2019/05/05

一番のおともだち

早くも令和最初のブログ更新です。
褒めてください(笑


昨夜、カンボジア生活の苦楽を10年以上にわたって共有してきた友人とその娘さんと食事しました。

娘さんとは生まれたときからのお付き合い。
と、わたしが勝手に言ってるだけですが・・・。
初めての出産子育てで友人が大変だった時、わたしがどれだけ役に立ったのかはわからないけど、気休めくらいの存在ではいられたかなと自負しております。

そんな娘さんも、もう中学生になりました。

とてもシャイで、たまに御飯に行っても静かにしていて、私と話すことはほとんどありません。
もう少し小さいときはわたしが変顔をすると、静かに微笑んでくれていましたが、最近は彼女も大人びてきたので、わたしも変顔は控えています。

そんな彼女がなんだかもじもじしながらお母さんに向かって、「今出していいの?」と聞いています。
レストランで席についてすぐのことでした。
お母さんにうながされ、出してくれたのがこれです。

これはまさか・・・
最初FRIENDと書かれたほうだけくれたんですが、それでもそれがなんなのかわたしにもわかりましたよ。

お母さんがすかさず「自分の方も見せてあげないと、ひろこちゃんにわかりにくいよ。」と言ってくれたので、もう片方を出してくれてドッキング。

BEST FRIENDのハートができました。

去年かおととしくらいのことだったと思うのですが、市内のインターナショナルスクールに通う彼女が、

My best friend in Siem Reap is ひろこちゃん

と言ってくれたことがありました。


うれしかったのでずっとそのことを覚えていました。


とはいえ、もう中学生になった彼女がいまだにこんなふうに思ってくれていたなんて・・・。

シャイでほとんど話すことのない彼女がそんなふうに言ってくれるというのは、きっとわたしと自分のお母さんの関係を見てくれているからなんだと思います。
友人とはしょっちゅう会うわけではなく(彼女は仕事が忙しくてなかなか会えないのです)、数か月に一度の会食を楽しみにするような仲です。
子どもって自分のお母さんを大事にしてくれたり、本当にきちんと付き合っている人のこと好きになりますよね。
わたしが子どものときはそうでした。
表面上だけの人って子どもでもわかるんです。

だからこれは娘さんとわたしの友情の証であると共に、彼女のお母さんとわたしの関係を認めてくれている証でもあるわけです。

カンボジアに長年住んでいるわりには、交友関係はあまり広くなく、とっつきの悪い人と思われているかもしれませんが、わたしが求めているのは広く浅くの関係ではなく、こういう人間関係なんだと改めて感じさせてもらう出来事でした。

子どもに教えられることってほんとにたくさんあります。

あと、子どもの視点も。
しっかり大人のことを見つめている、ということを忘れてはいないなと思いました。

ありがとう、一番のおともだち。

2019/04/30

平成最後の ←言いたいだけ

平成最後でも令和最初でもええやんと思っていたのですが、令和最初はいつでも書けるけど、平成最後は今日しかないかと思い直して書き始めました。


わたしが初めてカンボジアの地を踏んだのが1997年、平成9年のことです。
昭和が終わるときはたしか中学3年生だったのかな。
ちょっと話がそれますが、この年に昭和の歌姫・美空ひばりが亡くなって、子どものくせに妙に悲しみにふけっていた時、クラスのイケイケの女子に「ひばりちゃん亡くなったなあ、さみしいわ」と言われて、このイケイケ女子もひばりちゃん好きやったんか!と驚いたことだけは鮮明に覚えています。
ひばりちゃんが亡くなって昭和が終わった・・・という感覚を持っている人もたくさんいるのではないかと思います。

わたしたちは昭和後期の記憶もはっきりあり、平成も初めから終わりまでちゃんと覚えている世代になるんですね。
そんなことあまり考えたことなかったけど。

そしてその平成の三分の二くらいはカンボジアで過ごしたことになります。

だからわたしは平成時代の日本を肌で感じる機会が少ないままに、今に至りました。


先日平成生まれの(息子と同い年)若者二人が施設を訪問してくれたのですが、そのときにこんな話をしました。


「イマドキの若者は」という言葉、これってどの世代も若いときに必ず言われるものだと思うんです。
そのときそれを言う人が物事を判断する基準は、自分たちの生きてきた時代なんですよね。
言い換えれば「自分たちの頃はこうだったのに」みたいな気持ちが強い。
まあ自分たちが一番と思いたいのは人の常なので、ある程度はいいんですけど。


わたしの母は戦後生まれ、父や叔父、叔母たちは戦前生まれでした。
母は親戚が集まったりしたあとに、よく「戦前の人たちの考えが自分には理解しづらいけど、教育の違いなんかなあ」と言っていました。
そして自分が開いていた茶道や華道の教室に来る若い生徒さんたちに「今の若い子はしっかりしてる。自分の考えをちゃんと発言できるし、わたしらの若いときと違うわ。」とも言っていました。

自分と違う世代の人たちを知ろうとか理解しようする気持ちが見て取れました。
特に若い人たちへの期待が。

自分たちはこうだったからと相手に押し付けると、相手はその時代を知らないから混乱するんでしょうね。
その人たちが生まれたころ自分は大人になっていたわけなので、その感覚のギャップを埋めようと思ったら、想像したり、その世代の人たちの話をたくさん聞くしかありません。

「それが足りないからいつまで経っても理解し合えないのだとしたら、若い人たちの話を聞いてみたいな。こっちの感覚を押し付ける前に。みんなにもわたしらのことを理解してもらいたいから。」と、彼らに話していました。

母の影響もあるし、平成のほとんどをカンボジアで過ごし、平成時代の日本を直接感じる機会が少なかったこともあるでしょう。
実際のところ、平成後半に生まれた人たちが、日本とか社会にどんな感覚を持って子ども時代を過ごしたのかは興味があります。

「今日はここまで来て、色々と話を聞かせてくれてありがとう」
という言葉が自然に出ていました。

そしてもう一つ。

イマドキの若い子たちを育てたのは誰なのか、ということを忘れてはいけないと思います。
あいさつができないなど礼儀がなってないという話もよく聞くけど、教えられてないからじゃないのかな。
もちろん実際にそういう人に会うと不愉快でムッとしてしまう自分がいるんですけど、落ち着いて考えると教えてもらってないことはできないし、教えなかった周りの大人の罪を感じたりします。
自分たちの時代がよかったと思うなら、それを下の世代に伝えないとね。
教えてもらえずに大きくなった人たちが気の毒でもあります。
反対にきちんとできる子にも会うんですけど、そのときは「ご両親、近くにいたであろう大人の皆さん、ありがとう」と思います。


毎日のなんでもない日々に当たり前のことを当たり前に積み重ねておかないと、10年とか20年経ったときに取り返しのつかない澱のようなものがたまってしまう、大人の責任ってこういうところにあるのかな、と。


取り返しのつかないと書きましたが、取り返しはつくんですよね、きっと。
それは今日からでも、そのなんでもない当たり前のことを積み重ねる日々を始めることなんです。

結果がいつわかるのかわからないことに取り組むのって難しいんですけど、自分と自分の近くにいる人への愛とか思いやりがあればできる、というか、やらないとね。
そのためにはなんでも他人事にしないで、自分は何ができるのかと考えで行動することが大切です。

明日から始まる令和をそんな時代にしたいなって思います。
地味に。淡々と。静かにこっそりと決意表明です。


2019/04/22

答えは自分の中に

SNSが身近なツールとなって久しく、なんでもかんでも思ったことをすぐに全世界に公表できるようになりました。

基本的に誰かを傷つけるとか攻撃するための言葉でなければ、全世界に思いのたけを叫んでも全然いいと思ってます。
あとはネガティブな感情は、わたしは書かないように気をつけてます。


わたしのような職業をしていると、自分の活動をお知らせするとき、ともすれば「誰かのために」とか上から目線に見えたり、自慢げな内容、不遜な表現になってしまう(そう受け止められてしまう)こともあるかもしれません。

わたしにとって、他人からそう思われることは穴に入りたいくらい恥ずかしい話なので、本当にそんなふうになりたくないと思っています。


伝えることって比較的やりやすいのですが、黙っていることって難しいのかもしれません。
昔がよかったというわけではないのですが、わたしが今の仕事を始めた頃にはSNSどころかインターネットもほぼ整備されていない状態だったので、誰にも知られずに黙々とやるしかなかったんです。
誰かに知ってほしいという欲求すらなかったです。

伝える術がお手紙かパソコンのメールしかなかったし、その瞬間に誰かの反応を知ることもありませんでした。


今は今日の子どもたちの様子をこの瞬間に皆さんにお知らせすることもできるし、そういう意味ではほんとに便利になったなあと思います。


そういうツールを持たない頃から今の仕事をしてきた私が、黙ってやることやってればいい、とか言うと「今はそんな時代ではない」とか「自分をどう見せるかを考えたほうがいい」とかいう意見もあるんですが。


わたしは・・・


本当に自分の等身大の姿を生身の人間として知ってくれている人が一人でもいる限りは、虚像みたいなものを作りたくないなあと思っています。

たった一人でも自分が大切に思う人に疑問に思われるような見せ方をしたり、現状を知っている人がいるのに事実よりも自分を大きく見せることで、その人たちから幻滅されたり、失望されるのは耐えられないなと思うんですよね。
いや、ほんまに、それは恥ずかしすぎる・・・ない、ない。

それと引き換えに、顔も名前も知らない人たちからたくさんの称賛を得て、なにになるんだろうとしか思えません。
そんなことで身近な友人の信頼をなくすことのほうが、とんでもなく怖いことです、わたしにとっては。


今取り組んでいること、悩んでること、それでも何とか進んでいること。
自分の持ち場があり、そこで真剣に向き合っている人は他の誰かの見えない部分を想像することができます。
全部言わなくても、黙っていてもわかってれる人がいるということです。

でもなあ、人間だから、言いたくなりますよね。

そんなときはやはり生身の人間に話すことが一番です。
しんどいねん・・・、と言える人がいるかどうか。
それが今の等身大の自分だから。



ずっと前にこのブログに、父がわたしに「お前のことはお前にしかわからん」と言ったという話を書いたことがあります。
転じて、「知らない人が言うことは気にするな」という風にわたしは受け止めました。


「世の人はなにをぞ言わば言え 我が為すること我のみぞ知る」

という坂本龍馬の言葉から来ているのかな、と思ったりするのですが。
「龍馬のこういう言葉があってな・・・」と説明せずにいうあたりがうちの父らしさがあります。

なんでもかんでも言わないとわかってくれないたくさんの人からその時限りの誉め言葉を得るよりも、黙っていても理解しようとしてくれる人がいることのほうが、わたしにとっては幸せであり、大きな支えになるのです。


頑固で、わかりづらくて、怖そうとか言われるけど、わたしはそうだから仕方ないです。
自分を偽ること、本当の姿よりも立派に見せることって、他の誰よりも自分自身が一番つらいように思います。

便利なツールに使われるのではなく、うまく使って自分の本当の姿と子どもたちの今を知ってほしいなと思っています。

よくこのブログにも書いていますが、自分のやりかたと違うことをする人を否定はしません。
わたしはそう思う、ということを文字にしてみました。
なんか黙っていられなくて、わざわざ。



で、もう一つ黙っていられないことがありますのでここに告知します(笑

今年も子どもたちの絵画展開催します。
よろしくお願いいたします。

わたしは絵画展のために一時帰国するのですが、合間に色々なところからお声をかけていただき、講演会やおはなし会をする機会をもらっています。
(現時点で10会場ほど)

もしもまだほかにもお話をさせていただける機会があれば、受け付けておりますのでご一報ください。

2019/03/03

サイハー

卒業生にサイハーという男の子がいます。
一番手前が幼き日のサイハー

今は観光省発行のガイドライセンスを取得して、フリーランスのガイドとして自立しています。
最近彼女ができたらしく、SNSでは仲良さげな写真ばかり投稿しています(笑

今日、うちを訪問してくださったグループのガイドもさせていただいていたようです。

そのメンバーの方にこんなことを教えてもらいました。
サイハーが話したことらしいのですが・・・

スナーダイクマエを卒業できて本当によかった。
こんないい場所は他にないと思う。

ただし、それがわかるのは卒業してから。

子どもとして生活しているときは、お母さんが本当に怖かった。


怖かったと思いますよ、でもそれはやってはいけないことをしたときだけです。

子どもには媚びない主義なので(笑
(子ども以外にも、か・・・笑)

メンバーの方々は、気配りもしてくれて、とてもいいガイドさんだったと言ってくれていたのですが・・・。
卒業生大集合@わたしの部屋
この卒業生メンバーの中だと、一番頼りないのがサイハー・・・笑
いつもみんなに「大丈夫?」といじられています。

サイハーは両親の代わりに養育してくれていたおじさんに虐待を受けていた過去もあり、子どものときからかわいらしい顔とは裏腹に、その表情にはときどき憂いが見え隠れしていました。
自分の本音を容易には見せないようなところもあり、実際のところ、私にとっては少しわかりづらくやりにくい子どもでもあったんです。

そんなサイハーが、大人になった今、うちのことをいい場所だと第3者の方々に話してくれていたり、わたしのことが怖かったと本心を言ってくれたりすることが、わたしにとってなによりもうれしいことなんですよね。

答えはその時に出るわけではない、ということ。

ここにいるみんなの子ども時代に10年後を見据えた接し方を心がけていました、と今日の皆さんにもお伝えしたのですが、先にサイハーの話を聞いていたからか、余計に皆さんの心にも響いたようでした。

いわゆる大変なことっていうのは日々起きるのですが、こういう日があるとなんとなく幸せな気分になり、なんとなくごまかされて(笑)、また少しでも前に進む力に代わるんです。

幼少期、うちに来る前はつらいこともあったけど、今のサイハーは一人声を殺して夜中にひっそり泣いていた時のサイハーとは違います。
スナーダイクマエでたくさんの愛情を感じ育ち、今は人を愛することも知ってくれました。


今の子どもたちの10年後、どんな気持ちでスナーダイクマエを見てくれるようになるのかな。
それを楽しみにしながら、まだまだここでやっていくぞと思っています。





2019/02/19

先輩方からの言葉

ほんとに気ままに書いております、このブログ。
前回の投稿から一か月以上が経過(苦笑
無理して書くのは嫌なので、書きたいときに書きたいことを綴ります。


昨日、2018年度収支報告書が完成し、それをお伝えする意味もあり、メールで子どもたちの近況と共にお知らせを流しました。

すぐに何人かの方より返信をいただきました。

「スナーダイ・クマエが恵まれすぎている」という事は決してありません。
博子さんの血の滲むような努力の成果が、徐々に結実しているから素晴らしいのです。
内実をご存知の方は「この間のことを皆理解して下さっている」と、私は思います。

信じる道を歩まれる貴方の生き方が、子どもたちにとって、かけがえのない力です。
偉そうなことを書いて、ゴメンナサイ。
益々のご活躍を、深く深く祈っております。


スナーダイクマエには年間で数百人の訪問者が来られるのですが、たまに言われて返事に困る言葉があるんです。
それは「ここの子どもたちは他の家庭の子に比べて恵まれてますよね」という言葉。
それを言ってくださる皆さんがよい意味で発している言葉であることは、もちろん重々承知です。
でもとても困ってしまうのです。
外国語やパソコン、伝統舞踊などの教室、衣類や日用品、そしてみんなで暮らす立派な家。それらに恵まれていること、そしてそれを整えていく私たちスタッフへのお褒めの言葉であると、わかってはいるんですが・・・。

でも子どもたちは・・・本当の家族と暮らすことができない・・・

まずはこれが前提としてあると、私は思っています。
きっとさみしくて泣きたいときもある、そんな毎日の中で子どもたちが笑って過してくれることで、私たちスタッフがどれだけ救われるか。

こんな気持ちで毎日毎日を積みかさねていることを、すべて話さずとも理解してくださる方がいることは、どれだけわたしの力になるでしょう。



「クメール人による」日が着実にやって来るのだなあ、と強く感じます。
博子さんががっしり四つに取り組み 踏ん張って 
やってきたこと築き上げてきたことの全貌が現れることを 
この目で見たいので、もうちょっと生きていたいです。

これもうれしかったですね。
わたしがやっていることをまだまだ見続けたいと思ってくださる先輩がいる。

全く接点のないお二人からのメールだったのですが、どちらからも年下に対する広く温かい心を感じました。
行間からあふれ出る愛があると思いました。


気づけばカンボジア移住して20年です。
住み始めた頃、自分よりも年上の在住者が多かったのに、今では圧倒的に年下の方が多いという年齢になりました。
わたしもこのお二人のように、ひたむきに自分のすべきことに取り組んでいる人たちを大きな心で応援できる人になりたいなと思います。

先輩からもらったものは後輩につないでいかないといけませんね。
表面的に持ち上げられて喜ぶ人間にだけはなりたくない。
それに乗じて意味もなく年下の人の足を引っ張ることでしか自分の存在を確認できないような人にもなりたくないですね。

でも媚びることもしません。(笑

年齢にかかわらず、いいものは素直に褒めて喜ぶ人でいたいと思いました。
先輩方に改めて気づかせていただきました。
ありがとうございます。

うちの神様たちです



2019/01/09

1月7日

今から14年前の2005年から2006年の年越しはカンボジアで過ごしていました。

年が明けて1月8日、父から電話があり、1月7日に母が亡くなったと言われました。
元旦には母から電話もありましたが、他の人たちと会っている最中だったので、会話もそこそに切ってしまっていました。今となっては心残りでなりません。

父から伝えられる事実がなんのことかまったく理解できず、それを全身で拒否する自分がいた感覚を今でも思い出すことがあります。

その日から数か月間の自分の記憶が今でも曖昧です。

父の電話を受けて、翌日の便で息子を連れて帰国しましたが、どうやって関空までたどり着いたのか本当に覚えていません。

母はとても元気な人でした。
茶道と華道の講師をしていて、和歌山にある世界遺産熊野古道の研究もずっと昔からしていたので、古道を歩く方々のガイドをすることもありました。
母が亡くなったのは、その熊野古道を案内した直後のことでした。

わたしは幼いときから母が大好きでした。
父と母がケンカしても、理由はどうあれ無条件に母の味方でした。
学校のことやその日に起きた出来事は、なんでも母に聞いてもらいたかったし、母の考えを聞く時間も大切に思っていました。

でも思春期になったころ、少しだけ母を避けるようになりました。
茶道、華道の教室には当時何十人ものお弟子さんがいて、先生と慕われている母を見ていると疎ましい気持ちになりました。
今思えば、それはたぶん母を取られるような気持ちだったからなのかもしれません。
そして母をかなうはずもないのに、ライバルのように思う自分もいました。

結局は母が好きすぎて、そういうふうになったんだろうなと、今は思います。

シェムリアップに移住し、まったく教育されていない子どもたちに、生活習慣を1から教える日々になった時、気づいたことがあります。
それは、自分がいかに丁寧に育ててきてもらったか、ということです。

掃除、洗濯、片付け、食器洗いなどの家事を細かく子どもたちに教えながら、なぜ自分は自然とできることがこの子たちはできないんだろうと思いました。
教えてくれる人がそばにいなかったから、答えはそれしかありませんでした。
子どもたちが知らないことを知り、それを吸収すればするほどに、母の丁寧さを感じていました。

ようやく子どもたちに基本的な生活習慣や他者の気持ちを考えて行動することなどが定着し始め、この様子を母にも見てもらいたいと思っていたころに、母が亡くなりました。

そんなわたしに「今も見てくれているよ」と言葉をかけたくなる人もいると思います
それはもちろん善意からですし、言いたくなる気持ちはよく理解できます。
それでも、「でももういないんだよ、会話がしたい、母の考えを聞きたい、まだまだ教えてほしいことは山ほどあった、それはもう一生叶わないんだよ」という気持ちになってしまうことも否定できないんです。
それだけ深い悲しみがあります。

母が亡くなって13年が経って、2014年に父も亡くなりました。
あまり好きではなかった父でしたが、母が亡くなってからはわたしの心のよりどころになってくれていたので、二人とも早すぎるでしょう、といつか会った時に言いたいと思っています。

息子が反抗期の頃、わたしは自分が母を嫌った時期を思い出していました。
子どもたちと接するとき、息子はそれをどう思って見ているんだろうという思いはいつも頭の片隅にありました。
お弟子さんたちをとても大切にしていた母も、もしかしてわたしが息子を思うような気持ちを持ちつつ、お弟子さんたちに接していたのかもしれないと、息子の成長と共に思うようになりました。

息子は今、私と離れて日本で暮らしています。
時々電話で話すこともあるのですが、よっぽどでないかぎり、話をそこそこにして切ってしまうことはしないようにしています。
息子も同じ気持ち、いやわたし以上にそうしてくれていると思います。


今でも問題に直面したとき、母だったらなんと言ってくれただろうと考えます。
それを想像しながら答えを見つけようとします。
時が経って、自分のやってきたことに納得がついたときに、答え合わせが完了したような気持ちになります。
母が亡くなり、ずっとずっと大きな宿題を抱えながら、時折こうして答え合わせをして前に進んでいるような気がします。


母のことを尊敬していますが、一つだけ文句を言わせてもらうとしたら、

死ぬのが早すぎた

ということでしょうね。


だからわたしは母と自分の生きてきた道のりを直接話したり、父と母に「早すぎたでしょう」と伝える日は、ずっと先にとっておきたいと思っています。
離れていた間に起きた出来事を山のようしておいて、話が尽きないように。
これからまだしばらくは、それをたくさん準備させてもらいます。


母からわたし、わたしから息子へ
つながっているものがあります

2018/12/27

明日を信じることができる

前回投稿からそんなに経っていませんが、今月中に書かないと今年が終わってしまうという焦りも少しあり、今日を今年の最後の投稿にしたいと思います。
自分勝手な投稿頻度にもかかわらず、お付き合いくださっている皆様、ありがとうございます。



先日、神戸のある大学の先生と施設勤務をされている方が、ご自分たちの研究の参考にと訪ねて来られて、いろいろな質問を受けました。

施設の創立時から今に至る歩みを時系列に説明していく中で、色々な記憶がよみがえります。

そこで出てきたキーワードが「図らずも」でした。

うちの施設は1998年の創立時、貧困家庭から子どもを受け入れて養育していました。
2000年にわたしが働くようになり、詳細は省きますがどういった子どもを受け入れるのかについて向き合わざるを得ない出来事がたくさんありました。
そんな中、現在の虐待児の受入れに舵を切り始めて15年ほどが経ちました。

内部の細かいルールやスタッフの構成、子どもたちの受入れに関する手続き方法など、一度立ち止まってはそのときの最善を考えるということを基本に進めてきたつもりです。

そして今、それらが「図らずも」カンボジアの福祉政策などの時流に添ったものになっていることに気づきます。

現在は「貧困」だけを理由に子どもを施設で預かることは、国の方針として推奨されていません。
子どもを預かる際の手続きも、そこに子どもがいるからと言って勝手に連れてきたり、その日から勝手に住み始めるということもできません。
(うちは福祉局、警察、村長などの証明を出してもらい保管しています)

外部からの訪問者に関してもそうです。
うちはかなり早い段階(2000年代はじめごろ)から、アポイントメントがない方の訪問はお断りしていました。

年に2回、福祉局から抜き打ちの査察が入ります。
子どもたちの住環境や栄養状態など生活の基本から、教育環境なども徹底的に調べられるのですが、最近特に聞かれるのは、入所する子どものバックグラウンド、訪問者への対応、そして卒業生たちへのモニタリングです。

バックグラウンドに関しては、そもそも養育の要請があった際に福祉局の許可を得ていますので問題ありません。
訪問者はすべてアポなしお断り、訪問者記録もつけています。
卒業生のモニタリング3年なども、うちは卒業してからも普通に交流があるので、あえてしなくても近況は把握している状態です。

代表的な3つの事柄をここに書きましたが、それ以外の細かなところも「いずれ福祉局の取り締まりが始まるから」あるいは「取り締まりが始まったから」といって慌ててそうしたわけではなく、もともとやっていたことがチェックポイントに合致しています。

カンボジアの社会はここ10年でも大きく変化しています。
子どもたちを取り巻く環境がどんどん変わっていくんです。
その変化に対応しつつも、自分たちの信じるものを守っていかねばなりません。

ただひたすら、その小さな積み重ねが今につながっていると実感します。

神戸の先生方よりももう少し前に、和歌山の高校の先生も来られて少しお話をしました。

そのときに2人で話したのが、つらいことやしんどいことの方が多いかもしれないけど、なんでここまでやってこれたのかというと、そのしんどいことの途中でも「やっててよかったな」と思えることが点々とちりばめられていて、その瞬間は辛いことがなくなったような気持ちにさせられてしまうからでしょうね、と。
なんとなくごまかされてしまいますよねと笑いながら、そんな話をしました。

何人かの先生方とお話する機会をいただき、図らずもやってきたことが今につながり、ときどきあるご褒美のような楽しいこと、うれしいことのおかげで少しでも前に進むことができる、そんな日々を思い返しました。

みんなそうやって生きているのではないかな、と思うんですよね。

少なくともわたしは、そういう日々に気づく瞬間があるから、もし今困難にぶつかっていたとしても、明日を信じて生きていけるのかなと思ったりします。

結局わたしの生き方とは、地味と言われようが、頑固すぎると言われようが、自分のペースを守って、一つずつ丁寧に重ねていくこと、です。
そして日々の小さい喜びを見逃さずに、明日を信じる力にしていくことなんだと思います。



今年も本当にたくさんの方々に支えられ、お世話になり、子どもたちを護る、そんな毎日を送ることができました。
関係してくださったすべての皆様に、こころからお礼申し上げます。
ありがとうございました。

皆様、どうかよいお年をお迎えください。
そして・・・これからもわたしたちとお付き合いいただけましたら、うれしく思います。