2014/09/05

過ぎたときから贈られてくるもの その3



施設を卒業した子どもたちはここで身につけたことや勉強したことを活かして
自立した生活を送っています。
ブンヤーはその子たちと自分の今を比べて、恥じているように思えました。

「おかあさんにずっと会いたかったけど、恥ずかしくて会えなかった」

そんな思いを抱えてもやっぱり会いたいと思ってくれたブンヤー。
思っただけではなく、本当に会いに来てくれたこと。
ときおり目を潤ませながら、昔のことや今のことを隠さずに話してくれました。


恥ずかしいことなんてないです、私にとって一度でもここで一緒に暮らした子は
みんな同じです。



最後に立ちあがったとき、彼を抱きしめて「ごめんね」としか言うことができま
せんでした。
彼は「おかあさん・・・」と小さい声で言っていました。

今年になって初めて小さい子どもを抱きしめることができましたが、それも
あってかブンヤーを抱きしめることに抵抗はありませんでした。
あのとき自分がブンヤーに対してもっとできたかもしれないことを
取り戻すような気持ちでした。




未熟さのために彼らに十分できなかった経験から、今の子どもたちに関わる
一つ一つを丁寧にしようと思うようになりました。
出ていってしまった子どもたちへの「ごめんね」という気持ちは今でも持ち続けて
いたことでした。
そのときの自分のいっぱいいっぱいでやってきたけれど、今の自分ならもっと
違う方法を考えたかもしれないと思ってしまうことがあります。



一つ一つの出来事に振り回されてしまうことが多いけれど、その集合体が
のちの大きな流れとなっていくことを思えば、何事にも丁寧に向き合おうと
思えるのかもしれないですね。
この再会が一層その思いを強くさせてくれました。



ブンヤーとは電話番号を交換しました。
これでまたいつでも会える、かな。
お互いにちょっとだけ歳をとりました 笑


なにもかもが精一杯だった20代の私よりも今は少しマシに、そんな自分に
なれていると思うので、またブンヤーとの関係を形作っていきたいと
思っています。



最後にずっと遠くもなく近くもない場所にいてくれたチョムランが言いました。
「おかあさん、ぼく、せんぱいとまたあえて、うれしいです」
チョムランの成長ぶりにブンヤーも驚いていました

ブンヤーが出ていったあの日が今日という日につながっていたことなど
そのときは考えることもできませんでした。
ブンヤーがくれた再会という贈り物に私はこれからどんな形で応えていけ
るのか、また一つここでのやりがいを見つけたような気持ちです。




(おわり)


2014/09/04

過ぎたときから贈られてくるもの その2


食堂のすぐ横にある語学教室には見慣れたチョムランの背中。
その背中にそっと寄り添うように一人の男性が座っていました。


ブンヤーーー!!

思わず名前を呼び掛けてしまいました。
あのときと変わらない笑顔で「コンニチハ」と日本語で挨拶するブンヤー。
少し大人になったような気がしたけれど、私にとっては前回の記事に載せた
写真と変わらぬ少年がそこにいました。

チョムランが何かを察するように私たちを食堂へとうながしてくれました。

ここにいた頃は学校の成績もそれなりによく、日本語の習得もなかなかの
ものだった彼。
残念ながら中学3年生で学校に行くことをやめ、うちを出て田舎に帰って
しまいました。
日本語は少し覚えていたものの、会話のほとんどはクメール語でした。


聞くともう今年で29歳になったとのこと。たしかに10年以上も経つのだから
当たり前なのですが。
うちを出たときは(もちろん両親の承諾がありました)実のお母さんからかなり
失望されたそうです。
そんな状況が耐えられなかったのか、その後彼は単身でタイに出稼ぎに
行ったと話していました。それも6年間も・・・。
今年に入ってカンボジアからの出稼ぎ労働者が数万人単位でタイ警察の
取り締まりにあい、強制的にカンボジアに帰還させられていましたが、彼も
その中の一人だったとか。

今は友人の手伝いでときどき車の運転をしているだけで定職はないと話して
いました。

私が離婚したことを告げると一瞬絶句して目を閉じていました。
そして開いた目には「でもどうしておかあさんは今でもここにいるの?」と
問いかけているようでした。

「みんなが助けてくれるからだよ。子どもたちが好きだし。」
尋ねられたわけでもないのに私がそう答えると、深くうなづいていました。


「なんで・・・ブンヤーはあのとき出ていったの?」
ずっと聞きたかったことを思いきって聞いてみたのはそんな会話のあとでした。

訪問してくる皆さんや講演を聞いて下さったことがある方はご存知かと
思いますが、私がここに来てから数年間は子どもたちの中でいさかいが
絶えませんでした。
それに漏れずに彼もどうしても仲良くなれない子がいたのです。

ある日その彼とブンヤーがケンカになったとき、ちょうど当時代表を務めて
いた私の元夫がプノンペンから施設の様子を見に来ていました。

勉強はできてもお手伝いなどをさぼり気味のちょっと悪ガキだったブンヤーは
深く理由も聞いてもらえずに一方的に謝るように怒られたというのです。

大人の前ではいい子を演じていた(とブンヤーは言います)仲の悪かった子を
日ごろから忌々しく思っていたブンヤーは謝ることができませんでした。


たしかに当時はそういったケンカがほぼ毎日、そして仲の悪い子たちの間には
交わることを拒むような見えない壁が存在していました。


私は前の夫と指導の仕方でよくぶつかりました。(悪口ではありません)
まずは話して聞かせるようにしていた私は前の夫から「そんなやり方は
ここでは通用しない」と小馬鹿にされていました。
それでも私は彼のやり方とは違い、怒鳴らない、殴らない、とにかく感情を
ぶつけて「怒る」ことはしない、と心に決めていました。

しかし一度かたくなに閉じてしまったそのときのブンヤーの心を開くにはまだ
十分な信頼関係がなかったのかもしれません。
古いスタッフなら知っていますが、私はまったく話さない子どもを前に何時間
でも話すまで待ったことが何度もあります。
でもそのときブンヤーはただ「田舎に帰りたい」と繰り返すだけでした。

あまり公言したことはないのですが、そのころ私は夫が怖かったのです。
感情的に怒鳴ることも多く、若かった私もそれに応酬することがよくありました。
そして次第に彼のそんな性格に疲れ(向こうも思っているでしょうね笑)
顔色を見ながらできるだけ怒らせないようにしてしまっていました。
彼のやり方に疑問があっても言えない、言ったあとの彼からの暴言で
自分が傷つくことを避けるようにしていました。



当時の様々な状況や私の未熟さも、ブンヤーが出ていく原因の一つだった
のだと思います。


(つづく)







2014/09/03

過ぎたときから贈られてくるもの その1

もう9月ですね。全然更新しないことをむしろウリにしよかと思う今日この頃。
マニアの皆様お待たせしました、約1カ月ぶりの更新です。


書こうと思っていることはいくつかたまっているのですが、すべてタイミングが
ありますので、何かが降りてきた瞬間でないとまったく筆が進みません(笑

思っていることはちょっとそのまま置いといて、今日書きたいと思ったことを
綴ってみます。
そして久々に連載形式にしてみようかと・・・。
そうすれば書かざるを得ないという・・・(笑
すみません、つべこべ言わずに書きます・・・。


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2000年4月末、まだ酷暑期の暑さの残るシェムリアップで私の新生活が
始まりました。
1998年から始まっていた施設の活動の中にいきなり入ってきたニホンジンの私。
子どもたちは25人前後いたと記憶しています。

あの頃ここにいた子どものほとんどが貧困農村出身、実家は子だくさんゆえに
養育ができないという理由で預けられた子たちでした。
「親がいるのになんで施設に来るのだろう」というのが正直な私の感想。

とはいえ、目の前に子どもたちがずらっといるわけで、そこから突き詰めて
考えている暇などありませんでした。

劣悪な衛生環境、栄養の不足した日々の食事、そしてなんといっても一緒に
暮らしているにも関わらずそれはそれは仲の悪い子どもたち・・・。

目の前の問題に対応するだけで終わっていく毎日でした。
今の施設を訪問した方にはまったく想像もできない、そんな場所。

2001年から2004年ごろまでの間に子どもたちがあいついで田舎に帰ってしまう
という事態が起きました。
親の都合で施設に入れられ、私が来たことで規則や時間割もできた暮らしが
窮屈だったり、あるいは一緒に暮らす子との折り合いがつかないなどの理由が
あったのだろうなと今は思います。
当時はなんとか環境をよくしようと必死だったので、そんな中で出ていってしまう
子どもたちに対して冷静にその心の中を見つめる余裕はありませんでした。



昨日の夕方スタッフが私を呼びました。

「博子さん、昔うちにいた子があなたに会いたいと訪ねてきましたよ」




数ヶ月前、あることがきっかけでその子と再会した卒院生のラーヴォから
こんな話を聞いていました。

その子とバイクで二人乗りしていたとき、彼はラーヴォに言ったそうです。

「おかあさんは元気にしているのか」、と。

そして、「僕のことは覚えてるか、会いたい・・・」、と。

ラーヴォは「おかあさんが忘れるわけがない、会いたければ会いに行って
みたらいい。きっと受け入れられるはずだから。」と答えたそうです。



彼とお別れしてからもう10年以上が経っています。
とても人懐っこくて、気がつけばそばにいたように思います。
感情がすぐに顔に出るので、誰かとけんかした時の険しい顔やうれしいときの
本当にニコニコした笑顔はよく覚えています。

当時のみんな
少しずつ仲良くなり始めた頃・・・
彼は写真の右はじ、黄色と白のしましまの服を着た子の後ろにいる
茶色いTシャツの男の子です。

少し緊張して彼が待つ階下の食堂に行きました。


(つづく)