2014/09/04

過ぎたときから贈られてくるもの その2


食堂のすぐ横にある語学教室には見慣れたチョムランの背中。
その背中にそっと寄り添うように一人の男性が座っていました。


ブンヤーーー!!

思わず名前を呼び掛けてしまいました。
あのときと変わらない笑顔で「コンニチハ」と日本語で挨拶するブンヤー。
少し大人になったような気がしたけれど、私にとっては前回の記事に載せた
写真と変わらぬ少年がそこにいました。

チョムランが何かを察するように私たちを食堂へとうながしてくれました。

ここにいた頃は学校の成績もそれなりによく、日本語の習得もなかなかの
ものだった彼。
残念ながら中学3年生で学校に行くことをやめ、うちを出て田舎に帰って
しまいました。
日本語は少し覚えていたものの、会話のほとんどはクメール語でした。


聞くともう今年で29歳になったとのこと。たしかに10年以上も経つのだから
当たり前なのですが。
うちを出たときは(もちろん両親の承諾がありました)実のお母さんからかなり
失望されたそうです。
そんな状況が耐えられなかったのか、その後彼は単身でタイに出稼ぎに
行ったと話していました。それも6年間も・・・。
今年に入ってカンボジアからの出稼ぎ労働者が数万人単位でタイ警察の
取り締まりにあい、強制的にカンボジアに帰還させられていましたが、彼も
その中の一人だったとか。

今は友人の手伝いでときどき車の運転をしているだけで定職はないと話して
いました。

私が離婚したことを告げると一瞬絶句して目を閉じていました。
そして開いた目には「でもどうしておかあさんは今でもここにいるの?」と
問いかけているようでした。

「みんなが助けてくれるからだよ。子どもたちが好きだし。」
尋ねられたわけでもないのに私がそう答えると、深くうなづいていました。


「なんで・・・ブンヤーはあのとき出ていったの?」
ずっと聞きたかったことを思いきって聞いてみたのはそんな会話のあとでした。

訪問してくる皆さんや講演を聞いて下さったことがある方はご存知かと
思いますが、私がここに来てから数年間は子どもたちの中でいさかいが
絶えませんでした。
それに漏れずに彼もどうしても仲良くなれない子がいたのです。

ある日その彼とブンヤーがケンカになったとき、ちょうど当時代表を務めて
いた私の元夫がプノンペンから施設の様子を見に来ていました。

勉強はできてもお手伝いなどをさぼり気味のちょっと悪ガキだったブンヤーは
深く理由も聞いてもらえずに一方的に謝るように怒られたというのです。

大人の前ではいい子を演じていた(とブンヤーは言います)仲の悪かった子を
日ごろから忌々しく思っていたブンヤーは謝ることができませんでした。


たしかに当時はそういったケンカがほぼ毎日、そして仲の悪い子たちの間には
交わることを拒むような見えない壁が存在していました。


私は前の夫と指導の仕方でよくぶつかりました。(悪口ではありません)
まずは話して聞かせるようにしていた私は前の夫から「そんなやり方は
ここでは通用しない」と小馬鹿にされていました。
それでも私は彼のやり方とは違い、怒鳴らない、殴らない、とにかく感情を
ぶつけて「怒る」ことはしない、と心に決めていました。

しかし一度かたくなに閉じてしまったそのときのブンヤーの心を開くにはまだ
十分な信頼関係がなかったのかもしれません。
古いスタッフなら知っていますが、私はまったく話さない子どもを前に何時間
でも話すまで待ったことが何度もあります。
でもそのときブンヤーはただ「田舎に帰りたい」と繰り返すだけでした。

あまり公言したことはないのですが、そのころ私は夫が怖かったのです。
感情的に怒鳴ることも多く、若かった私もそれに応酬することがよくありました。
そして次第に彼のそんな性格に疲れ(向こうも思っているでしょうね笑)
顔色を見ながらできるだけ怒らせないようにしてしまっていました。
彼のやり方に疑問があっても言えない、言ったあとの彼からの暴言で
自分が傷つくことを避けるようにしていました。



当時の様々な状況や私の未熟さも、ブンヤーが出ていく原因の一つだった
のだと思います。


(つづく)







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