2013/08/29

じぶんのやくわり③

その日の起床時間はたぶん午前3時ごろだったと思います。

真っ暗なプノンペンの街。
いつもは屋台や露店でにぎわう街並みに人影がまったく
ない中、少しの家財道具を積み込み、運転手さんとお手伝い
さんが1人ずつと夫、そして息子をだっこした私が乗り込んだ車は
緑のRAV4。

シェムリアップに通じる国道6号線は当時未舗装で、到着するのに
何時間かかるんだろうと言うほどのノロノロ運転でした。
あちらこちらに穴があり、車が壊れても修理できるような場所も
ないのですから無理もありませんでした。

きっとこの先に、なにかすることがある生活が待っていると自分に
言い聞かせて黙って座る私と、何もわからずにニコニコとご機嫌の
息子。
車での移動だったのは、私がシェムリアップで行動しやすいようにと
夫が買ってくれたRAV4を自分たちで運ばなければならなかった
からです。

青い空と緑の田んぼの中に時々突き出すやしの木。
延々とその風景が続きます。

ようやくシェムリアップに到着したときは日が暮れ始めた午後5時
くらいでした。
飛行機で飛べば1時間もかからない距離なのに、12時間以上も
かけたことになります。

今のスナーダイ・クマエは大きな建物が2棟、教室兼食堂、伝統舞踊
練習場、調理場と食料の備蓄倉庫である高床の小屋に加え、みんなで
造った庭やグラウンドがありますが、私が到着したそのときは
敷地の門をくぐってすぐに小屋が1つポツンと建っているだけでした。
植え木も花もない殺風景で子どもの育つ環境じゃないなという違和感。


車から降りると25人くらいの子どもたちが駆け寄ってきて言いました。

「こんにちは!おかあさん!」

日本語??

院内教育として日本語の授業を設けていたことは聞いていましたが、
そのときは先生も帰国してしまっていたので、まさか日本語で話しかけ
られるとは思っていなかった私は驚いてなにも反応できませんでした。
いまさら言うのもなんなのですが、私は子どもがあまり得意ではなく
普段からも積極的に子どもと遊ぶタイプではなかったのです。

TVが1台と日本から持ってきたノートパソコン、ネット通信に利用できる
携帯電話、そして息子の食料を保存するための冷蔵庫だけが私の
家財道具。
建設中だった新宿舎の1階にあった未完の部屋に運び込んで、ともかく
私の新シェムリアップ生活が始まりました。

ここで自分の役割を見つけたい。

行動してぶち当たってから考えるという性格は今も変わっていないよう
に思いますが、先にあるものがなんなのかまったく想像もできなかった
このときの状況はまさにそんな中で始まったのだと今になって思います。

カンボジアにはたくさんのNGOや諸外国からの支援が入っていると
言われています。
当時の私にはそんな知識はなく、自分がそういった活動に参加すると
いう意識もありませんでした。
施設は夫の志で建てたもの、私は人生を共に歩むパートナーのお手伝い
ができれば、そこに自分の役割があるのではないかという漠然とした
思いしかなかったのですから。

そういう意味では「カンボジアの人たちになにかしたい」「カンボジアの
社会的な問題を改善したい」という気持ちでカンボジアにやってきた
日本人を含む外国の人たちとは気持ちの温度差があったと思います。


家族がやっていることを家族が手伝う、それは当り前のこと。
そこに自分の役割を見出して生きていきたい。

要するに夫の役に立ちたかったのだと思います。

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