲めるようになってきたので、次にめぐみさんと会うときは白ワインで乾杯したいと思います。

めぐみさん、長年にわたるカンボジア生活、本当におつかれさまでした。
かなり荒っぽいやり方だったのは否めませんが、わたしに色々なことを教えてくれて、ありがとうございました。
いただいた指輪、肌身離さず大事にしています。

日本での再会を楽しみにしています。

2018/09/18

読書感想文・カルピスをつくった男 三島海雲

面白かった。
時代を旅するような気持ちで読み進めたのは、久しぶりの感覚かもしれません。

この本、夏の帰国中に手に入れていたものの、忙しいこともあり読書に集中
できず、読みかけのままカンボジアに戻る機内で読もうと取ってあったのです
が、関空にへの道中で家に置いてきてしまったことに気づきました・・・。

友人にも渡そうとスーツケースにもう1冊入れていたので、了承を得て先に
読ませてもらうことができたのは幸いでした。

どうせ読むなら最初から読み直そうと、手に取ったのが夜11時。
約3時間半で読了。
あまりに面白くてどんどん読み進めたのと、半分くらいはおさらいする感じで
読んだから早かったのかもしれません。

カルピスって国民の99.7%が知っている飲料なんだそうです。
年間で1000種類の新しい飲料が出て、1年後に残っているのはほんの数種類
だけという中で、残るだけでもすごいんだけど、カルピスってみんながそれぞれ
になにかしらの思い出というかエピソードがありますよね。
それを誰かに話したら共感されて、「そうそう!」となることも想像できます。
そんな飲料って他にあるかな・・・。

しかもそれだけ知られた国民的飲料なのに、それを作った人がどんな人なのか
一般的には周知されていない、という。

三島海雲が仏教の僧侶だったり、時代背景から大陸を目指した若者だったり、
というような書評は色々なところで読めるので、私はもうちょっと身近な
所の感想を書きたいと思います。

最初に旅するように本を読んだと書きました。
20年前にカンボジアに来た時のころを思い出すような、そんな気持ちもあり
ました。
三島海雲が大陸を目指したころ、たくさんの若者が同じように中国に渡った
そうです。その中でもいろんな人たちがいて(どんな人たちかは本を読んで
ください)、自分なりに思ったのは、何をするにも知性って必要なんだなと
いうことでした。
それは単なる学歴だけではなく、様々なことに思いを馳せられるか、であった
り、自分と周りにいる人を幸せにするための信念のようなものであったりする
ように感じました。
現代の私たちのような在外邦人でも色々な人がいますからね。知性は大事。
自分に知性があると言いたいのではなく、知性とは何かということを自分で
考えて他者に接していきたいということです。

大陸にいたためにいつも応援してくれた母の死に目にあえなかったという
エピソードも、つい自分と重ねて見てしまいました。
大きく辛い出来事を経験すると、人はその他の人たちの立場、状況、心情
にも思いを馳せることができるようになるような気がします。

そして経済的に困ったときに必ず誰かが手を差し伸べて、彼の生活、研究、
あるいは会社の存続までも助けようとするエピソードでは、いつも人から
助けられている自分とその姿を重ねて読んでいました。

うまく言えないけど、ホンモノだと軽薄に呼ばれるニセモノが多い今の時代、
自分がその道で本物でいるために必要なことがこの本から得られるのではないか、
そう感じて一気に読んでしまったのかもしれません。
得られるというのは違うかな、なんだろう、答え合わせをするという感覚でした。

国利民福と三島海雲は言いました。
企業は国を豊かにするだけではなく、国民を幸せにしないといけない
というような意味ですが、個人の利益のみが最優先事項みたいになってしまって
いる今の時代に、そんな思いで動ける人はそういないかもしれませんね。
でもきっとそれが国民の99.7%もの人が知っている商品を生み出した源
なんだろうと思います。

単なる本好きの素人としては、登場人物の多さと時代背景など難解に感じる
部分はあるかもしれないけど、モンゴルから一気に話が展開していくところ
まで読み進むことができれば・・・。
感覚的に、最初はとっつきにくい専門書のような感じで、あとのほうからはもう
少し重たさがなく「本を読む」というイメージで読むことができました。

それだけ三島海雲を語るには、多くの関係者がいること、日本が大きく動く
時代であったことがあるんでしょうけど、そのおかげで時代を旅するような
気持ちになりました。

三島海雲は、今のわたしたちが見直さないといけないことをずっとずっと昔に
すでに言ってくれていたんだな、と思います。
彼が息を引き取った1974年に自分が生まれたことにも、なにかあるなと勝手に
思ってしまったりしています。
先人の思いを継承できる、そんな人でありたいと改めて思わせてくれる本でした。

本のカバー紙はカルピスの瓶を包んでいたあの紙をイメージしたそう
「カルピスをつくった男 三島海雲」
山川徹 著 ・ 小学館

興味を持ってくれた人はぜひ買って読んでみてください。


2018/07/15

6月23日の講演 「家族の立場からの在宅看取り」

普段わたしがお話しするのはカンボジアのことが多いのですが、今回は
ちょっと違うテーマでの依頼でした。

4年前に父か癌で亡くなった時の、自宅での看取りのお話です。

緊張しました
一部では一人で、二部ではもう一人の登壇者岩崎順子さんと、司会の
伊藤さんと三人で質問にお答えする形でお話を。
定員100名のところを立ち見が出る130名ほどの方が集まってくださったそうです。



家族の、特に死に関する話をするのは・・・なかなか難しいですね。
求めていらっしゃる方もいるでしょうし、わたしの経験が誰かの役に立つの
かもしれない。

でも、たぶん、わたしはもう今後家族の看取りの話はしないように思います。

不特定多数の方に話すのは、かなりエネルギーが必要でした。

ということで、カンボジアのお話(から、今の日本で活かせることにつなげて
お話しています)であれば、帰国中都合がつく限り調整したいと思っています。
ご要望のある方はご連絡ください。

控室で
控室に置いてくださっていたのはお茶と、昨年の絵画展で購入してくださった
子どもたちの作品でした。
こういうお心遣いは本当にうれしいですね。

和歌山市第1在宅医療・介護連携促進センターの皆様、ありがとうございました。



2018/06/13

講演会のお知らせ②



何年か前から講演のお話はいただきながら、なかなか実現にいたらなかった経緯が
ありますが、泉南市人権協会の依頼で7月に講演をさせていただきます。

講演タイトルは固めになっておりますが、実際にお話しする内容は、人権・福祉
という少しとっつきにくい雰囲気のものではなく、どなたにも関係する身近な話として
おはなしできたらと、思っています。

♦平成30年度 第1回人権啓発講座♦
「カンボジア 福祉の現場から」

日時・2018年7月18日(水)午後2時から4時
場所・泉南市立市民交流センター 2階

参加無料・申し込み不要



最近、お話してくださいとのお話をよくいただけるようになっています。
私でお役に立つようなことがあれば、声をかけていただけたらと思います。


講演会のお知らせ①

しばらく告知の投稿が続くと思いますが、お付き合いください。

6月は2回、講演の依頼をいただいていますが、一つは学校の行事としての
おはなし会ですので告知はしません。

ということで、もうひとつの講演は・・・カンボジアのおはなしではない、
のです。


2018年6月23日(土)13:30~15:30
イオンモール和歌山 3階 イオンホール
参加費無料・事前に予約してください

予約 和歌山市第1在宅医療・介護連携推進センター
   TEL 073-488-3430(平日9:00~17:00)


「家族の立場からの在宅看取り」というテーマで、岩崎順子さんとご一緒
させていただきます。

もう10日後やん!というツッコミ、聞こえております。すみません・・・。

カンボジアのお話ではなく、4年前に末期がんの父を在宅で看取ったときの
体験をお話しいたします。

どんな見送り方をしても、準備していたつもりでも、残された家族には心残りは
あります。

それでも、そういった体験をしたわたしが事前にお話をさせていただくことで
今後誰の身に降りかかるかもしれないそういうときのために、すこしでも役立て
ていただけるといいなと思っています。


2018/05/10

今年もまた再会がありました

久しぶりの更新。もはやそれが当たり前になってしまっております。
それでもこれを読んでくださっている皆様、ありがとうございます。

今年は15年ぶりに春の帰国をいたしました。
カンボジアは4月がお正月、新年を迎える季節です。

タイへの出稼ぎ労働者が増えている近年、カンボジア正月に一時帰国する
人たちも多いのですが・・・。
帰国前に1通のメッセージを受け取りました。

「おかあさん、ぼくは4月にかんぼじあにかえります。おかあさんはいますか?」

送ってくれたのは、施設の卒業生サヴィの弟、サヴォでした。
何年も前からタイで暮らし、独学で習得したタイ語(読み書きも)を使って
工場内の通訳をしている、ということは知っていました。

サヴィ、サヴォ兄弟はもちろん施設に一緒に入ってきたのですが、その後
離れ離れで暮らすことになります。
結婚した姉が2人を引き取ると言ってきたとき、弟のサヴォは行くと、そして
兄のサヴィは行かないという決断をしました。

サヴィはここにいたほうが日本語を習得できると考えての決断でした。
サヴィについてはこのブログ内でも別記事で紹介しているので、お時間の
ある方は読んでみてください。

そのときに別れてからずっと会っていなかったサヴォとつながったのは昨年。
フェイスブックで私を見つけてくれたことがきっかけでした。

その時から何度となくメッセージをくれていた彼、時には日本語、時には
英語で交流していました。

ちょうどカンボジア正月に何年振りかの帰省をすると連絡をくれましたが、
あいにく私も日本に帰国が決まっていて、「あえないね。ざんねんです。」
と返信していました。

春の帰国を終えて、カンボジア正月最終日に戻ってきたわたしに、サヴォから
再度連絡がありました。

「いま、どこですか?」

彼はまだシェムリアップにいたんですね。
そしてすぐにうちまで顔を出してくれました。

私が知っているサヴォは小学生の少年で、でも目の前にいるのはまっすぐな
視線をなげてくる立派な青年でした。

翌日の早朝のバスでタイに帰るということだったので、30分ほど話しました。

サヴォの働く会社は携帯電話の部品などを組み立てているそうで、カンボジア人
従業員が300人ほどいるそうです。
彼は管理職のタイ人と労働者のカンボジア人をつなぐ通訳業務をしているとの
ことでした。

お兄ちゃんのサヴィはうちに残ることで日本語を習得し、現在は日本語ガイド
として活躍していますが、弟のサヴォもこうして語学で自立した生活をして
いることがわかり安心しました。
しかも私と話すときはできるだけ日本語を話そうと一生懸命でした。
子どものときに学んでいた日本語を覚えていてくれただけでもうれしかったです。
語彙が足りない部分はクメール語で補いつつの会話。
あっという間の30分でした。


別れ際、「元気でね」と声をかけると・・・

大きく両手を広げてハグしてきたんです。

すごくびっくりしました。

たぶんお兄ちゃんのサヴィなら恥ずかしがってやらないような気がします。

その瞬間だけ、少年のサヴォにもう一度会ったような気がしました。
無邪気に抱きついてくる少年に。
でもそのサイズは紛れもなく青年で、わたしはすっぽりと彼の腕の中に
包まれてしまっていました。
とても不思議な瞬間でした。

立派になったね
 20代半ばになったサヴォ、タイ語を習得するのにどれだけの努力をしたのか
隣の国とは言え異国で何年も暮らし、どんな苦労をしてきたのかと思うと
笑顔で別れたかったのに涙が止まりませんでした。

また会おうね。
会いに来てくれて、ありがとう。



2018/02/14

Yahoo!ニュース特集記事に掲載されました

前回のブログの冒頭で、「恐ろしいことに今年に入って初めての投稿です」みたいな
ことを昨年3月に書いているのですが、もっと恐ろしいことにその投稿からこの記事まで
一度も更新しておりませんでした。

正確に言うと書こうとしながら、うまく表現できず保存、そんなことを繰り返して
いるうちに月日が・・・
ええ、そうです、言い訳です。

で、告知です。

昨日の朝配信済みなのですが、Yahoo!ニュースの特集記事でメアス博子の
人物ルポを掲載していただいております。




Yahoo!ニュース特集
~挑戦者たちの背中~
カンボジア孤児たちの「おかあさん」日本人女性の奮闘

書き手はノンフィクションライターの山川徹氏。
写真は写真家の後藤勝氏。

1997年に初めてカンボジアを訪れて、2000年からスナーダイ・クマエで
働き始め今に至るまでのことや、カンボジア社会の変化、光と影の部分を
丁寧にルポしていただいております。



書き手の山川君は18年来の友人でもあります。
記事の中にもあるのですが、私がひたすらゴミを燃やしていたとき、一緒に
手伝ってくれていた青年が彼でした。
当時バックパッカーでしばらくカンボジアに滞在していた時期でした。

ジャーナリストになりたいと語っていた青年は、現在プロのノンフィクション
ライターとなり、できたばかりの孤児院で途方に暮れていた私から現在の私に
至るまでを見てくれていた人物でもあります。
あの頃はまさか山川君に書いてもらう日が来るとは思っていませんでした。
人生はどこにどうつながっていくかわからないものです。
でも一つだけ言えるのは、お互いに「辞めずに続けてきた」という共通点が
あります。

辞めることを批判するつもりも否定するつもりもありません。
辞める辞めないは自分が決断することですから。
ただ、わたしは辞めないでよかったと思っている、ということです。

おかげであの頃には見えなかった景色をたくさん見ることができています。

とはいえ、それは一人でやってきたわけではなく、周りの人たちの支えが
あってこそです。
だからこそ、わたしも誰かの支えになりたい、と思います。

その気持ちを自分の息子や、施設の子どもたちにも伝えたいと思うのです。

さらっと告知だけするつもりが、語ってしまいました・・・。

皆さん、山川くんの文章と、後藤さんの写真、どうかご覧ください。