2015/01/31

15年前のおはなし

「博子さんはね、ただ毎日子どもたちに笑顔を振りまいていればそれでいいのよ」

今でもたまに思い出すんです、この言葉。

15年前、シェムリアップに来てまだ間もない頃の話です。

この言葉を発した人と初めて会ったのは日本でした。
まだカンボジアに移住する前のことです。
自分で言うのもなんですが、色白でふわふわした右も左もあんまりわかっていない
お嬢さんでした、私。

その後カンボジアでその人に再会したときにそんなことを言われたんですよね。


今となっては、

笑顔振りまいてるだけやったら今の運営はないやろ・・・

と、ただひたすら心の中で突っ込むばかりなのですが(笑


彼女が私にそれを言った真意はいまだによくわからないけれど、当時の関係性を
からめて考えると、私がその人の言いなりになっていればそれでよかったのだと
思います。

お嬢さんのご意見は必要ありません、と。


今なら笑って「そんなことしてたら何にも動きませんって」ってあっけらかんと言える
んでしょうけど、当時の私は落ち込みましたよ・・・。
私は飾り物なのか・・・と。


また別の方にも言われました。
「施設運営は博子さんには荷が重すぎる」

正確にいうと、私に言ったのではなくご丁寧にも私の両親にそんな内容のお手紙を
送ってくれたんですねえ・・・。
私は両親に申し訳なくて、泣きました。
自分の娘のことを他人からそんな風に言われて、両親の心中はいかばかりだった
でしょうか。


と言っても、私はただその人たちを批判するためにブログを書いているわけでは
ないのです。


私は去年40歳になりました。
過去の私にそういった言葉を投げた人たちの、当時の年齢に徐々に近づいて
いるわけです。

昔はここを一人で・・・
その頃の私と言えば、言葉もおぼつかなく、環境の違う場所での暮らしに慣れる
のにも精一杯でしたが、なにかしていたんです。
その「なにか」というのが、毎日来る日も来る日もとにかくやっていた『掃除』です。
朝6時に起きて、写真の部屋(写真に写っている面積の3倍くらい)を掃き掃除、
モップ掛け、必ず毎朝一人でやっていました。1時間くらいかかるんですけど、それを
してから朝ごはんが日課だったんです。

家の周りをほうきで掃いたり、ゴミを燃やしたりもしていました。
とにかく飽きることなくずっと毎日です。

子どもたちの洗濯(もちろん手洗い)の手伝いや、食事の後の皿洗いも。

そのときの私を知るスタッフは今でもそのことを覚えてくれています。
そして「今は私たちができるから博子さんはしなくてもよい」と言ってくれます。

「見せる」ことから「覚えてもらう」という作業だったのだと思います。
大人であってもスタッフは何から子どもたちに指導すればいいのかをわかって
いなかったんですよね。


当時何のスキルもない、経験もない私ができたのはそれだったんです。


『意味もなくただいるのだけは嫌だ』と思っていました。
だってそれってすごく邪魔な人ではないですか?
人様の国にのこのこと来て、邪魔するってなんやねん、と(笑

この気持ちは今でも変わらずに私の中にあります。


続けていると、「できること」が増えていくんです。
目についてくるんですよね、あれもできるかも、これも変えられるかも、と。
もともとのんびりした性格なので、次々に新しいことをするのは苦手なんですが
1つを終えるとまたもう1つという感じでした。

15年、ただそれを繰り返してきただけです。みんなの邪魔にならないように。


もし私がこの15年ただひたすら子どもたちに笑顔だけ振りまいていたら・・・とか、
荷が重いと言って投げ出していたら、たぶん全然違うスナーダイ・クマエになって
いたんでしょうね。

今となっては、そんな言葉をくれた人たちからすると15年前の私はそんな頼り
ない子に見えていたんだろうなと思います。

ではもし今、自分の近くに過去の自分と同じくらいの年齢の人がいて、今の自分
の目で見たときに未熟やなとか幼い考えやなと思ったとしたら・・・


自分がされたのとは違うアプローチで、その人に自分の意見を伝えるのだと
思います。

なぜなら自分には『悪意』がないから。
いじめてやろうとかいびってやろうとか思ってないから。

ただ先を生きている者として、こういうふうにしてみるのはどうかな?ということを
伝えておきたい、まあ要するにおせっかいなんですけど。
だから相手がそれを聞いてくれるか無視するかはその人次第だとも思います。

でも頭ごなしに「これだけしてればいい」とか「荷が重い」とか、言わない。
だってそんなこと言われて「そうですね」って素直に聞くとは思えないもの。

でも一つだけはっきりと言いたいのは「とにかくカンボジアのみんなの邪魔だけ
せんように気配りしようよ」ということです。


なんかうまく言えないけど、昔私にそういうことを言ったおばさまたちに思うこと。
(私もおばちゃんの年齢になってるけど 笑)

私なりにやってきたから、今の施設運営があるし、今の子どもたちがあるんだって
やっと言える自分になってきています。

そして何よりも、そんなおばさま方よりも、はるかに多くの人たちが、どう見ても
未熟な私を辛抱強く見守り、応援してくれたからこその今なんです。
あるときは励まし、あるときは褒め、そしてたまに苦言も呈してくれました。
そのどれもが私の頭にすっと入ってきて、進む道を示してくれるものだったように
思います。(褒められると困惑するけど、実は喜んでます 笑)

どっち側の人になりたいのか、最近はよくそんなことを思います。
答えは言うまでもないですよね。

たまに思い出す15年前のおはなしです。

悔しくても泣くしかなかった15年前より、ずいぶんとたくましくなったものです。




2015/01/17

わたしの1・17

始発電車の時間にはまだ早く人の動きも感じられない早朝、机に向かう私。
電気が突然消え、その数秒後には激しい揺れ。
揺れが収まってから外に出てみると、自分の知っている風景はそこには
ありませんでした。
そしてその瞬間から住んでいた町の景色すべてが色のないモノクロに
変わってしまいました。
20年経っても消えることのない記憶です。

当時甲南大学の2回生だった私は翌日から始まる後期試験のために
徹夜で勉強していました。
一人暮らしをしていたのは学校のすぐ近く、東灘区でした。

今年で阪神淡路大震災から20年。

あの日試験がなければ地元和歌山の成人式に参加し、被災していなかった
はずです。

20歳だった私も今は40歳。
当時子どもだった人やその年に生まれた人たちも大人になりました。

それだけの年を経ても、神戸で被災した人の心の中からあの日の記憶が
なくなることはないでしょう。

私の友人たちは一人暮らししていた私とは違い、神戸が地元という人が
多く、震災後の苦労というのは言葉では表せないものがあると思います。
地元に帰った私には家族、暖かい家がありました。
たった20秒あまりの時間でそれらを失った人、命を落としてしまった6000人
以上もの人たちと私の間に何の違いがあるのか。
和歌山に帰ってからはそのことが頭から離れませんでした。


それから20年、税理士事務所勤務を経て、結婚を機にカンボジアへ。
今の生活を始めて15年が過ぎ、お手伝い程度に思っていた施設運営は
私の手に委ねられ、今日に至ります。
そして今でもずっとどこかで神戸を意識している自分と共に日々の営みが
あるように感じます。




右手の薬指にいつもあります
この指輪は当時の彼がクリスマスプレゼントに私にくれたものです。
サイズが大きかったのでお直しのために年末からお店に預けていました。
預けていたのは大丸神戸店。
元町にあるこのビルの様子も当時テレビや新聞でよく見ていたので、きっと
指輪はなくなってしまっているだろうと思っていました。
いつだったかは忘れましたが、営業を再開したあとでサイズがぴったりに
なったこの指輪が手元に戻ってきました。


一度盗難にもあったのに、不思議と私のところに却ってきたこともあり
今では肌身離さずつけています。



私は震災後の神戸に対して直接的な行動はなにもできていません。
大人になり自身の力を蓄えてから、地元神戸と3・11の被災地をつなぎ
復興事業に関わっている友人もいます。
他の友人たちも多くは語らないけれど、家族で大変な思いをして今の
生活を築いているのだと思います。
やりたいこともあきらめて違う道を選ばざるを得ない状況の人もいたと
思います。
神戸のあの日を境にすべてが変わってしまった人たちの体験には
一つ一つの物語があり、それはのちに伝えてゆくべき尊いものです。


震災後大学を卒業した私は、自分で決めたことをやりたいように生きてきました。
他人が何を言っても、私を信じてくれた両親がいました。
母は10年前、父は昨年亡くなりましたが、神戸の記憶と同様に私の心の中で
『丁寧に生きる』ことを示してくれています。


巡り巡ってカンボジアの子どもたちの成長に関わることになり、自分自身の
子どもにも恵まれました。
私にとって『丁寧に生きる』こと、日々を積み重ねることのできる幸せを伝えて
いくことが生きる意味なのかもしれません。

私の右手にある指輪はその気持ちを忘れそうになったときに、「ちゃうで、あかんで」
と教えてくれます。


私にとっての1・17は、自分の生き方についてもう一度向き合う日、自分の命がある
限りそれは続いていくのだと思います。


カンボジアと日本の時差は2時間。
こちらの時間で午前3時46分、黙とうを捧げました。

神戸に対して具体的にはなにもできていないけれど、あの日多くの人が犠牲と
なり、残された人の傷もいまだに癒えていないことを忘れずに、今自分と関わりの
ある人たちに当たり前のあるものの大切さ伝えていきたいと思っています。

それが私の1・17の物語なのだと思います。

2015/01/10

ココナツもう見たくない問題

まさかこんなに日を置かずして次の投稿をすることになるとは・・・。
ゆるいブログを目指しておりますメアス博子です。


最近シェムリアップ在住女子の間で密かに流行っているココナツオイル。
気になりつつも手を出せずにおりました。

なぜならわたくし、ココナツが苦手、なのであります。

カンボジアに来るまではココナツを日ごろから意識したこともなく、ミスドの
ドーナツのココナツだって普通に頂いておりました。(と思います、たぶん)

私がシェムリアップに移住したのは、しつこいようですが2000年です。
引っ越してきて間もなく、原因不明の高熱を出しました。
昼過ぎにちょっと悪寒がするなと思い始めてから、夜には40度。
全身の関節の中に誰かがいて暴れてるんじゃないかと思われるような
気持ち悪い痛みと格闘することになりました。

翌日になっても熱は下がらず、病院へ行こうということになりましたが、当時の
この街には州立病院以外に大きな病院はなく、その州立病院もまるで野戦
病院のようなありさまで・・・・。

「あそこだけには行きたくない・・・」

うなされながらも完全拒否させて頂きました。

そこで当時の夫が私を連れて行ったのは・・・

とある小児病院。

まともなドクターがいて、検査もしてくれそうな病院はそこだけ。

担ぎ込まれた際にうっすら聞こえる病院職員と夫の声。

「この子は何歳だ?」
「25歳です」

「え?子どもじゃないやん!!」

見た目でわかるやろ!と、必死に心で突っ込んでました。


費用を支払うということで診察や検査はしてもらえました。

でも結局何も検出されず、謎の高熱ということでうちに帰されたんですね・・・。

その日から始まったんです。ココナツ地獄。
あまりの高熱に食欲もなくなり、水分以外を欲さなくなったわたくし。
夫の「気遣い」により、冷蔵庫の中はココナツの実だらけ。
来る日も来る日もただひたすらココナツジュースの生活。

1週間ほどココナツ地獄を味わって、ようやく微熱になったとき私の体重は
37kgにまでなっておりました・・・。
今と比べないでね♡


そのときの自分の顔が自分でも誰かわからんくらいに激変しておりまして・・・、

ココナツきらい

ココナツ飲んだらやばい

ココナツ一生飲まへん!!!!!!

となったわけです。

思い返せばたぶんデング熱だったのでしょう、あれは・・・。
太ももに赤い発疹みたいのもあったし、関節痛すぎたし。


それから14年、ココナツを見ると拒絶反応。
最近ようやくココナツミルク入りのカレーとかカンボジアのお菓子とかさほど
抵抗なく食べるようになってましたが、好んで食べるまでではありません。

この「ココナツもう見たくない問題」を克服するときがきました。

影響され屋さんな私は周りの女子たちがこぞって「いいよ」というココナツ
オイルについに手を出したのであります。

よく聞いてみると、口に入れなくても使える、というではないですか!
朗報です。

ヘアオイル、メイククレンジング、その他のスキンケアにもいけると。

90㎖5ドルのお試しサイズから
バージンココナツオイルは摂取すると、もともと自分の体内にある脂肪も
一緒に燃焼してくれるとかなんとか・・・

無類のコーヒー好きの私はコーヒーにちょっとたらすくらいならきっと大丈夫
だろうと試したところ・・・

ココナツ主張つよっっ!!!

一気にすべてが南国風味に。

しかし37kg時代からそうとう蓄えた私のお肉さま。
ここはひとつこのバージンココナツオイルとやらで燃えてなくなって頂きましょう。


ということで、私の「ココナツもう見たくない問題」解消への扉が開いたわけです。


カンボジアに住んでるくせにそれあかんの??っていうのは、ココナツだけ
じゃないんですけどね・・・。


(おわり)



2015/01/06

新年でしたね

このブログをご覧になってくださっている皆様、いつもありがとうございます。
年が明けたというのにようやく今日、今年初めての投稿です。
今年もこんな感じでゆるくやっていきますので、よろしくお願いします。


新年にあたって思うことを・・・

私は今年カンボジアで孤児院に本格的に関わり始めて15年という節目の年を
迎えます。

もう15年、まだ15年、思いは錯綜しますが、やっぱり「もう15年」かな。

結婚を機にカンボジア移住、首都プノンペンの生活からド田舎のシェムリアップ
(今とは比べ物にならないほどの超田舎でした)生活へ。
カエルの声を聞きながら一人で泣いていた私も、今では少々のことでは涙も
流さず、たまに悔し涙を流すと友人から心配されるどころか「鬼の目にも涙」と
つぶやかれるほどまでに強く成長しました。




日本やプノンペンに比べて広く感じるシェムリアップの空が好きで、まだフィルム
だった頃から空の写真をよく撮っていたのに、いつの間にかそれにも慣れて
気づいたらこの街には建物だらけ、空の様子もずいぶん様変わりしてしまいました。

今年は日本で新年を迎えず、10年ぶりでしょうかカンボジアで年越しをすることに
しました。10年前は「え?お正月って4月でしょう?」というカンボジアの皆様の
中で静かに迎えていた1月1日も、今ではバーストリートを中心にシヴォタ通りまで
身動きが取れない程の騒ぎになっているようですね。
人混みが大嫌いな私にとってはあまり喜ばしくない光景です(笑




お正月が過ぎたある日、少しだけ息子とゆっくり話す時間がありました。
思春期を迎えて少々難しい年頃ではありますが、今でも私と話をする時間を
持ってくれる優しい息子です。
昔の話をしているときこんなことを言われました。

「僕、覚えてるよ。ママが一人で部屋で泣いてたこと。」


今年17歳になる息子、半分大人で半分子どもですが、そんな微妙な感覚で
私の気持ちに寄り添ってくれたのかなと思います。
私に話しかける横顔はずいぶん大人びたように感じました。
この子が幼かった頃は私が抱きしめていたのに、今では時に私を抱きしめて
くれる存在でもあるのが不思議です。


年を追うごとに家族の大切さを感じます。
私にはもう父も母もいないけれど、二人が私の中にしっかりと残してくれたものは
私が存在する限り消えることはありません。
しかも私には息子やここにいる子どもたちがいて、彼らが二人からもらったものを
伝えていく存在でもあるんですよね。

街も、息子も、そして私の心の中も15年で成熟してきたのかな。


これからの15年、どんなふうになっていくんだろう。
自信家に見られることも多いけど、本当は迷いだらけで心細くてしょうがないん
です。
そんな自分も少しは出していける40代になりたい、かな。


ここで過ごしてきたからこそ得られた人とのつながりもたくさんあります。
どれだけぶつかってもぶつかるたびに深まる関係、どうしてそこまで私に
優しくしてくれるのだろうと思うような慈悲深い人たち、弱音を吐ける相手、
私たちのことを忘れずにいてくれる人たち、頻繁に会うわけではないのに
お互いになんとか会いたいと思い続ける関係。
人と人のつながりは複雑で尊いものであること、ここに来なければここまで
思うことはなかったかもしれません。

40代へ向けて、30代でもらってきたものを無駄にしない歳を重ね方をしたいです。


家族の幸せと健康一番で。


とりとめない文章になりましたが、新年ということでお許しください(笑

大切なものを強さと優しさで包み込めるような自分でいたいと思います。
この街のビミョーな変化にもなんとかついていきながら・・・(笑

年明けの夕陽

空の色、日々の違いにも気づける余裕を持ちたいな。

また今年もがんばりますか・・・。


皆さんにとって、大切な人たちと笑って過ごせるかけがえない時間が少し
でも多い一年になりますよう、遅ればせながらお祈りしております。

今年もどうかよろしくお願いします。
(次の更新は未定です・笑)