1月17日は生涯忘れることがない日。
併せて1月7日も。
1月7日は16年前に亡くなった母の命日です。
そして偶然ですがカンボジアでは虐殺政権からの解放日。
1月17日は阪神大震災の日。
今年であれから25年が経ちます。
今カンボジアの時間で午後6時前ですが、日本では午後8時前。
25年前の今日のこの時間、大学生だったわたしは当時避難所になっていた本山第1小学校の校舎から、母校である甲南大学の避難所に移動していました。
その少し前、夕方ごろだったように記憶していますが、本山よりも少し南西の方で火事がありました。
友人と2人で被害の状況を見ているときでしたが、消火活動の人手が足りなかったので、すぐに自分たちも手伝いに入りました。
火事というのはあっという間に火の手が回るというのをそのときはじめて目の当たりにしました。そしてとても熱かったあのときの熱風の感覚を、自分の皮膚が覚えています。
消火活動が一段落してから避難所に戻りました。
自分の住んでいた部屋は大丈夫だったのですが、人がたくさんいるところにいないと心細くて怖かったのです。
市の職員らしき方々がおにぎりなどを持ってきてくれましたが、絶対的に数が足りていなかったので大学生だったわたしは遠慮し、お年寄りや子どもたちを優先してもらいました。
学校の教室の引き戸を誰かが開け閉めするたびに、ガラガラという音におびえました。
地震が起きたときと同じような音に思えて、聞こえると体が震えました。
自分の中には震災というものが、そんな細かいことも記憶として刻まれていて、1月になるといつも同じことばかり思い出します。
話を始めるときりがないくらいに些細なことも口をついて出てきます。
6000人以上の方が犠牲になりましたが、その方々のご家族、ご友人など関係者にもわたしと同じようにそれぞれの記憶があるのだろうと思います。
和歌山にたどり着いたとき、わたしは地元の最寄り駅で泣いていたそうです。
「全部なくなった」と言って泣いていた、と母から言われました。
その日の夜は母と同じ布団で寝ました。
部屋のあかりはつけたままにしてもらいました。
1月7日母の命日が来ると、このときしばらく一緒に添い寝してもらったことを思い出します。
そして母に話しかけます。
「もうすぐまた震災の日が来るね」
1月17日が来ると毎年静かに思います。
「日々を丁寧に生きよう」
あのとき生き残った自分にできるのは、これからも丁寧に生きていくこと。
いつか母に会える日が来たら、「見ててくれた?」と聞きたいなと思っています。