2019/03/03

サイハー

卒業生にサイハーという男の子がいます。
一番手前が幼き日のサイハー

今は観光省発行のガイドライセンスを取得して、フリーランスのガイドとして自立しています。
最近彼女ができたらしく、SNSでは仲良さげな写真ばかり投稿しています(笑

今日、うちを訪問してくださったグループのガイドもさせていただいていたようです。

そのメンバーの方にこんなことを教えてもらいました。
サイハーが話したことらしいのですが・・・

スナーダイクマエを卒業できて本当によかった。
こんないい場所は他にないと思う。

ただし、それがわかるのは卒業してから。

子どもとして生活しているときは、お母さんが本当に怖かった。


怖かったと思いますよ、でもそれはやってはいけないことをしたときだけです。

子どもには媚びない主義なので(笑
(子ども以外にも、か・・・笑)

メンバーの方々は、気配りもしてくれて、とてもいいガイドさんだったと言ってくれていたのですが・・・。
卒業生大集合@わたしの部屋
この卒業生メンバーの中だと、一番頼りないのがサイハー・・・笑
いつもみんなに「大丈夫?」といじられています。

サイハーは両親の代わりに養育してくれていたおじさんに虐待を受けていた過去もあり、子どものときからかわいらしい顔とは裏腹に、その表情にはときどき憂いが見え隠れしていました。
自分の本音を容易には見せないようなところもあり、実際のところ、私にとっては少しわかりづらくやりにくい子どもでもあったんです。

そんなサイハーが、大人になった今、うちのことをいい場所だと第3者の方々に話してくれていたり、わたしのことが怖かったと本心を言ってくれたりすることが、わたしにとってなによりもうれしいことなんですよね。

答えはその時に出るわけではない、ということ。

ここにいるみんなの子ども時代に10年後を見据えた接し方を心がけていました、と今日の皆さんにもお伝えしたのですが、先にサイハーの話を聞いていたからか、余計に皆さんの心にも響いたようでした。

いわゆる大変なことっていうのは日々起きるのですが、こういう日があるとなんとなく幸せな気分になり、なんとなくごまかされて(笑)、また少しでも前に進む力に代わるんです。

幼少期、うちに来る前はつらいこともあったけど、今のサイハーは一人声を殺して夜中にひっそり泣いていた時のサイハーとは違います。
スナーダイクマエでたくさんの愛情を感じ育ち、今は人を愛することも知ってくれました。


今の子どもたちの10年後、どんな気持ちでスナーダイクマエを見てくれるようになるのかな。
それを楽しみにしながら、まだまだここでやっていくぞと思っています。





2019/02/19

先輩方からの言葉

ほんとに気ままに書いております、このブログ。
前回の投稿から一か月以上が経過(苦笑
無理して書くのは嫌なので、書きたいときに書きたいことを綴ります。


昨日、2018年度収支報告書が完成し、それをお伝えする意味もあり、メールで子どもたちの近況と共にお知らせを流しました。

すぐに何人かの方より返信をいただきました。

「スナーダイ・クマエが恵まれすぎている」という事は決してありません。
博子さんの血の滲むような努力の成果が、徐々に結実しているから素晴らしいのです。
内実をご存知の方は「この間のことを皆理解して下さっている」と、私は思います。

信じる道を歩まれる貴方の生き方が、子どもたちにとって、かけがえのない力です。
偉そうなことを書いて、ゴメンナサイ。
益々のご活躍を、深く深く祈っております。


スナーダイクマエには年間で数百人の訪問者が来られるのですが、たまに言われて返事に困る言葉があるんです。
それは「ここの子どもたちは他の家庭の子に比べて恵まれてますよね」という言葉。
それを言ってくださる皆さんがよい意味で発している言葉であることは、もちろん重々承知です。
でもとても困ってしまうのです。
外国語やパソコン、伝統舞踊などの教室、衣類や日用品、そしてみんなで暮らす立派な家。それらに恵まれていること、そしてそれを整えていく私たちスタッフへのお褒めの言葉であると、わかってはいるんですが・・・。

でも子どもたちは・・・本当の家族と暮らすことができない・・・

まずはこれが前提としてあると、私は思っています。
きっとさみしくて泣きたいときもある、そんな毎日の中で子どもたちが笑って過してくれることで、私たちスタッフがどれだけ救われるか。

こんな気持ちで毎日毎日を積みかさねていることを、すべて話さずとも理解してくださる方がいることは、どれだけわたしの力になるでしょう。



「クメール人による」日が着実にやって来るのだなあ、と強く感じます。
博子さんががっしり四つに取り組み 踏ん張って 
やってきたこと築き上げてきたことの全貌が現れることを 
この目で見たいので、もうちょっと生きていたいです。

これもうれしかったですね。
わたしがやっていることをまだまだ見続けたいと思ってくださる先輩がいる。

全く接点のないお二人からのメールだったのですが、どちらからも年下に対する広く温かい心を感じました。
行間からあふれ出る愛があると思いました。


気づけばカンボジア移住して20年です。
住み始めた頃、自分よりも年上の在住者が多かったのに、今では圧倒的に年下の方が多いという年齢になりました。
わたしもこのお二人のように、ひたむきに自分のすべきことに取り組んでいる人たちを大きな心で応援できる人になりたいなと思います。

先輩からもらったものは後輩につないでいかないといけませんね。
表面的に持ち上げられて喜ぶ人間にだけはなりたくない。
それに乗じて意味もなく年下の人の足を引っ張ることでしか自分の存在を確認できないような人にもなりたくないですね。

でも媚びることもしません。(笑

年齢にかかわらず、いいものは素直に褒めて喜ぶ人でいたいと思いました。
先輩方に改めて気づかせていただきました。
ありがとうございます。

うちの神様たちです



2019/01/09

1月7日

今から14年前の2005年から2006年の年越しはカンボジアで過ごしていました。

年が明けて1月8日、父から電話があり、1月7日に母が亡くなったと言われました。
元旦には母から電話もありましたが、他の人たちと会っている最中だったので、会話もそこそに切ってしまっていました。今となっては心残りでなりません。

父から伝えられる事実がなんのことかまったく理解できず、それを全身で拒否する自分がいた感覚を今でも思い出すことがあります。

その日から数か月間の自分の記憶が今でも曖昧です。

父の電話を受けて、翌日の便で息子を連れて帰国しましたが、どうやって関空までたどり着いたのか本当に覚えていません。

母はとても元気な人でした。
茶道と華道の講師をしていて、和歌山にある世界遺産熊野古道の研究もずっと昔からしていたので、古道を歩く方々のガイドをすることもありました。
母が亡くなったのは、その熊野古道を案内した直後のことでした。

わたしは幼いときから母が大好きでした。
父と母がケンカしても、理由はどうあれ無条件に母の味方でした。
学校のことやその日に起きた出来事は、なんでも母に聞いてもらいたかったし、母の考えを聞く時間も大切に思っていました。

でも思春期になったころ、少しだけ母を避けるようになりました。
茶道、華道の教室には当時何十人ものお弟子さんがいて、先生と慕われている母を見ていると疎ましい気持ちになりました。
今思えば、それはたぶん母を取られるような気持ちだったからなのかもしれません。
そして母をかなうはずもないのに、ライバルのように思う自分もいました。

結局は母が好きすぎて、そういうふうになったんだろうなと、今は思います。

シェムリアップに移住し、まったく教育されていない子どもたちに、生活習慣を1から教える日々になった時、気づいたことがあります。
それは、自分がいかに丁寧に育ててきてもらったか、ということです。

掃除、洗濯、片付け、食器洗いなどの家事を細かく子どもたちに教えながら、なぜ自分は自然とできることがこの子たちはできないんだろうと思いました。
教えてくれる人がそばにいなかったから、答えはそれしかありませんでした。
子どもたちが知らないことを知り、それを吸収すればするほどに、母の丁寧さを感じていました。

ようやく子どもたちに基本的な生活習慣や他者の気持ちを考えて行動することなどが定着し始め、この様子を母にも見てもらいたいと思っていたころに、母が亡くなりました。

そんなわたしに「今も見てくれているよ」と言葉をかけたくなる人もいると思います
それはもちろん善意からですし、言いたくなる気持ちはよく理解できます。
それでも、「でももういないんだよ、会話がしたい、母の考えを聞きたい、まだまだ教えてほしいことは山ほどあった、それはもう一生叶わないんだよ」という気持ちになってしまうことも否定できないんです。
それだけ深い悲しみがあります。

母が亡くなって13年が経って、2014年に父も亡くなりました。
あまり好きではなかった父でしたが、母が亡くなってからはわたしの心のよりどころになってくれていたので、二人とも早すぎるでしょう、といつか会った時に言いたいと思っています。

息子が反抗期の頃、わたしは自分が母を嫌った時期を思い出していました。
子どもたちと接するとき、息子はそれをどう思って見ているんだろうという思いはいつも頭の片隅にありました。
お弟子さんたちをとても大切にしていた母も、もしかしてわたしが息子を思うような気持ちを持ちつつ、お弟子さんたちに接していたのかもしれないと、息子の成長と共に思うようになりました。

息子は今、私と離れて日本で暮らしています。
時々電話で話すこともあるのですが、よっぽどでないかぎり、話をそこそこにして切ってしまうことはしないようにしています。
息子も同じ気持ち、いやわたし以上にそうしてくれていると思います。


今でも問題に直面したとき、母だったらなんと言ってくれただろうと考えます。
それを想像しながら答えを見つけようとします。
時が経って、自分のやってきたことに納得がついたときに、答え合わせが完了したような気持ちになります。
母が亡くなり、ずっとずっと大きな宿題を抱えながら、時折こうして答え合わせをして前に進んでいるような気がします。


母のことを尊敬していますが、一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、

死ぬのが早すぎた

ということでしょうね。


だからわたしは母と自分の生きてきた道のりを直接話したり、父と母に「早すぎたでしょう」と伝える日は、ずっと先にとっておきたいと思っています。
離れていた間に起きた出来事を山のようしておいて、話が尽きないように。
これからまだしばらくは、それをたくさん準備させてもらいます。


母からわたし、わたしから息子へ
つながっているものがあります

2018/12/27

明日を信じることができる

前回投稿からそんなに経っていませんが、今月中に書かないと今年が終わってしまうという焦りも少しあり、今日を今年の最後の投稿にしたいと思います。
自分勝手な投稿頻度にもかかわらず、お付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。



先日、神戸のある大学の先生と施設勤務をされている方が、ご自分たちの研究の参考にと訪ねて来られて、いろいろな質問を受けました。

施設の創立時から今に至る歩みを時系列に説明していく中で、色々な記憶がよみがえります。

そこで出てきたキーワードが「図らずも」でした。

うちの施設は1998年の創立時、貧困家庭から子どもを受け入れて養育していました。
2000年にわたしが働くようになり、詳細は省きますがどういった子どもを受け入れるのかについて向き合わざるを得ない出来事がたくさんありました。
そんな中、現在の虐待児の受入れに舵を切り始めて15年ほどが経ちました。

内部の細かいルールやスタッフの構成、子どもたちの受入れに関する手続き方法など、一度立ち止まってはそのときの最善を考えるということを基本に進めてきたつもりです。

そして今、それらが「図らずも」カンボジアの福祉政策などの時流に添ったものになっていることに気づきます。

現在は「貧困」だけを理由に子どもを施設で預かることは、国の方針として推奨されていません。
子どもを預かる際の手続きも、そこに子どもがいるからと言って勝手に連れてきたり、その日から勝手に住み始めるということもできません。
(うちは福祉局、警察、村長などの証明を出してもらい保管しています)

外部からの訪問者に関してもそうです。
うちはかなり早い段階(2000年代はじめごろ)から、アポイントメントがない方の訪問はお断りしていました。

年に2回、福祉局から抜き打ちの査察が入ります。
子どもたちの住環境や栄養状態など生活の基本から、教育環境なども徹底的に調べられるのですが、最近特に聞かれるのは、入所する子どものバックグラウンド、訪問者への対応、そして卒業生たちへのモニタリングです。

バックグラウンドに関しては、そもそも養育の要請があった際に福祉局の許可を得ていますので問題ありません。
訪問者はすべてアポなしお断り、訪問者記録もつけています。
卒業生のモニタリング3年なども、うちは卒業してからも普通に交流があるので、あえてしなくても近況は把握している状態です。

代表的な3つの事柄をここに書きましたが、それ以外の細かなところも「いずれ福祉局の取り締まりが始まるから」あるいは「取り締まりが始まったから」といって慌ててそうしたわけではなく、もともとやっていたことがチェックポイントに合致しています。

カンボジアの社会はここ10年でも大きく変化しています。
子どもたちを取り巻く環境がどんどん変わっていくんです。
その変化に対応しつつも、自分たちの信じるものを守っていかねばなりません。

ただひたすら、その小さな積み重ねが今につながっていると実感します。

神戸の先生方よりももう少し前に、和歌山の高校の先生も来られて少しお話をしました。

そのときに2人で話したのが、つらいことやしんどいことの方が多いかもしれないけど、なんでここまでやってこれたのかというと、そのしんどいことの途中でも「やっててよかったな」と思えることが点々とちりばめられていて、その瞬間は辛いことがなくなったような気持ちにさせられてしまうからでしょうね、と。
なんとなくごまかされてしまいますよねと笑いながら、そんな話をしました。

何人かの先生方とお話する機会をいただき、図らずもやってきたことが今につながり、ときどきあるご褒美のような楽しいこと、うれしいことのおかげで少しでも前に進むことができる、そんな日々を思い返しました。

みんなそうやって生きているのではないかな、と思うんですよね。

少なくともわたしは、そういう日々に気づく瞬間があるから、もし今困難にぶつかっていたとしても、明日を信じて生きていけるのかなと思ったりします。

結局わたしの生き方とは、地味と言われようが、頑固すぎると言われようが、自分のペースを守って、一つずつ丁寧に重ねていくこと、です。
そして日々の小さい喜びを見逃さずに、明日を信じる力にしていくことなんだと思います。



今年も本当にたくさんの方々に支えられ、お世話になり、子どもたちを護る、そんな毎日を送ることができました。
関係してくださったすべての皆様に、こころからお礼申し上げます。
ありがとうございました。

皆様、どうかよいお年をお迎えください。
そして・・・これからもわたしたちとお付き合いいただけましたら、うれしく思います。




2018/11/09

大きな足跡

今日はカンボジアの独立記念日です。
私が生まれる20年前に、カンボジアはフランスから独立しました。
もし今カンボジアで暮らしていなかったら、そんな歴史も全く知らないまま暮らしていたんでしょうね。
独立後のカンボジア、1970年代のいわゆるポルポト時代を経て、国連主導の民主的選挙により今の政権が誕生がして25年が経ちます。
1990年代前半、ニュース番組などで日本から派遣された自衛隊のPKOのことや民間からの選挙監視員、文民警察の報道を見聞きしていました。

そのときすでにカンボジアの首都プノンペンに移住し、旅行会社を経営していた女性がいるのです。

大塚めぐみさん、といいます。

当時は観光客がほとんどなかったので、PKO派遣されてきた自衛隊やカンボジア情勢を伝えるために駐在していた報道関係者に対しての手配業務を主にしていたと聞いています。
時間があればセントラルマーケットに行き、市場のおばさんたちと会話することでクメール語を習得したそうです。

わたしが彼女に会ったのは2003年です。
カンボジアの子どもたちと日本の若者ををつなげるようなツアーを作りたいとの相談を受けました。
実はそういうお話は他からもよくあったのですが、スナーダイクマエでは数日間に渡り同じグループを受入れるということはしていませんでした。

めぐみさんと初めて会った時、彼女が若いころに児童養護施設の指導員をしていたことを聞きました。
施設に外部の人を入れることがどれだけ大変か、施設の中の人としての見解を持った人だったこともあり、常に「施設に迷惑をかけないこと」を前提にお話をしてくれました。
子どもたちが普段どのように生活をしているのか、訪問しても普段の生活をできるだけ乱さない時間帯や曜日はいつなのか、丁寧にきいてくれました。

それはわたしが一番気にしていたことでもあったので、この人とならなにか一緒にやってみたいと思うことができました。

結局そのツアーは15年も続き、何千人という日本の若者がスナーダイクマエを訪れ、わたしたちの教育方針に触れ、そのもとで育っている子どもたちと交流をしていきました。
ツアーが始まった当時、子どもとして参加していたパナーはのちに得意の日本語を活かし、めぐみさんの会社で観光ガイドして雇っていただきました。
彼がそのツアーをアテンドしてくる姿を見ると、15年という月日の長さを感じました。
彼もまた、めぐみさんと同様に、受け入れる側の立場をわかってアテンドしてくれる貴重な存在で、わたしも心強かったのです。

めぐみさんは歯に衣着せぬ物言いで、ときには厳しく、いや、厳しすぎて相手の誤解を招くことも多々ありました。
わたしも出会った20代後半からの10年ほどは、あまりにきつい言葉に何度も部屋で泣きました。

めぐみさんのことが苦手で、嫌いで、仕事以外では会いたくないと思うときもありました。

それでもめぐみさんは最終的にとてもかわいがってくれました。
たしかにめぐみさんの言葉はきついのですが、翌日思い返すと「もっともだな」と感じることも多かったのです。
そして最初に否定的にとらえた事柄でも、いい点をみつけるとそこに関しては素直に認めて褒めてくれる面も持った人だったので、そこに救われてきたこともありました。
それゆえに、メールの返信や会った時の返答の際には、わたしなりにめぐみさんへの敬意をもって対応してきたつもりでした。
それがめぐみさんに伝わったのかもしれないし、今になってですが、そうしてきてよかったなと思っています。

わたしは30代で母を、そして40になったときに父を亡くしました。
それと前後するようにめぐみさんもご両親を亡くしました。
人生の中で親を失うという大きな出来事、そのときの気持ちを共有することで、わたしとめぐみさんの関係はとても縮まったように思っています。
めぐみさんに言ったことはないけど、お母様を亡くした後のめぐみさんは言葉に角がなくなって、優しくなった印象があります。
「私の年齢でも親を亡くしたらこんなにつらいのに、博子ちゃんはもっと早くにご両親を亡くして・・・」と言ってくれたとき、自分の気持ちに乗せてわたしのことまで思いをめぐらせてくれたことが強く伝わってきました。

知り合って10年が過ぎた頃からは、節度を守りつつも、なんでも話せる関係になったように思っています。
お互いに共感を持ったり、価値観を共有できるタイミングが、わたしたちにとってはそのころだったのかなと、今はそんな風に受け止めています。

人との信頼関係はすぐに構築できるものではないし、そこに相手を尊重する気持ち、適度な距離感がないと続かないものだということ、めぐみさんとの関係を通じて、ゆっくりと時間をかけて、わたしは体験的に知りました。

そんなめぐみさんが今年の9月末で会社を閉めて、帰国するという決断をされました。
少なくとも週に1度は食事をしている仲になっていたので、めぐみさんが本当に帰国する直前まで実感がわきませんでした。

在住の有志により、めぐみさんの送別会をしたとき、自分でもびっくりするくらい涙がぼろぼろとこぼれてきました。
わたし自身のシェムリアップ生活18年の中で、これほどまでに色濃く、足跡をくっきりと残してくれた人は他にいるのだろうか、と。
嫌いでたまらなかったときもあるのに、そのときのわたしは素直に「さみしい」と涙を流していて、そのわたしをしっかりと抱きしめてくれているめぐみさんがいました。
しっかりと抱きしめてくれました

めぐみさんから、「カンボジアの人たちに生かされてここまでやってきた。だからカンボジアの人たちを悲しませることはしてはいけないんです。」という言葉をよく聞いていました。

めぐみさんがカンボジアを去ることになっても、わたしはそのめぐみさんの言葉を自分のものにして、受け継いでいきたいと思っています。
わたしがこれまで子どもたち、そして一緒に働いてくれているスタッフを大切にしようと思ってこられたのは、めぐみさんから何度も聞いていたこの言葉があったからです。

最後に最後に2人で会った時、めぐみさんから贈り物をもらいました。
それはゴールドの指輪でした。

「博子ちゃん、これから自分でもときどきお金を足してこの金を大きくしていってね。
いざとなったら売ればいいのよ。」

と、にこにこ話すめぐみさんを前にして、わたしもこんな大人になりたいと思いました。
もう十分大人の年齢なのですが、先輩たちの姿を追いかけながらも、若い人たちには自分が先輩からしてもらってきたことを返していける大人になりたいなと思ったのです。

ありがとうございます
お酒好きなめぐみさんにお付き合いしているうちに、最近少しは飲めるようになってきたので、次にめぐみさんと会うときは白ワインで乾杯したいと思います。

めぐみさん、長年にわたるカンボジア生活、本当におつかれさまでした。
かなり荒っぽいやり方だったのは否めませんが、わたしに色々なことを教えてくれて、ありがとうございました。
いただいた指輪、肌身離さず大事にしています。

日本での再会を楽しみにしています。

2018/09/18

読書感想文・カルピスをつくった男 三島海雲

面白かった。
時代を旅するような気持ちで読み進めたのは、久しぶりの感覚かもしれません。

この本、夏の帰国中に手に入れていたものの、忙しいこともあり読書に集中
できず、読みかけのままカンボジアに戻る機内で読もうと取ってあったのです
が、関空にへの道中で家に置いてきてしまったことに気づきました・・・。

友人にも渡そうとスーツケースにもう1冊入れていたので、了承を得て先に
読ませてもらうことができたのは幸いでした。

どうせ読むなら最初から読み直そうと、手に取ったのが夜11時。
約3時間半で読了。
あまりに面白くてどんどん読み進めたのと、半分くらいはおさらいする感じで
読んだから早かったのかもしれません。

カルピスって国民の99.7%が知っている飲料なんだそうです。
年間で1000種類の新しい飲料が出て、1年後に残っているのはほんの数種類
だけという中で、残るだけでもすごいんだけど、カルピスってみんながそれぞれ
になにかしらの思い出というかエピソードがありますよね。
それを誰かに話したら共感されて、「そうそう!」となることも想像できます。
そんな飲料って他にあるかな・・・。

しかもそれだけ知られた国民的飲料なのに、それを作った人がどんな人なのか
一般的には周知されていない、という。

三島海雲が仏教の僧侶だったり、時代背景から大陸を目指した若者だったり、
というような書評は色々なところで読めるので、私はもうちょっと身近な
所の感想を書きたいと思います。

最初に旅するように本を読んだと書きました。
20年前にカンボジアに来た時のころを思い出すような、そんな気持ちもあり
ました。
三島海雲が大陸を目指したころ、たくさんの若者が同じように中国に渡った
そうです。その中でもいろんな人たちがいて(どんな人たちかは本を読んで
ください)、自分なりに思ったのは、何をするにも知性って必要なんだなと
いうことでした。
それは単なる学歴だけではなく、様々なことに思いを馳せられるか、であった
り、自分と周りにいる人を幸せにするための信念のようなものであったりする
ように感じました。
現代の私たちのような在外邦人でも色々な人がいますからね。知性は大事。
自分に知性があると言いたいのではなく、知性とは何かということを自分で
考えて他者に接していきたいということです。

大陸にいたためにいつも応援してくれた母の死に目にあえなかったという
エピソードも、つい自分と重ねて見てしまいました。
大きく辛い出来事を経験すると、人はその他の人たちの立場、状況、心情
にも思いを馳せることができるようになるような気がします。

そして経済的に困ったときに必ず誰かが手を差し伸べて、彼の生活、研究、
あるいは会社の存続までも助けようとするエピソードでは、いつも人から
助けられている自分とその姿を重ねて読んでいました。

うまく言えないけど、ホンモノだと軽薄に呼ばれるニセモノが多い今の時代、
自分がその道で本物でいるために必要なことがこの本から得られるのではないか、
そう感じて一気に読んでしまったのかもしれません。
得られるというのは違うかな、なんだろう、答え合わせをするという感覚でした。

国利民福と三島海雲は言いました。
企業は国を豊かにするだけではなく、国民を幸せにしないといけない
というような意味ですが、個人の利益のみが最優先事項みたいになってしまって
いる今の時代に、そんな思いで動ける人はそういないかもしれませんね。
でもきっとそれが国民の99.7%もの人が知っている商品を生み出した源
なんだろうと思います。

単なる本好きの素人としては、登場人物の多さと時代背景など難解に感じる
部分はあるかもしれないけど、モンゴルから一気に話が展開していくところ
まで読み進むことができれば・・・。
感覚的に、最初はとっつきにくい専門書のような感じで、あとのほうからはもう
少し重たさがなく「本を読む」というイメージで読むことができました。

それだけ三島海雲を語るには、多くの関係者がいること、日本が大きく動く
時代であったことがあるんでしょうけど、そのおかげで時代を旅するような
気持ちになりました。

三島海雲は、今のわたしたちが見直さないといけないことをずっとずっと昔に
すでに言ってくれていたんだな、と思います。
彼が息を引き取った1974年に自分が生まれたことにも、なにかあるなと勝手に
思ってしまったりしています。
先人の思いを継承できる、そんな人でありたいと改めて思わせてくれる本でした。

本のカバー紙はカルピスの瓶を包んでいたあの紙をイメージしたそう
「カルピスをつくった男 三島海雲」
山川徹 著 ・ 小学館

興味を持ってくれた人はぜひ買って読んでみてください。


2018/07/15

6月23日の講演 「家族の立場からの在宅看取り」

普段わたしがお話しするのはカンボジアのことが多いのですが、今回は
ちょっと違うテーマでの依頼でした。

4年前に父か癌で亡くなった時の、自宅での看取りのお話です。

緊張しました
一部では一人で、二部ではもう一人の登壇者岩崎順子さんと、司会の
伊藤さんと三人で質問にお答えする形でお話を。
定員100名のところを立ち見が出る130名ほどの方が集まってくださったそうです。



家族の、特に死に関する話をするのは・・・なかなか難しいですね。
求めていらっしゃる方もいるでしょうし、わたしの経験が誰かの役に立つの
かもしれない。

でも、たぶん、わたしはもう今後家族の看取りの話はしないように思います。

不特定多数の方に話すのは、かなりエネルギーが必要でした。

ということで、カンボジアのお話(から、今の日本で活かせることにつなげて
お話しています)であれば、帰国中都合がつく限り調整したいと思っています。
ご要望のある方はご連絡ください。

控室で
控室に置いてくださっていたのはお茶と、昨年の絵画展で購入してくださった
子どもたちの作品でした。
こういうお心遣いは本当にうれしいですね。

和歌山市第1在宅医療・介護連携促進センターの皆様、ありがとうございました。