2015/01/17

わたしの1・17

始発電車の時間にはまだ早く人の動きも感じられない早朝、机に向かう私。
電気が突然消え、その数秒後には激しい揺れ。
揺れが収まってから外に出てみると、自分の知っている風景はそこには
ありませんでした。
そしてその瞬間から住んでいた町の景色すべてが色のないモノクロに
変わってしまいました。
20年経っても消えることのない記憶です。

当時甲南大学の2回生だった私は翌日から始まる後期試験のために
徹夜で勉強していました。
一人暮らしをしていたのは学校のすぐ近く、東灘区でした。

今年で阪神淡路大震災から20年。

あの日試験がなければ地元和歌山の成人式に参加し、被災していなかった
はずです。

20歳だった私も今は40歳。
当時子どもだった人やその年に生まれた人たちも大人になりました。

それだけの年を経ても、神戸で被災した人の心の中からあの日の記憶が
なくなることはないでしょう。

私の友人たちは一人暮らししていた私とは違い、神戸が地元という人が
多く、震災後の苦労というのは言葉では表せないものがあると思います。
地元に帰った私には家族、暖かい家がありました。
たった20秒あまりの時間でそれらを失った人、命を落としてしまった6000人
以上もの人たちと私の間に何の違いがあるのか。
和歌山に帰ってからはそのことが頭から離れませんでした。


それから20年、税理士事務所勤務を経て、結婚を機にカンボジアへ。
今の生活を始めて15年が過ぎ、お手伝い程度に思っていた施設運営は
私の手に委ねられ、今日に至ります。
そして今でもずっとどこかで神戸を意識している自分と共に日々の営みが
あるように感じます。




右手の薬指にいつもあります
この指輪は当時の彼がクリスマスプレゼントに私にくれたものです。
サイズが大きかったのでお直しのために年末からお店に預けていました。
預けていたのは大丸神戸店。
元町にあるこのビルの様子も当時テレビや新聞でよく見ていたので、きっと
指輪はなくなってしまっているだろうと思っていました。
いつだったかは忘れましたが、営業を再開したあとでサイズがぴったりに
なったこの指輪が手元に戻ってきました。


一度盗難にもあったのに、不思議と私のところに却ってきたこともあり
今では肌身離さずつけています。



私は震災後の神戸に対して直接的な行動はなにもできていません。
大人になり自身の力を蓄えてから、地元神戸と3・11の被災地をつなぎ
復興事業に関わっている友人もいます。
他の友人たちも多くは語らないけれど、家族で大変な思いをして今の
生活を築いているのだと思います。
やりたいこともあきらめて違う道を選ばざるを得ない状況の人もいたと
思います。
神戸のあの日を境にすべてが変わってしまった人たちの体験には
一つ一つの物語があり、それはのちに伝えてゆくべき尊いものです。


震災後大学を卒業した私は、自分で決めたことをやりたいように生きてきました。
他人が何を言っても、私を信じてくれた両親がいました。
母は10年前、父は昨年亡くなりましたが、神戸の記憶と同様に私の心の中で
『丁寧に生きる』ことを示してくれています。


巡り巡ってカンボジアの子どもたちの成長に関わることになり、自分自身の
子どもにも恵まれました。
私にとって『丁寧に生きる』こと、日々を積み重ねることのできる幸せを伝えて
いくことが生きる意味なのかもしれません。

私の右手にある指輪はその気持ちを忘れそうになったときに、「ちゃうで、あかんで」
と教えてくれます。


私にとっての1・17は、自分の生き方についてもう一度向き合う日、自分の命がある
限りそれは続いていくのだと思います。


カンボジアと日本の時差は2時間。
こちらの時間で午前3時46分、黙とうを捧げました。

神戸に対して具体的にはなにもできていないけれど、あの日多くの人が犠牲と
なり、残された人の傷もいまだに癒えていないことを忘れずに、今自分と関わりの
ある人たちに当たり前のあるものの大切さ伝えていきたいと思っています。

それが私の1・17の物語なのだと思います。

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